マルチヌー(1890−1959)


 いわゆる東欧というカテゴリーでは、チェコが群を抜いて優秀な音楽家を輩出していると感じるが、作曲家にあっても国際的な地位を築いているものでスメタナドヴォルザークヤナーチェクと枚挙に暇が無い。しかし、それ以降になると、共産化の影響もあってか、ややマイナーになる。ヨゼフ・スークと並んで、このマルチヌーもちとマイナー。もっと後にアメリカへ渡ったフサやネリベルと同じくアメリカの作曲家かと思われるかもしれないが、けっきょくチェコ〜フランス〜アメリカと渡り歩き、晩年は再びフランスやイタリアで活躍した後、スイスで没した。最後までチェコに帰りたかったようだが、それは叶わなかった。

 全体に多作家であり、交響曲はブラームス型の新古典風のものが6曲残されている。1番から5番までがアメリカで立て続けに作曲されており、形式的に洗練され、洒脱と軽妙に溢れていつつも、大戦前後の不安で辛辣な雰囲気も良く表している。


第1交響曲(1942) 

 クーセヴィツキー夫人追悼のために書かれたもの。4楽章制で、40分近い大曲である。50代で、初めて彼は交響曲を書いた。既に円熟期であり、技術的には申し分無い。

 不思議な上昇形の主題がなんとも独特の雰囲気を出している。端正な佇まいの1楽章に特に民族的な素養は見られないが、独特の響きはどこかヤナーチェクぽくもある。ヤナーチェクほど強烈ではないが。モデラートの楽想は順当なソナタ形式で、正統派の音楽を聴かせる。正統派の中にも、管絃楽法やシンコペーションの多い旋律に個性がある。あまり大きくは無い編成だが豊かな膨らみのある響きが、非凡さを表している。

 スケルツォ楽章に相当する2楽章ではアレグロからモデラートに移り、またアレグロへ戻る。アレグロ部は激しい舞踏音楽のようで、そこはさすがに民族(音楽)っぽい雰囲気。トリオであるモデラートは室内楽的である。トリオとスケルツォ部が何度か交錯する。

 緩徐楽章のラルゴは、なんとも沈鬱なもので、悲しみを表現する。絃楽の旋律は重々しく慟哭する。テンポが上がると、細かな旋律も登場する。全体に重苦しく、葬送行進曲も含んだ音楽である。1楽章冒頭の音形も登場して楽章を閉める。

 終楽章はアレグロ・ノントロッポであり、やや明るい調子が戻る。なんとも面白い主題が上手に処理される。シンバル、タンバリン、トライアングルの打楽器も上品だ。金管はホルンとトランペットしか無いが、重量感がある。それはオーケストレーションのうまさ。それでいて、やはり軽妙。ラグタイムっぽい部分もあって、アメリカの影響もあるのかどうか。後半は執拗に繰り返される半音に動く主題が盛り上がって大団円。かなりの正統(ちょっとアメリカン)シンフォニー。


第2交響曲(1943)

 1番から5番まで、マルチヌーの交響曲は連続して書かれている。それは、そういう注文があったからだが、ちゃんと注文通りに書かれているのも作曲者の性格や技術を表している。1番と異なり、時間は半分ほどの4楽章制で25分前後。クリーヴランドのチェコ人労働者のために書かれたという事である。

 新古典主義的な技法だが、なんかミョーな旋律群や、形式的な展開の中に突如として変化する曲調なども、相変わらず面白い。

 穏やかなアレグロ・モデラート。どこか晩秋の趣すら漂わせる哀愁の旋律。舞踊風の趣。室内楽的なオーケストレーション。主旋律の「マルチヌー的」シンコペーションも炸裂。打楽器の用法もブレがない。トライアングルとか(笑) 大きく盛り上がって(おそらく)展開部に到る。愛くるしい木管の旋律、シンコペーションが展開する。そのままアッサリ終わるのだけど(笑)

 2楽章はアンダンテ・モデラートで、本格的な緩徐楽章からは外れているも、落ち着いた穏やかな曲調が良い。ここでも、ドヴォルザークふうの田舎風旋律に、いきなりヤナーチェクっぽい尖鋭な響きが重なって、なんか妙w 中間部の、急にオドロオドロしくなる部分も何がなんだか(笑) しかし、基本は穏やかで美しい楽章である。

 3楽章はポコ・アレグロと指示があり、舞曲風ではあるがスケルツォではない。簡素な速い楽章で、緊張感の中にもおどけた風情が楽しい。

 4楽章もただのアレグロで、3楽章と同じほどの時間で終楽章としては軽妙であり、全体のヴォリュームを軽くしている。執拗に繰り返されるミョーな旋律がw 陽気に盛り上がって、アッサリ&大団円でフィナーレ。

 全体に、ソヴィェート社会主義リアリズムではないが、労働者たちが聴いても楽しめるような気楽で分かりやすいもので、ハイソなものではない。ただし、技術的には一流のものである。コープランドとかの雰囲気に似ているから、やっぱり多少は作曲者もアメリカナイズされたのだろう。


第3交響曲(1944)

 これは、作曲者が自身の交響曲の中では最も傑作だと思っていたようである。大戦前年の重苦しく苦渋に満ちた音調に貫かれているも、ベートーヴェンの英雄を参考にしたというだけあり、雄々しく時に迫力ある展開を見せる。クーセヴィツキーのボストン交響楽団指揮20周年記念の委嘱だそうである。

 3楽章制で、全体で30分ほど。1楽章は終末思想のような主題に導かれるアレグロ・ポコモデラートであり、独奏ピアノも活躍する。行進曲調で主題は進み、激しく不協和音も鳴る。第2主題は木管から主導され、途中でかなり不気味な雰囲気を醸す。展開部では両方の主題が確かな技術で上手に処理される。ここらへんは、さすがにマルチヌー、ミョーな音楽を書いていてもやはりカタイ。けっこうオドロオドロしいが、ラストは雄々しく締められる。

 2楽章はラルゴだが、これはかなりマルチヌーにしては重厚な響きを作っている。絃楽を主体に、ティンパニの葬送の太鼓も鳴り(英雄のような)、木管の悲歌も聴こえてくる。絃楽のフガート風の祈りの音楽は、痛ましくも美しい。叙情的ではあるが、ドライな響きで好感がもてる。だが、ザムザムとリズムが重苦しく刻まれ、葬送行進曲が再び起こり、その頂点で悲歌が再現される。

 3楽章は激しく音調の変化する終楽章で、現代的な厳しい音楽が繰り広げられる。アレグロからアンダンテへ到り、モデラート、ラルガメンテとテンポが雄大になってゆく。冒頭の曲調は一貫して戦闘のシーン、あるいは追悼シーンのような、とても緊張感のあるものである。中間部では穏やかな音楽が現れ、レクィレムのような清浄な気分となるも、伴奏がミョーでやはりマルチヌー(笑) そこから完全にラルガメンテで、アダージョ調となり、平和を求め、穏やかに終結する。戦闘の和音の余韻を残しながら。


第4交響曲(1945)

 4楽章制で、30分ほどの、戦争終結の寒気に満ちたような明るい作品。堅牢な構成と明晰な楽想でありつつ、やはりどこかミョーなのはマルチヌー節。

 ポコ・モデラートの1楽章から、朗らかで朝の目覚めのような喜ばしい気分がみなぎる。この朗らかさが、2番と共にマルチヌーの田園()笑 などと枕詞がつく理由なのかもしれないが、やっぱり突如として楽章の中に嵐が来たりして、侮れない。舞踊調になりつつ盛り上がって、終結は穏やかな気分に戻る。

 アレグロ・ヴィーヴォ−トリオ:モデラート−アレグロ・ヴィーヴォの2楽章は3部形式のスケルツォ楽章で、繰り返しが多用され1楽章よりも長い。スネアドラムの小刻みなリズムが現れたと思ったらザムザムと軍楽調になってみたり、アメリカンな陽気な音楽になってみたりと、なかなかカオス。トリオは牧歌的な装いで統一感を出している。アレグロの中に小トリオみたいなのがあるのも面白き構成かと。

 3楽章は緩徐楽章でラルゴ。順当な構成に安心する。やや暗い趣を醸し、全体に叙情的ながらも幾分乾いた感性を聴かせる。だが次第に明るい音調となってゆき、旋律もなにやら夢心地のミョーなものに(^ω^; 

 4楽章はポコ・アレグロで、カッコイイ音楽。しかしやはりマルチヌーは変わっている。面白い。構成は順当ながら音楽そのものがやはりミョーだ。旋律は一流で、作曲年代の割にはまっとうな西洋音楽(しかも新古典派!)だが、それを楽章に仕立てると、彼の独特の感性が光る。そこはとても近代的であるし、同じような方向性の作曲家はフランスあたりに実はごまんといるのだが、彼の作品は惰性に無く、推進力と生命力に満ちている。簡潔なのも良い。こういうのでゴテゴテやられても、とてもでは無いが聴けたものではない。

 作曲技術という点でも、マルチヌーは過小評価されている。


第5交響曲(1946)

 第2回プラハの春音楽祭にて、クーベリック指揮チェコフィルハーモニー管絃楽団演奏で初演された。3楽章制、30ほどの音楽で、構成としては3番に同じ。

 充実した1楽章はアダージョ−アレグロ−アダージョ−アレグロと変化に富む。不協和音からマルチヌーにしてはヲドロヲドロしく音楽は始まり、大戦中の不安と恐怖を示すようである。すぐにアレグロに到るが、ここはどういうわけかややコミック調。速い第1も緩やかな第2も、明るい開放的な主題で進行する。主題は明るく展開され、最後に開放的な雰囲気はまた重苦しいアダージョの再現で一変。だがそれもすぐさま英雄的に終結する。

 アレグレットの2楽章は、ここも1楽章の第1主題に似た、少しおどけた調子のものが、マルチヌー風の斜に構えた伴奏で展開される。フルートの独奏が特徴的。容赦なくシンバル、スネアドラム、バスドラムの軍楽調子が割り込んでくるのも、マルチヌー節。そこらへんの感性はマーラーに似ている。やたらとトライアングルが好きなのも含めて。中間部の夢見心地な楽想の、トランペットの輝かしいソロなどの感覚も、面白いしうまい。続いてその楽想は黄昏たヴァイオリンに引き継がれる。それから最初の楽想に戻り、トランペットや絃楽も短く再現され、終わる。

 終楽章は、レント−アレグロ−ポコ・アンダンテ−アレグロで推移する推移する音楽。冒頭のレント部は重いというより清浄なレクィレムである。3分ほどで、盛り上がってアレグロへ。ここは祝祭的な調子となり、チェコ開放の喜びに満ちているように聴こえる。それもすぐにアンダンテのレクィレムへ戻り、そこを推移部として、軍楽調も現れて、じわじわとフィナーレ(アレグロ)へ持ってくる。そのまま祝祭音楽で盛り上がってフィナーレ……と思いつつ、なぜか軍楽調のまま終わるw


第6交響曲「交響的幻想曲」(1953)

 これだけ、アメリカでは無くヨーロッパに戻ってきてからの作曲。当初は交響曲では無く、3つの交響的幻想曲という管絃楽曲だったようで、その後、新・幻想交響曲としようとしたがベルリオーズに失礼だというので、このような標題の交響曲となった。従ってここでの標題は、標題音楽ではなく古い楽想の名残という程度である。ボストン響の委嘱であり、55年にミュンシュ指揮ボストン交響楽団で初演された。同年、チェコではアンチェル指揮チェコフィルハーモニー管絃楽団で初演された。

 レント−アレグロ−レントの3部形式の1楽章は、ミュルミュルした幻想的な音形に導かれ、確かに交響曲というより映画音楽みたいな、自由な形式で進んで行く。アレグロになっても、幻想曲的な自由な発想は変わらない。豊かな旋律(ドヴォルザークのレクィレムからの引用だそうです)もあり、突如として狂乱する態あり、本当に自由で、楽想としてとりとめもないが、音調は一貫して統一感があり、ソナタ形式のようである。ヴァイオリン独奏の後、再現部となり静かに終結する。

 2楽章はポコ・アレグロと発想表記がある。絃楽のトレモロより始まり、フルートやヴィオラが主題を提示した後、印象的なオーボエのソロが来て、コラール主題の登場となる。スケルツォ楽章だが、楽想としてはかなり面白い。いきなり荒々しい曲調になったり、トリオ主題によって静謐な部分になったりする。

 3楽章は楽想の推移がはけ敷く、レント−ポコヴィーヴォ・アレグロ−アンダンテ−モデラート−アレグロ・ヴィバーチェ−レントとある。レント部では絃楽でキリエ主題が提示される。打楽器が入ってくると、トランペットが鳴らされ、緊迫感のあるアレグロとなる。すぐにモデラートになり、木管合奏により静かな歌が流れるも、またもすぐさまアレグロとなる。ここは、この前のアレグロの再現に近いが、トランペットはキリエ主題の逆行系を吹き鳴らす。頂点で銅鑼が鳴り、最後のレントへ突入する。そこは短く、冒頭の雰囲気を回顧して、穏やかに終わる。

 全体にやはり、これまでの堅実なナンバーよりずっと自由で、交響曲というより管絃楽曲に近いと感じる。


 1・2・4が4楽章制、3、5、6が3楽章制。時間はそれぞれほぼ30分前後だが、1番だけやや長く40分。かなりブラームスを想起させるものがあるが、構成や見た目は古典的だが内容は意外や斬新。それでも、トリッキーというでもない。プロコーフィエフの雑魚ナンバーより、はるかに良い曲たちである。(ただしプロコーフィエフの神ナンバーよりは遙かに劣る。)






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