オネゲル(1892−1955)


 英語読みではオネガーとなるようで、そのように書く人もいる。
 
 アルテュール・オネゲルを初めて聴いたのは、TVの芸術劇場だったと思う。小澤/サイトウキネンオーケストラでいつぞや「火刑台のジャンヌ・ダルク」をやって、それが放映されたので観た。音楽というより豚のお面を持った裁判官がブーブーやっていたので、それが非常に印象的だった。なんかすごく面白い音楽に思え、そのCDを探したがそのときは無かったので、カラヤンの交響曲2番/3番のやつを買ってきた。それで、オネゲルの交響曲にハマってしまった。ジャンヌは、再放映か何かを観たらそれほどでも無かったので、小澤/フランス国立管のものが出た時は買うのを止めた。
 
 オネゲルはスイス国籍の、在仏スイス人で、そういう意味ではベルギー人だったフランクやドイツ人だったオッフェンバックと同じような立場の人かもしれない。 
    
 港町ルアーブルに生まれ、幼いころより機関車やラグビーを好んだオネゲルは、同時に音楽ではベートーヴェンに深く傾倒した。プロコフィエフを近代のモーツァルトとすれば、オネゲルは近代のベートーヴェンといえるかもしれないし、そういう指摘をする人もいる。また本人はバッハへの傾倒も強く告白し、じっさいバッハを研究し、バッハ的な和声的対位法を駆使する。そのため、フランス音楽でありながら、ドイツ的な特徴を有していると云われるのかもしれない。

 フランス6人組として反ドビュッシーを掲げた中でも、ずば抜けた構築性、ポリフォニックな構造、暗めの音色などが特徴的で、シンフォニー以外では、わたしは特に機関車音楽の「交響的運動 パシフィック231」と「クリスマスカンタータ」が気に入っている。
 
 それ以外は、ちょっと私は馴染めない曲が多い。この人は、交響曲に向いている音造りをする人なのかもしれない。作品一覧の中では、舞台音楽と映画音楽がとても多い。特に映画音楽は、プロコフィエフなどと並んで、このジャンルの最初期の立役者の1人だろう。

 もっとも、おそらくほとんどぜんぶフランス映画であり、映画に明るくない私は、知っている映画は無い。
 
 また、「パシフィック231」を、デュカスの「魔法使いの弟子」のようなバラード的な描写音楽、あるいは、同じ「列車物」音楽として、スパークの「オリエント急行」や、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ第2番−4楽章:カイピラの小さな汽車」のようなものとして期待して聴くと、おおいに裏切られる。パシフィック231自体は日本でいうD51やC62のような機関車の車両ナンバーのようであるが、これは機関車の描写音楽ではなく、機関車の動く物理的な様子を模擬的にとらえ、オーケストラに写し取った物であり、交響的運動とはそれを意味する。だから、オーケストラの響きの動く様としては、機関車のスピード感や躍動感がよく伝わってきて面白いけど、列車の行く情景としては、それを意図していないので、あんまり、楽しくない。吹奏楽曲の「オリエント急行」のファンの友人がどこで情報を聞きつけたのか、聴いてみたいと云ったのでCDを貸したら「ぜんぜん分からない曲だった」という感想と共に早々に返ってきた。


第1交響曲(1930)

 1929年に初めての交響曲を書くまでに、すでにオネゲルは「ダビデ王」「夏の牧歌」「勝利のオラース」「パシフィック231」「ラグビー」という傑作をものにしており、1番とはいえ、堂々のシンフォニーといえる。オネゲルの交響曲は、「フランク以降のフランス産交響曲の伝統」ということで、すべからく3楽章制で、副題付も多い。
 
 1930年に完成し、かのボストン交響楽団創立50周年記念の委嘱作として発表されている。すなわち、他ではストラヴィンスキーの詩篇交響曲、プロコフィエフの4番(初版)、ルーセルの3番と同じ扱いだ。
 
 序奏無しで突飛なリズムにより跳躍的な主題がやおら登場し、第1の幕を開けるが、なかなか衝撃的だと思う。不協和音も炸裂しているが、形式がしっかりしているので聴きづらくはない。主題としてはギコギコ系とでもいうべきか、鋭利に音符を刻んで行く様が対位法的に聴かれるのは心地よい。オネゲルのアレグロ楽章に必ず現れる特徴でもある。

 アダージョでは重い深刻なオネゲルの一面が如実に現れるが、続く3楽章のアレグロで、やや持ち直して楽しげな主題も登場する。
 
 この急−緩−急の典型的な3楽章交響曲形式は、フランク、サン=サーンスデュカスらと共に、フランス式交響曲の伝統として、この時代を特徴づけている。それへインスパイアされた日本の作曲家も、また多い。


第2交響曲〜絃楽とトランペットのための(1941)

 この第2と次の第3は、第2次大戦に作曲がかぶっており、戦争音楽といえる。この時期の交響曲として高名なものではなんといってもショスタコーヴィチの7−9番、ヴォーン=ウィリアムズの5−6番、ストラヴィンスキーの3楽章の交響曲、ハチャトゥリアンの2番、等があり、日本では諸井三郎の2−3番が相当して、いずれも名作。
 
 1941年作曲の2番はなんとも奇妙な編制で、基本的には絃楽合奏のためのもの。オプションで、1本のトランペットがつく。理由は、戦時中で少人数でも演奏できるようにしたとか。誰だったか日本の評論家が、自分の絃楽合奏曲ベスト3が、この曲と、ストラヴィンスキーの「ミューズを司るアポロ」と、芥川也寸志の「絃楽のためのトリプティーク」だとか云っていたのが印象深かった。(そりゃ、我輩のようなただの近現代音楽好き。)
 
 これも委嘱で高名なバーゼル室内管絃楽団の注文で既に1936年に作曲を開始したとのことだが、完成までには5年を要している。

 さて、瞑想的な序奏の後、オネゲル得意の、ギコギコ節が炸裂。どちらかというと新古典的な主題で、ソ連音楽にも似ている。高絃のギコギコに低絃のギコギコが絶妙にからんできて、なんともいえぬ魅力を出している。

 中間部のゆったりした部分をへて、再びアレグロに到る。
 
 2楽章で、厳格なパッサカリアによるアダージョを聴き、再びアレグロの最終楽章へ。オネゲルのシンフォニーはみなこのパターンを繰り返すが、2番は旋律が悲哀に満ち満ちて胸を打つ。

 3楽章ヴィバーチェの最後、コーダの部分に、ポリフォニックに鳴り渡る絃楽オーケストラの他パートに埋もれがちなバイオリンによる高らかな主題を補うという意味で、トランペットが追加されているが、この効果がまた甚大というか、まさに苦悩から勝利へ到る西洋音楽の(さらには交響曲というものの)理想と典型を踏襲することになった。おそらくは、結果論なのだろうけども。(もちろん、プラッソンのようにトランペットの無い演奏もある。)


第3交響曲「典礼風」(1946)
 
 これぞまさに戦争交響曲の代表というべきもの。

 1945−1946年の音楽であり、戦争の勝利を祝うなどという単純なものではなく、戦争そのものへの激しい怒りの音楽となっている。個人的には、凶暴そして浄化的とでも云うべきカラヤンとムラヴィンスキーの演奏が、まさに決定盤。
 
 アレグロ−アダージョ−アレグロのオネゲル式は変わらないが、冒頭から音楽は飛ばす。詩篇よりとられた第1楽章のタイトルは、ズバリ「怒りの日」。オネゲルの交響曲にしては珍しく、打楽器が総動員されており、ここでも、鋭く鳴り渡るスネアドラムがショスタコばりに銃撃を表しているし、低音の金管も戦場のうねりを表し、弦楽器は逃げまどう市民の悲鳴のようだ。
 
 2楽章は「深き淵よりわれ呼びぬ」とあり、地獄の死の淵の暗黒より救済を求めて呼びかける死者の歌。兵士ではなく、非戦闘員の哀しみの歌。無差別攻撃で死した全ての市民……そこにナチスもソ連もアメリカも中国も日本も無く……つまり全ての無辜の市民に連合軍も枢軸軍も関係なく……捧げる祈りというように聴こえる。オネゲルの交響曲の中でも、もっとも真摯で感動的な音楽だと思う。特にフルートのソロによるマーラーの後期交響曲にも匹敵するパッセージが、泣かせる。
 
 3楽章には「われらに安らぎをあたえたまえ」と冠されており、前例を踏襲せず、アンダンテをもってきている。しかし、標題の通りとはすぐにゆかずに、激しい行進曲調の主題により、再び、怒りの行進が始まる。まるで絶望的で敗北的な金管によるパッセージだが、不屈の闘志を秘めているようにも聴こえる。

 それを支える低弦の凄まじさを、例えばカラヤンなどはすばらしく表現する。

 絶望的な行進は、荒野と化した都市によく似合う。そこより立ち上がらんとする人々の燃える心を表しているような、感動的な作品。最後には2楽章のテーマやフルートのソロも聴こえてきて、ささやかな安らぎを与えてくれる。


第4交響曲「バーゼルの喜び」(1947)
  
 1947年、再びパウル・ザッヒャーによるバーゼル室内管より委嘱を受け、前作とはうって変わって、明るい調子のものとなった。すべからく偶然であるが、特にベートーヴェンに影響された書き手の書く交響曲というものは、3番は重たくて、次の4番は比較的軽いものが書かれる傾向にあって、非常に面白い。
 
 ここでは、これまでの3作が外見的な表現法をとっているとすれば、オネゲルの個人的な内面が見えているようにも思える。
 
 1楽章はアレグロではあるが、長いミステリオーソの部分があって、これまでとは異なった印象を与えるだろう。和音もドビュッシーっぽくて、このような部分を聴くと、なにやらいわゆる印象派のようで、オネゲルはフランスの作家なんだなあ、などと思ってしまう。しかし、途中からちゃんとアレグロになるあたり、オネゲルはオネゲルだった。

 とはいえ、ホルンの伸びやかな旋律や、それを受ける木管の平和的というか、牧歌的というか、云いたくないけど田園的というか(笑) そういう旋律が、聴くものを朗らかにさせるだろう。
 
 2楽章も珍しくラルゲットという指定。低弦による動機の呈示がなされた後、それを決起として、なかなか面白い展開を見せる。中間部のホルンのソロによる旋律は、バーゼル地方の民謡だそうです。
 
 3楽章は単純なABA 形式のアレグロ。軽快な音楽です。オネゲルらしいといえば、軽やかだが相変わらず音程の飛びが激しいギコギコ旋律が聴けることでしょうか。

 全体的に、オネゲルには珍しい、新古典的でアポロ的なもの。


第5交響曲「3つのレ」(1951)

 4番完成後より病気を患ったオネゲルが、かつて1番を捧げたクーセヴィツキーの夫人のために委嘱された仕事だが、病気のため一度は断ったものの、なんとか完成にこぎつけたもの。しかし、内容は恐ろしく暗く、ペシミティックで、近代を代表する暗黒交響曲といえる。まさにベートーヴェンの運命交響曲の苦悩だけを取り出したような趣だ。
 
 副題の3つのレとは、各楽章の最後の音がそれぞれ小さなレ(D) の音で終わることに起因し、特に深い意味は無いそうです。また、その部分にだけ、またオプションでティンパニの使用が指定されているが、CDではよく聴こえない。1951年に完成。

 しかし暗い音楽で、オネゲルの中でも特に鬱度の高いものとなっているだろう。構成的には、最後の交響曲らしくこれまでの技法の集大成で、すばらしい対位法やギコギコ旋律を聴くことができる。
 
 やおら、総奏により、まさに悲劇的としか云いようの無い主題が荘厳に登場。

 1楽章は、グラーヴェ(重々しく・ゆるやかに)という指定があり、オネゲルの交響曲の中では唯一のものだが、そうでなくとも元より重々しい音楽に、わざわざそのような指定があるほどで、まさに重の中の重、暗の中の暗だろう。

 やがて現れるトランペットの警鐘のような、うめき声のような主題が、悲劇度を倍増。

 音楽は、これでもかと、人間悲劇を描く。知らぬ間にレの音がポツンと鳴って終わる。
 
 2楽章はいささかおどけた調子のラルゲットだが、中間部にアダージョを挟んでいるので、トリオを挟んだスケルツォ楽章ともとることができる。この点でも、急−緩−急のオネゲルの特徴は3番までであり、4と5はそこより独自に飛躍した形式へ挑戦していることが分かる。最後は消え入るようにレの音が鳴る。
 
 3楽章はこれまでの流れとは異なる、かつてのオネゲルの面目躍如のような激しいアレグロで、病気を思わせぬ仕事ぶり。なかなかカッコイイ金管のテーマも飛び出し、燃える。

 しかしまあ、最後は呆気なく、ポックリ死のようにレの音で終わる。


 全体的にオネゲルの5曲の交響曲はどれも同じような特徴に貫かれており、概して、暗く、悲劇的で、重い。だから、苦手という人もいるだろうし、作曲技法に幅が無いという人もいるかと思われる。

 個人的にはそういう作風が好きなので、けっこう聴いている方かと思う。

 しかし好き嫌いは別にし、やはり3番は傑作中の傑作であり、20世紀を代表する交響曲の1つであることに間ちがいなはい。次は2番と5番が同点。その次が4番と1番が同点で、好きだと告白できるだろう。



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