安部幸明(1911-2006)

 
 2006年は、2月に日本を代表する大巨匠・伊福部昭の逝去という、邦人作曲家ファンにとっては大事件より幕を開けたわけであるが、その年の暮れ、もう1人の、「隠れた大巨匠」 とも云える安部幸明がひっそりと亡くなった。

 管弦楽ではCDの1枚も無く、私は安部を紹介したサイトを先に読んでいたこともあって、存在だけは知っていた。

 日本の作曲家たち8/安部幸明

 ナクソスよりようやく1枚めの作品集が出たのだが、そのサンプル盤を聴いて後、作曲者は旅立ったということである。わが国にはそういう不遇の実力ある作曲家がどれだけいるのか、どれだけいたことか、考えるだけで、情けなくなりつつ、なにより我々聴くほうが、もっと聴いて、聴いた者はひろめてゆかなくてはならないという想いを強くした。

 さて、片山杜秀によるナクソスの解説や上記サイトによると、安部は当初チェロ奏者を志したが、マーラーの弟子であるプリングスハイムや、ローゼンシュトックの影響で指揮や作曲をやりだした。

 作曲においては、プリングスハイムより厳格な西洋和声を学んだので、ドイツ流儀に徹し、新古典的な作風になった。かつ、チェレプニン楽派とも呼ばれた、日本には日本の、アジアにはアジアの美学があり西洋音楽の作曲といえどもそれに従うべきだという風潮には、批判的だったという。

 大意、曰く 「日本人が西洋流儀で西洋風に作曲したっていいじゃないか」 

 そりゃそうだ(笑) 西洋の亜流にならなければ、面白ければ、それで良い。お客としては、曲が良ければなんでもいいのである。

 12音時代においては、彼が批判したチェレプニン楽派の雄である伊福部と同じく、不当に作品は貶められた。どっちにせよ調性の作品は、何であろうと、現代表現ではないと思われていた。無調・12音は、それはそれで混迷と不安の時代には価値や意義のあるものだろうが、過剰反応的な意識が過ぎ去った今、埋もれたお宝を発掘して行く時代が来たと云えるだろう。

 安倍の交響曲は番号付が2曲、番号無しの事実上3番が1曲ある。

 第1交響曲(1957)
 第2交響曲(1960)
 シンフォニエッタ(1965)


第1交響曲(1957)

 安倍の交響曲は、ドイツ流といえども、祖師であるマーラー流ではなく、ヒンデミットにも通じる新古典的なもの。1番は均整のとれた3楽章制で、きれいにアレグロコンブリオ、アダージェット、ヴィバーチェ・アッサイが並び、20分ほど。いわゆる小交響曲といってもよいほどの、軽快なもの。

 第1楽章、序奏なしでいきなり、リズミックに呈示される第1主題は、なるほど新古典派らしい簡明なもの。確かに芥川也寸志を彷彿とさせ(もちろん安部が先輩)、第2主題のウィンナワルツ風のものなども、戦中派の存在感ここにありといった感。ファゴットより始まる展開部が、さっぱりと進んで豪快に盛り上がるものではないのも、ドイツ古典流か。再現部は、オーケストレーションを変えてきて雰囲気が変わり、藝が細かい。コデッタを経て、コーダへ。ここも雰囲気を変えて、緊迫感が出る。なにより、全体をつらぬくこざっぱりとした清潔感が嬉しい音楽。

 2楽章は、チェロの印象的な旋律が重苦しく、ソ連音楽のようでもあるが、リリシズムにあふれた、端整な姿勢が、ここでも潔く展開される。元はチェロ奏者だったという安部の、チェロの扱いが絶妙。木管やホルンもからんで、なんとも不思議な音調を奏でて行く。作曲者曰く 「少年時代の追憶」。それから冒頭のチェロ、木管が再現される。この、どこかアラビアンな感じにも聴こえる音調は、主題がドーリア調に由来するからだろうか。最後に少しアレグロとなって、また冒頭が再現される。

 速度を増した終曲は、主題、展開、オーケストレーションとも、完全に正統派新古典20世紀音楽であり、欧州の作品に引けをとらない出来ばえ。ここまでの作品が書けるのならば、日本民族主義を標榜する必要もない。

 木管の軽快な上下に踊る第1主題から始まり、金管とスネアドラムの豪快な第2主題。作者曰く 「蒸気機関車のオスティナートリズム」 がシュポシュポと続く。ホルンやトランペットが鳴り渡る様は、イベールに近い。展開部は小フーガ(フガート)だ。スパッと終わって静かになると、速度を落としてコデッタ、そして再現部。第1・第2主題を少し展開させつつ繰り返して、速度と音量を落とし、室内楽的な響きから、終結部は強奏で明るくジャン!

 っていうか芥川だろ! これ! 也寸志! パクったと云え!(笑)

 それは冗談だが、交響曲とは、他の音楽に比べて理念も形式も抽象的にならざるを得ないがゆえに、その作家の精神が如実に表される音楽で、重要なのだが、この曲も、まさに安倍の決意表明というか信念の結晶のような、素晴らしい音楽である。曲風としても、聴きやすいし、簡明ながらもしっかりと完全なる技術に裏打ちされた、確かな存在感と、歯ごたえ、そして満腹感のある音楽は、ドイツ古典派を聴くに匹敵する充実感を与えてくれる。新古典派交響曲としても、少なくともブリテンプロコーフィエフに比肩して劣るところはない。

 日本人でこのような曲を書く人がいたというのを知っただけでも、誇りに思う。 


第2交響曲(1960)

 3楽章制で、25分ほど。年代的にも作風的にも、1番とシンフォニエッタをつなぐものといえる。新古典的な正確に、安部が戦後に規範としたオルフの精神によって、ドイツ流ながらもオスティナートと明朗な旋律とバーバリーなリズムとが、最終的に自作のシンフォニエッタで、日本的な味わいとして昇華される。

 1楽章、アレグロ・エネルジーコ。軽快でどこか上品で、かつ雄々しい絃楽による上昇旋律の第1主題がしばし続く。第2主題は一転して、オーボエによるコケティッシュなもの。ペトリューシュカ的なトランペットの合いの手も面白い。第1主題がやってきて、展開部へ。第1主題をメインに扱いつつ、第2主題も現れて対比する。ここは古典的に、あまり複雑な展開は行われない。どちらかというと、主題の変形といった程度に聞こえる。再現部では両主題を順番に扱って、ここでは小展開が行われつつ、短いコーダへなだれこむ。

 2楽章はアンダンテ・トランクィーロ。変奏曲だそうである。演奏時間が最も長い楽章。コーラングレによる物憂げな主旋律に、ダルな様子で金管などがからみつく。それから変奏が始まる。さいしょはゆったりとした、優雅な踊りだが、ムーソルグスキィの展覧会の絵によるヒヨコの踊りめいた高速のひょこひょこした部分を経て、どっしりとした亀の踊りのような部分へ。そこからゆったり→ひょこひょこへ短く戻って、亀踊りへ行くが、亀はやや優雅に変化する。最後は緊迫感を増しつつ、おどけたファゴットから速度が上がって、アタッカ。

 3楽章はプレスト。アタッカで続く。高速の安部好みの楽章で、ここでやや日本の祭囃子的な旋律が登場。これが第1主題。第2主題も木管による速いもの。展開部では、息の長い展開ではなく、短く寸断された主題がバラバラと断片をまきちらしてゆく。両主題が小展開しながら順に現れる再現部を経て、速度を増したコーダで混乱を演出しつつ、突き進んで終わり。


シンフォニエッタ(1965)

 こちらは、4楽章制でさらに新古典主義的な内容。しかし、この時代の作風として、技法は伝統的なものだが、旋律などが、日本的な雰囲気や情感を醸し出してきていることが、最大の特徴か。ついに安部も、「日本的なるもの」 を無視できなくなってきたというか。4楽章制で、30分ほど。シンフォニエッタなどとあるが、立派な第3交響曲だ。

 いわゆる日フィルシリーズの一作。

 第1楽章、ストラヴィンキーの初期バレー音楽のように壮大で、打楽器と金管によるリズム感たっぷりのセンスの良い出だしからまず大いに惹かれる。アレグロコンブリオ。続く絃楽主体による第1主題へからむ、小気味の良い打楽器や金管の扱いも素晴らしい。近代管弦楽の伝統を、この日本で聴くことのできる感慨と喜び。ソナタ形式だが、これも見事なまでに簡潔・明瞭で、まさに音楽による音楽といった観で、安心して聴ける。第2主題は一転してやや暗めで、旋律というより短い動機の繰り返しのようなもの。展開部では、その第2主題が主に取り扱われる。やはり、あまり盛り上がらない、まさに経過部的な、古典的展開部。そんな展開はつまらないので(笑) すぐに再現部へ。第1・第2主題を繰り返し、小展開しつつコーダへ。ラストは打楽器が追いこみ、けっこうモダン。

 2楽章はモデラート。こういう軽妙洒脱な音楽に、重苦しいアダージョは似合わない。ここで安倍流の日本的情緒が聴かれることに注目したい。彼が努めて避けてきた民族的影響は、宮内庁器楽部の指揮の仕事で、雅楽に通じたことが所以という。従って、笙と篳篥による旋律のようなものが、特徴的な音調として現れる。主旋律は民謡調で、まずクラリネットに現れる。これはあくまで民謡調ということで、民謡からの引用ではない。中間部では同じくフルート、そしてヴァイオリン、ファゴットに現れる。それらの伴奏は雅楽調。これは面白い。安部が嫌っていたチェレプニン楽派もびっくりだ。

 3楽章はスケルツォであり、これもオスティナートと半音階、不協和音が適度にピリリと効いていて気持ちが良い。金管楽器の用法など、現代吹奏楽曲でも頻繁に出てくるもの。交響曲1番の終曲と同じく、これも「機関車音楽」なのだそう。まさしく、オネゲルの「パシフィック231」だ。ここにあるのは、機関車の描写ではなく、機関車のような物体の運動する様を、音楽で表現したもの。確かに、それへ類似する。激しくシリンダーが動き、巨大な鋼鉄の物体が猛スピードで疾走するような面白さ。確かにこのリズムは機関車だろう。

 ソナタ形式の終楽章はスケルツォ動機から派生した第1主題がまず雄々しく進撃。続いて、2楽章の日本的動機から派生した東洋風第2主題が、これもバリバリと進行する。従って、4楽章は両主題が勢いのあるもの。展開も二つの主題が絶妙にフガート風や、ファンファーレ風に取り扱われてゆく。けして大げさではなく着実に技術が積み重ねられるが、これが堅苦しくない。実に楽しい。面白い。才能もさることながら、もの凄い実力派だというのを、確信できる。コーダでも、まさにプロコーフィエフなみの大暴れになりつつ、しっかりと計算され尽くされた構成が光る。

 これは、正直唸りました。傑作であります。フランス・ロシアかどこかの近代交響曲といっしょに、メジャー指揮者とオケで録音されても、まったく遜色ない。

 本当に素晴らしい!!

 




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