第1交響曲(1884−1888)  −その平易性−


 マーラーのシンフォニーを、全集まで幾つも集めて聴き倒しているディープなファンにとって、この1番やすぐ後の2番などは、かなり苦手な部類に入ると想像する。一般の聴き手にとっては、1番、2番などはとても聴きやすく、いわゆる入門曲として扱われている。それなのに、ちょっとマーラーを全体的に眺めることができるようになると、とたんにこの異質さが分かってしまって、苦手になるのだと思う。
 
 では1番の何が他のマーラーの交響曲に比べて異質なのか。

 検証してみたい。


1.分かりやすさゆえの異質

 時間的に50分を数えるマーラーの第1シンフォニーであるが、マーラーのみならず、クラシックそのものの入門曲として親しまれている。例えばこれより短いブラームスの3番等よりもむしろ、平易な音楽として紹介されているかもしれない。

 その分かりやすさの第一の要因は、旋律(メロディー)だろうと思う。1楽章から4楽章まで、親しみやすい、耳に聴こえやすい、素敵な歌謡的な旋律があふれにあふれている。それらをただツラツラと聞き流しているだけで、構成もドラマティックだし、それなりに満足する。それはそれで正しい楽しみ方だと思う。

 しかしそのような聴き方は、マーラーを聴き続けて行くうちに、だんだんと苦しくなってくる。第3番以降の諸曲においては、分かりやすい旋律を料理する作曲技術が熟成してきて、旋律のみならず、まことに見事な対位法、フガート技法、引用、和声、構造、そしてアドルノの云うところ 「主題の変形」 のさらに究極的な管弦楽法が現れ、後期になると人間心理の深い精神性と宇宙的な瞑想性が加わって本当に人間の身でありながら神様のような音楽となる。あたりまえかもしれないが、1番にはそれが無い。以降の諸曲を1番のようにただ聴き流していると、訳がわからなくなってくる。マーラーの他の交響曲がにわかに 「上級者むけ」 「難しい」 と云われるのには、聴き方の問題も関与していると考えられる。

 1番はマーラーの中でも、完全に浮いている。


2.構造としての異質

 旋律と構造の問題で、マーラーの1番を考える上で重要な事がある。
 
 この第1番は、その発生の当初段階において、交響曲ではなく交響詩だったのは、CDの解説でも読めばよく書いてある。交響詩は5楽章構成の巨大なもので、音楽の理解の元になるであろうと考えたマーラーがジャン・パウルの小説にちなみ、一時期「巨人」というタイトルが冠され、各楽章へタイトルと説明が記された事もある。後のマーラーの大きな特徴であるスケルツォ楽章をはさんだシンメトリー構成の萌芽がみられるが、この交響詩はあまり評判が芳しくなく、マーラーは改訂を余儀なくされる。改訂といっても、ブルーミネと題された2楽章をまるっとカットし、5楽章は大幅なカット等があるものの、全体には細かな部分を修正したぐらいで、楽曲の骨子はそれほどいじっていない。ただ4楽章制となった交響詩を、記念すべき「交響曲第1番」とした。

 ※前島良雄によると、マーラー自身はその手紙の中で、交響詩を最初から「交響曲」とのみ読んでおり、現在の1番を最初から5楽章制の交響曲として作曲していた、とある。交響曲としては破天荒すぎて、交響詩として発表せざるを得なくなったのではないか、ということである。ゆえに、交響詩につきものの「プログラム」が当曲には存在しない。「巨人」とは、曲の中身と関係なく、良かれと思って、イメージとして小説にあやかって後付でつけたものであり、結果として、例えば 「この曲のこの部分は小説の何ページ目を表現しているのか?」 などという馬鹿げた質問が頻繁に寄せられるに到り、マーラー激怒! 「聴衆に誤解を与える」 として、あっというまに撤回された。実質、交響詩「巨人」というのすら2年くらいしか使われてないし、まして交響曲に副題は無い。従って、未だに交響曲第1番「巨人」などと頓珍漢な折衷副題をつけている演奏会やCDは、マーラーに烈火のごとくどやしつけられるであろう。

 つまり、この交響曲第1番は、1つの楽章がカットされた状態であるのを認識しなくてはならない。通常の交響曲として、1楽章−スケルツォ−アンダンテ−フィナーレというのは、定型的なパターンであるが、マーラーの第1もそれへ倣っていると思わせつつ、中身は、たとえば他の交響曲で4楽章制として完成されたのを、どこかの楽章をカットして3楽章制にしてしまったに等しい。

 ここにじつはアンバランスが存在する。
 
 1番だけを聴いているとあまり気づかないが、他のマーラーの諸曲を聴いていると、なんとなーく、1番は座りが悪いような気かしてこないだろうか? こないという人は、ええ、その、すいません、聞き流してください(笑)

 旧2楽章「ブルーミネ」だけを現行の1番に「接ぎ木」したCDもあるが、望ましくは、旧交響詩「巨人」の稿を音にして聴くと、ちがいが分かって面白い。

 金子健志や前島良雄等によると、1番の演奏・改訂・出版の過程は以下の通り。

 1.初演・初稿、ブダペスト稿。1889年。下記のハンブルク稿に組み込まれ、現存しないらしい。単なる「交響詩」と冠され、「巨人」ではないそうである。
 2.ハンブルク再演、1893年。第2稿ハンブルク稿。2・3・5楽章改訂。特に5楽章に大幅な改訂がある。交響詩「巨人」。
 3.ヴァイマール再演、1894年。ハンブルク稿よりさらに微妙な改訂が施されているであろうことが予想される。交響詩「巨人」。
 4.1896年、ベルリンで初めて4楽章制で演奏。1899年にヴァインバーガー社より交響曲第1番として出版。(第3稿・初版)「巨人」ではない。
 5.決定稿。1906にユニヴァーサル社より出版。1楽章呈示部に初めてリピートが加わる。
 6.1967年、全集版として現在の版が刊行される。決定稿と全集版は第3稿に微妙な修正を施しただけのものだということです。

 残念ながら、ハンブルク稿(再演1回めの稿)の演奏は1種類しかなく(若杉/東京都響:フォンテック)しかも売り切れ再販予定無し。ただし、同じ交響詩でもヴァイマール稿というやつで、ハンマー/パノンフィル(HUNGAROTON CLASSIC HCD32338)という盤があり、こっちは比較的新しいので入手し易いかもしれない。ヴァイマール稿とは、ハンブルク稿のヴァイマール再演時に使われた譜面で、ただし、現存しているハンブルク稿と同じものか、違うものかは不明。CDには1893年バージョンとあるので、地味に同じだと思われる。

 そのような状態の中では、この構造的な違和感は、あまり関係ないかもしれない。なぜならこの違和感というのは、オーケストレーションの違いによる質感の違いも大きいが、大意として本来3楽章のスケルツォがなーんで2楽章〜〜? という程度のものでしかないので。

 それはさておき、マーラーの諸交響曲で4楽章制のものは1番、4番6番、9番であるが、たとえばここに7番があって、7番の2楽章がカットされここに入ってきたら、どうだろうか? カットされた原曲の7番が既に聴かれなくなっていたとしたら? 交響詩はつまり、そういうことである。

 ついでにいうと、マーラーの特徴である神業的なオーケストレーションは、1番ではまだまだ片鱗をみせているにすぎない。それがまた、1番をよくも悪くも単純にしている。
 
 ちなみに、交響詩と交響曲1番との「ブルーミネ」以外の違いでは、まず編制が交響詩が3管、1番が4管で、単純に楽器の数が少なく、オーケストレーションがさらに薄いといえる。

 従って、なかなかアッサリしている。

 また、スケルツォでは、交響詩は冒頭にティンパニが加えられ、野味を増している。

 交響曲3楽章の例のコントラバスソロは、交響詩ではチェロとコントラバス(弱音器無し)のデュオで、同じアイロニーでも骨太な表現になっている。

 終楽章では、ハンブルク稿と全集版では最後の打楽器のソロの小節がもともと8小節もあったのに、1番では半分にカットされているのが最大の改訂と云えるが、初演とハンブルク稿では、もっと凄い改訂がある。

 終楽章は大きく分けると急緩急緩急(+コーダ)の五部構成といえるが、それを急1緩1急2緩2急3とすると、緩2から急3に入るときに、鋭いビオラのパッセージがあるのだが、初演の際には、なんとそこに急1冒頭が再現部として挟まれていたらしい。ハンブルク稿にそれが残っていて、マーラーが自分で×を書いている。これは再現部そのものをカットしたという意味ではなく、冒頭を再現するのをやめた、という意味のようである。 


それらをふまえた旋律と構造の平易さ(そして隠された革新)

 それらの、良さも悪さも、1番を聴き、解き、理解するうえで、大切になってくると思う。これらのことをふまえた上で、さらに、どのようにして1番を楽しむべきか。

 旋律と構造の問題は、全楽章におよんでいる。部分的にみてゆこう。

 1楽章は、ソナタ形式であるのだが、その構造の単純なことといったら、涙が出てくる。マーラーの作曲技術がまだ未熟なのか、わざとそういうコンセプトの元に作曲したのかは不勉強にて分からない。分からないが、次段にある通り、どうもわざわざそのように狙って作曲したらしい。
 
 冒頭の霧むせぶ深い森のメルヒェン的な夜明けの情景は、前の大作「嘆きの歌」からの系統で、直系の音楽だと気づかせてくれる。交響曲の冒頭としては、かなり変わっている。

 ここでカッコーが鳴くが、音形が通常のカッコーよりやや幅の広い、異質なカッコーになっている。たとえば田園交響曲のカッコーが本物のカッコーと同じ音程で、マーラーのものは1音高く調子ッぱずれになっている。

 マーラーらしい皮肉なのか、マーラーの頭にはこのように響いていたのか。遠くから、そしてすぐ近くで、狩りの信号が鳴る。この遠近感。そしてティンパニの導入。完璧なまでに計算されたストーリー。このストーリー性というのが、当初交響詩として発表せざるを得なかった部分というか。
 
 そしておもむろに登場する第1主題だが、同時期作曲の歌曲「若人の歌」と同じテーマであり、民謡風で、非常に親しみやすい。すぐに覚えることができるだろう。この時代の主題としては、そして交響曲の主題としては、これもまた恐るべきほどの素朴さ、通俗さで、こういったところに当時の人々のオドロキと反感があったと推測される。この時代、交響曲ではブルックナーの荘厳さ、ブラームスの重厚さ、もの悲しさ、さらには交響詩としても、リヒャルト・シュトラウスの華麗で豊麗なる音楽が人々の斬新な耳を奪っていたのだから。クラシック音楽の革命児の前には、いつの時代も聴衆の保守的な耳がまず立ちはだかるのだ。ここでは、逆の意味での。

 続く第2主題は第1主題から派生したものということで、似たような音楽。あまりよく分からない。これらが実に愉しげな雰囲気の中、素朴で優雅な踊りのように響きわたる。

 耳に余裕があるならば、ぜひ軽やかに鳴り響くトライアングルを聴いていただきたい。トライアングルは 「マーラーがもっとも愛した楽器」 と云う解説者もいるほどに、全交響曲はおろか、歌曲にまで入って鳴っている。軍楽に魅せられたマーラーが大太鼓や小太鼓、シンバルを偏愛するのは分かるが、トライアングルは説明がつかない。鈴や、カウベルやハンマーのような象徴的な特殊楽器でもない。もっとも愛したというより、「マーラーにとって無くてはならぬ楽器」 のひとつだったにちがいない。マーラーはトライアングルの音色に、何を託していたのか。この澄んだ音色は、何をマーラーへ訴えていたのか。容易には答えはでないだろう。
         
 この呈示部はリピート記号がつけられ、反復するよう指示がある。マーラーの1楽章でも呈示部を反復することになっているのは1番と6番だけで、ワルターのように中にはしない指揮者もいる。もっともワルターは、上記にあるように、決定稿の前の、リピートの無い古い楽譜を使っていたのかもしれない。
 
 ところが、ここですでに1番の構造上の限界が来ている。展開部に相当する部分がとても弱く、あっと言う間にコーダになってティンパニのお祭太鼓で終わってしまう。細かく見ればそれらにも主題の小展開(あるいは変形)としての意味があるとの事なのだが、素人には難しい。ラストのティンパニのソロが、カッコー動機と何度の展開でどう関連しているのか、などと、聴きながら判断できるお客は、そりゃもうお客じゃなくてプロの音楽家ですよ(笑)

 時間配分を見ると分かりやすいかもしれない。1番の1楽章はだいたい早くて15分、遅くて18分ほどの音楽だが、呈示部で4、5分、反復してその倍。残りで展開部・再現部・コーダ。
 
 どう聴いても、アタマでっかちというか、ただ馴染みやすい旋律を流しているだけというか。そこのところをちゃんと考えて配分・表現している指揮者は、凄腕だと思う。この楽章は表現的には常套の手段をおおいにぶち破った問題作であるが、「聴こえ」 としてはまったく保守的で、しかも田舎臭い。上記の通り、同時代の作家としてリヒャルト・シュトラウスの華麗なる音楽を聴いていた聴衆にしてみれば、なんという野暮ったさに聴こえただろう。しかも、同じ野暮ったいとしてもブルックナーのような神聖さもなく、ただただ通俗で異質に聴こえたのかもしれない。交響詩、交響曲としても。
 
 このように1番の1楽章は構造的・構成的に、交響曲の1楽章としてまったく弱い。平易とはいえ、それにひそむマーラーの対位法性の萌芽も、意外と聴かせている演奏もあって面白い。特に1楽章と4楽章に、ふだんは目立たない意外な対旋律を鳴らしている指揮者があって、唸る。

 次に2楽章を聴いてみよう。

 ここの2楽章は旧3楽章のスケルツォで、シンメトリーの中心であるという事実を、アタマの片隅に置いておいてほしい。
 
 3拍子の無骨なリズムは、ボヘミアの舞踊を思い起こさせるが、これはスケルツォとしては常套手段で、ブルックナーもやっている。ただし、マーラーのスケルツォ楽章で、こんな単純で素朴で素直に聴いて楽しめるのは、コレだけなのだが。
 
 中間部にトリオを挟んだABA'の古典的な構成で、後の5番や7番のそれと比べると子どもが書いたような印象を与える。じっさい、青年マーラーの素朴さ、情熱、青い部分、すべてが微笑ましく鳴り響いている。もちろん、意図してやっているらしいのだが。この楽章は、やや全体に重い感じがするが、純粋に楽しめる内容になっている。

 さて、この曲の最大の問題は3楽章だろう。
 
 初演(初演では4楽章だが)でも、イライラしながら聴き続けて、ここでキレてしまった人がもっとも多かったという。

 陰鬱ながらもコミカルなコントラバスソロ。その前衛制を隠してしまってなお、不気味な旋律。これは葬送行進曲であるが、ベートーヴェンのような深い精神性は無く、ただただ不気味なだけであり、いまの我々にはパロディとかブラックユーモアで聴くことができるが、当時の人の耳にはまさに 「猟奇的」 「変態的」 と聴こえたとしても不思議ではない。
 
 それほどの異質さである。
 
 中間部では1楽章と同じく歌曲から旋律が採用されているが、同時作曲が正解で、自分の歌曲からの引用ではないようだ。マーラーは引用大好き作家だったが、同時作曲という離れ業もやってのけている。だから、歌曲も、交響曲と同じ旋律を使っているということ。つまり、マーラーは自分の旋律・楽想に対する執念にも似た、執着があって非常に興味深い。

 これも単純なABA'形式で、冒頭のテーマに戻って終わる。
 
 アタッカで4楽章だが、ここがさらに問題。
 
 長い。
 
 間ちがいなく長い。
 
 全体で50分の音楽で20分、つまり2/5を占めているが、それへ特段に意味が無い。2番の5楽章でも同じ指摘をするが、正直なところ、無意味に長いといえる。
 
 確かに、この交響曲はマーラーの大抵の曲と同じように、完全にフィナーレへ向かって力方向のベクトルが組まれている。のだが、この時点ではもはや当時の聴衆の眼と耳には太鼓とラッパが大騒ぎする騒音の中で1人マーラーが獅子奮迅の指揮をしているだけに映ったにちがいない。その姿を英雄の出現と観た人もいたのだが、それは大多数の失笑と不可解の対象となったにちがいない。

 しかし、現代の我々にとって、この4楽章こそ1番に慣れた人にとっての聴きどころで、「あの4楽章をどのように料理し、飽きることなく聴かせてくれるか」 この1点に1番を聴く楽しみが集約されるといっても過言ではない。ここを気合入れる指揮者は、まずハズレが無い。
  
 最初に4楽章のみの構成を記しておくと、第1主題が地獄変のような激しさ、第2主題が救済を求めるような甘美さ、であり、あとはこれが順に展開されつつ繰り返されて、ラストコーダ。急緩急緩急(+コーダ)の5部構成。これは実は、旧交響詩の全体と同じ構成であり、こんなところにも構成的な完成度の高さが伺えるが、4楽章制の交響曲になっちまって、ますます意味がなくなっている。

 2回めと、コーダの前の3回めの急の部分に、5番を先取るようなコラール主題があってメチャメチャかっこいい。しかし、個人的には、これも急緩急の3部構成で充分じゃないかと思っているのですよ。そうすると、時間的にも10数分でちょうどいいし、2楽章や3楽章とも構造的にバッチリ合うのになあ。などと。もっとも、それは当時から云われていたということで、リヒャルト・シュトラウスが同じ指摘をしたようだが、再現部が大事なのだという、こだわりをもってマーラーは答えている。マーラーが云うには、それと思われる部分……1回目のコラールの箇所……は、疑終止、なんと疑似フィナーレだそうだ! 斬新!

 コーダはいつ聴いても昂奮する。

 1番は過酷な運命の元にさらされている。交響詩としてはリヒャルト・シュトラウスの完璧な作品と比べられ、交響曲としてはブルックナーやブラームスのこれまた完璧なまでの作品と比べられた。1番は、交響詩でも交響曲でも、中途半端な立場に立たされている。が、それゆえに、愛すべき部分も多い。

 柴田南雄がいうには、「1番」にしては、他の作家の1番と比べて格段の前進制と完成度とのこと。それは、人それぞれ感じるところがあるだろう。私は、賛成半分、反対半分というところか……。

 マーラーの他の交響曲とは、次元のちがう聴き方をしなくてはならないのかもしれない。


3.マーラーの目論見

 さて、面白い現実がある。マーラーの1番と、ベートーヴェン賞におっこちた嘆きの歌を比べてみると、嘆きの歌のほうがずいぶんと、複雑な音響をしている。1番のほうが、いきなり、上記のように単純である。人によってはマーラーの未熟さを表しているとか云うほど、単純明解。
 
 しかし、マーラーは、どうしてわざわざ1番交響曲で、響きをいきなり平明・平易にしたのだろうか?
 
 マーラー本人の証言によると、こうだ。
 
 「僕は無邪気にも、これは演奏者にも聴衆にも分かりやすい曲だから、すぐに気に入られ、その印税収入で生活し作曲してゆけると思っていた。それがまったく見込み違いであることが分かった時の僕の驚きと失望のなんと大きかったことか!」(バウアー=レヒナーの回想記による。)

 「残念!」

 マーラーは、どうも、わざわざこのように単純に作曲したのだが、すっかりアテがはずれてしまったらしい。まさに4楽章の冒頭状態である!(笑)

 聴衆や演奏者を見下していた罰というべきか、己の奢りの報いというべきか。結局、彼の目論見は現代でも、この1番を賛否両論の渦に巻き込んでいる。そういうところでも、マーラーの最初の交響曲に実に相応しいと思ってしまう。1番の平明さは、本当にマーラーの弱点なのだろうか? それとも、本当はもっと複雑に書ける筈なのを、客ウケのためにわざと簡易にしたマーラーの目論見に現代のわれわれが右往左往しているだけなのだろうか?
 
 いま、マーラーの交響曲の中で1番だけが浮いてしまっているとするならば、わざわざ本人に云わせればレベルを落としたはずの1番が逆にハズしてしまったという意味で、良くも悪くも、マーラーの若気の至りであるということが云えるのかもしれない。 


オマケ

 N響首席ティンパニ奏者の久保先生の記事によると、マーラー現役時代のティンパニはもちろんいまのようなペダル式ではなく、手回しだった。しかしヴィーンフィルのものは、ハンドル式だった。ハンドルを回すとヘッドが下がるのではなく釜のほうが上がって音域を変えるものだそうで、いまでもVPOのティンパニ(パウケン)はコレ。いわゆるヴィンナーパウケンというやつです。ニューイヤーコンサートとかで見ることができます。
 
 それでハンドルを45°回すと、半音変わるというふうに設計されているということで、曲によってはペダル式よりも楽に音が変えられる。曲というのは、もちろん、じっさいにこのティンパニが出現しだしたころの現役作家、マーラーやR.シュトラウスというわけで、サロメの最後のティンパニ連打は、ハンドル式だと余裕でできる。ペダル式だと音がグリッサンドしてしまい、うまくゆかないそうです。逆に、グリッサンドを求めるバルトークとかは、ハンドル式だとうまくゆかない。
 
 さてマーラーの1番の4楽章に、1番ティンパニ(ティンパニが2人必要です)がへんな音形を叩く部分があるんですが、じっさいに演奏した打楽器奏者の人じゃないと分からないと思いますが、スコアのある方は、4楽章の練習番号22で、ティンパニを見てみてください。トランペット、ホルンのタターターという導入部より、1番がG−Dbと叩き、2番ティンパニも上のFを叩きます。そしてすぐさま、わずか3小節後に、1番がF#−Db、2番がE#と叩きます。ここは4/4なんですが、じっさいは2/2で、しかもテンポが速い。両ティンパニ奏者は一瞬のうちのペダル操作で、Gを半音下げてF#に、Fを半音下げてE#にしなくてはなりませんが、焦ってグリッサンドしまくり(笑)
 
 ウニョンウニョンいっちまって具合の悪いこと。

 このときに、ハンドル式だと、サッと45°回してもう終わりなんですよ〜。ペダルのようにゲージを確認したり耳で確かめたりしなくて良い。しかも2番ティンパニが1番ティンパニのハンドルを回すそうです。スコアにそのように指示があるとのことですが、興味ある人はドイツ語訳してみてください。ついでに云うとドラとかも豪快に鳴っていて、よく聴こえないんですがw
 
 マーラーはだから、ハンドル式のパウケンを想定して、作曲しているということなんですね〜。また、2番ティンパニは、このときはじめから2つのティンパニをEとF#設定してしまっても良い。おそらくマーラーはそのように念頭に置いているはず。
 
 また、その後の、1番ティンパニのホントのトレモロしながらのグリッサンドは、いまはペダルで楽ですが、本来は2番ティンパニの人が、ハンドルを回すらしいです。従って、ティンパニの配置も、そのようにしなくてはならない。ドイツ式(ステージに向かって左に大きいティンパニが来る)の場合は、左側に2番の人が。アメリカ式(向かって右に大きいティンパニが来る)の場合は、右側に2番の人がいる。

 深いなあ(笑)

 ちなみに、プラウコプフによると、ヴィーン音楽院においてヘルメスベルガーの指導によるオーケストラ実習で、ピアノ科だったマーラーはティンパニその他の打楽器を担当していたという。


実演で聴いた回数 2回
演奏した回数 1回(2番ティンパニ)



マーラーのページ

交響曲のページ

表紙へ