第6交響曲(1903−1904) −正統の中の破壊− 


 さて、いわゆる中期3部作においては短期間に一気呵成に書き上げられた観があるのだが、それぞれに個性的であるだけでなく、内容も充実し、実験精神にあふれ、前作までの集大成であると同時に後期3部作とも云える8、大地、9番への見事な橋渡しでもある。それらの成果あるいは帰結としての最高傑作が7番なのは云うまでもない事だが、6番と5番も名曲であることには変わりはなく、しかし、5番と6番は同列に聴くわけにはゆかない。5と6は自己進化のための対位法制の追及という表現せんとしている所はおそらく似ているとは思うのだが、方向性がまるで異なり、同列には聴けないが同じ土俵で聴くとその方向性の違いを確認できて面白いかもしれない。

 よって、5番の項と6番の項を同時に書いてみた。順番にではなく、同時に。そうすることによって、実は2卵生双生児のようなものではないかと勝手に推測してみた5・6番の類似性や相違性を洗い出してみようという、意味があるような無いような企画でもある。

 さて、6番には6番のみの特殊性がいろいろあって、まずそれをいくつか再確認してみたい。

 1.「悲劇的」という副題がついて回る。7番は「夜の歌」だそうだが、それは2・4楽章にそのように書いてあるかららしい。5番には副題は(いちおう)無い。もちろん、これらの副題は現代では商業主義の賜物であるが、6番にかぎり、ムシして良いものではない。

 2.6番は中期3部作の中で唯一の4楽章制でもある。マーラーの全体を見渡しても、当初から4楽章制なのは4番、6番、9番の3曲しかない。1番は当初は5楽章だったから除かれる。それらは、正統的な外観の中に非伝統性を内在し、ただ単にアヴァンギャルドなのではなく、恐るべき皮肉性を遺憾なく発揮している。

 3.6番のみの特殊楽器が使われている。ハンマーなんですが(笑)

 4.副題にも関連するかもしれないが、音楽の流れにストーリー性を認めることができ、マーラーの中の交響詩的なプログラム嗜好(標題性)や曲構成の統一性を認めることができる。

 ざっと見渡しても、これくらいは考察のタネが思いつくので、つらつらとつれづれなるままに考えて遊んでみたい。お付き合いいただければ幸いである。

 1.副題について

 悲劇的とはまたうまいことを考え付く。悲観的ではない。悲哀的でもない。どうしても悲劇的、らしい。

 これは初演当初からついて回っている、つまりマーラー本人が正式に認めた(つけたわけではないようである)タイトルのようだが、まったく日本人好みだ。これは明らかに内容というより曲調が「悲劇的」なのだろうが、日本人にはギリシャ悲劇のような(?) OH! NOOOO! という嘆きは向いておらず、「ヨヨヨ」 と裾の先を噛んでお涙頂戴が性に合っているはずなのだが、よほどピンときたのだろう、あまり聞かなくなった今でも国内盤にはよく冠されている。6番ファンはとっくに無視してるのだろうが、入門者には曲のイメージがつかみやすく良いかもしれないが、実際にはお世辞にも悲劇的っぽくはあるが悲劇的な曲ではないので、むしろ理解や共感の弊害になっていると思われる。ただし、6番の音楽的標題性を考えたとき、完全に否定するのは逆に間ちがっているのも確かなのである。(フローロスによる)

 つまり、ここでいう悲劇的とは、本当の劇であるカタストロフィを得る悲劇のような〜というていどの意味合いであり、音楽が悲劇性を表しているわけではないのではないか。また前島良雄の論によると、この「悲劇的」というのは、「終楽章も短調に終わる一風変わった交響曲の普遍的なあだ名」 とのことである。例:シューベルトの4番も「悲劇的」という。

 2.4楽章制の意義

 5−7の中期3部作で、なんで6番だけ4楽章なのだろうか? 元からの構想がそうだったというのが身もふたもない真相だろうが、たぶん、単純に思うのだが、5番で理想の5楽章形式を得られなかったマーラーが、6番ではとりあえずやめたのではないか? そして7番でついにマーラーは自身の理想の5楽章制を体現し、それは未完の10番まで、彼は7番の出来に満足していたのだろうか。

 この4楽章制はしかし、「6番の古典的性格」 とやらを演出することになる。この6番のどこが古典的なのかは実はよく分からないので、4楽章制ならなぜ古典的なのかも分からない。この古典的というのがプロコフィエフの1番のような意図しての古典的ならともかく、マーラーがこの内容で古典的にしようとしたとはちょっとおもえないので、聴く人がわかりやすくするために便宜的に性格付けしているだけなのではないだろうか。え、ソナタ形式や順当な楽章配置が古典的? なるほど、古典的な外観という意味なのか? 

 1楽章が純然たるソナタ形式ではじまり……という古典的な構成……。ソナタ形式は本当に古典的なのだろうか。伝統的……それならまだピンとくる。しかしこれまでの他のナンバーでもソナタ形式は使用されている。3番、4番、5番。1番2番だってそうだろう。それらのソナタ形式はむしろマーラー的革新性の足かせのように論じられているような気がするのに、なぜ6番に限って、むしろ好意的に6番の特徴づけのようにとらえられているのだろうか。わからない。はやり単に見た目の問題なのだろうか。

 云うなれば、6番ではなく6番のソナタ形式が、単純で古典的、そうことなのかもしれない。などと思った。

 それへたまたま4楽章制が重なって、6番全体を印象付けているのかなあ。それとも全てこの聴感効果までマーラーの意図だろうか。マーラーはアイロニーを強調する為の道具として古典的形式を選んだ。だとしたらすごいのだが。 

 3.ハンマー 

 ハンマーに関しては金子健志の本に詳しいのでそんなに深くは取り上げないが、さいしょなんと5回もあったこと、そしてマーラーが初演までいろいろリハーサルで、デカイ四角い太鼓みたいなものまで試作して音色を試し、例の指示……重く金属的ではない斧を打ち込んだような音……としてイメージされた音を探し求めて、けっきょくもっとも近かった音が、でかい木槌で木の台を叩く、ということだったのは、記さざるをえまい。

 つまり、当初からハンマーと想定した音ではない! これは大事だと思う。結果として、ハンマーにたどりついた。

 だからか、特にハンマーの音量にこだわる指揮者もそんなにいないように感じる。だからってたまに金属音をたてる演奏があるが、これはハンマー以前に指示違反である。

 重低音で、鈍く、重い音。一撃めのショックが突き刺さり、その後、地響きのような音、ウーハーを通したような音、中身の詰まった音(マーラーは太鼓の音を否定している!)、それが私の理想音だ。

 また、3回目の有無よりも、2回目の音量のほうが私には重要。フォルテの数で、1回目より小さな音だというのはわかるが、シンバルとドラは、ハンマーの音を消さぬよう注意するよう指示がある。これを守れてない演奏も多い。ハンマーの音は録音に入りづらいからか、なかなか難しいのだろう。1回目より音量が小さいのは分かるが、かき消えてしまっては本末転倒なのだ。難しい部分だと思う。 

 ハンマーの場所の前のリタルダントにも、もっさりこれでもかとタメる人(テンシュテット等)や、ちょっとタメてスカッと進む(ブーレーズ等)人、指揮者の個性が見られて、面白い部分である。

 4.ストーリー性

 タイトルとしての標題はないが、6番には明確なストーリー性が認められる。これはつまり何度も出てきているが音楽的標題性ともいうべきもので、交響詩的プログラム標題ではないが、明らかに音楽の内容や進行が一種の内在的標題を有している。これが5番や7番と完全に異なるところだろう。マーラーはついに、歌すらの力を借りず、音楽のみでストーリー性の確保に成功した。

 ストーリー性といっても、云わずもがなだが、具体的なストーリーやプログラムがあるわけではない。ただ、そのようなものが認められるというだけ。

 しかし、音楽がそういう説得力があるのは、やはり理解につながるし、じっさいわかりやすく、またかっこいい。ライトモチーフにも似た強烈な印象の主題がいくつも登場し、複雑に絡み合いながらも平易な表現という、まさに大楽必易の伊福部昭の精神性すらこの曲には感じてしまう。

 冒頭からラストまで、一切無駄な部分がなく、緊張感と陶酔感に満ちている。5番で新しい器楽表現を試し、6番でそれを練りに練り、そして、完成系としての7番へつながる。さらに、8番、大地、9番へつながる。すばらしい自己進化だと感服するほかはない。


 第1楽章の冒頭から、まったくこれまでにない斬新な表現がくるが、これはマーラーの全交響曲に云える。
 
 この、奇抜にしてなんの奇をてらうことの無い豪放、豪快な進軍を聴くだけで、雄々しい気持ちになる。それに続く緊張感のあふれた第1主題がまたなんとも云えぬ味わいがある。5番のせせこましいコチャコチャした感覚と書法はここには無く、あるのはただ恰幅のあるテンポ感と断然とした確固たる自信を持った分かりやすい構成で、時間的には大して変わらないはずの6番を5番よりもずっとずっと貫祿のある音楽とすることに成功している。途中で吹き流される雄叫びのようなトランペットのテーマは、しかし恐るべき半音進行で、既に待ち受ける戦いへの不安でもある。

 と、唐突に挿入されるいわゆる 悲劇のテーマ が、聴くものを惑わせる。打楽器の運命的に演出された打撃と、トランペットの悲鳴→嘆息へ。

 そう、これは悲劇なのだろうが、あくまで演出された悲劇であって、マーラーの敏腕オペラ監督としての巧みな演出効果が音楽にも現れているのではないか。

 そこからコラール風の序奏があって、やおら、美貌のマダムが登場! つまり第2主題。アルマのテーマ。この情熱的なテーマを聴くかぎり、アルマという人間の性格も聴こえてくるようだ。この力強さは、もはやユングフラウではない、強い女性の象徴のような音楽で、とてもマーラーらしい描き方だと思う。

 それから第1主題がちょっといじられて、なんと、待っているのはリピート記号! 
 
 実に1番以来の呈示部の正統な繰り返し。4番であれほどソナタ形式を茶化したマーラーが、なんとしたことだろう。しかしこれこそが、マーラーの厭味につきるパロディーとアイロニーなのは、もう云うまでもありません。

 たまにリピートしない指揮者もいるが、それはそれで特に違和感は無い。

 6番では、5番で培われた細かいポリフォニーが、規模を拡大して随所に現れる。息が長いというか。展開部もすっきりと分かり易く、4番や5番のような複雑さは無い。だいたい、6番は書法としては複雑だが、構成としてはまったく平明で、主題もあまり形を変えないで、全体の構築に役立っている。

 つまり、バランスが良い。5番の反省が活かされているような気がする。5番はデコボコだが、6番は真四角にきれいなイメージがある。ブルックナーの5番に通じるようなイメージがある。

 そして途中に、これも重要なファクターである、カウベルが登場する。ここでのマーラーの指示がまた詳しい。曰く、「とても慎重に扱わなくてはならない。ある時は1つとなって、ある時はバラバラとなり、遠くから(高く、また低く)響きわたってくる。放牧された牛の音をリアルに再現する。ただし、これは技術的な指示であって描写的な解釈ではないことを、ハッキリと述べておく」

 マーラー先生……(笑)

 そこまで指示しておいて、描写的ではないとはこれ如何に。アルプスの高みで朴訥となるカウベルは、天国へ行く際に聴く最後の娑婆の音である。
 
 それから2つの主題を組んずほぐれつにイジリ倒し、再現部においても微細にまさにマーラーとアルマの私生活のようにテーマが変化変幻し、やがてコーダに至ると、テンポも上がり、ティンパニが連打する中、アルマ主題の反転形のごとき音楽が叩きつけるようにして、楽章を閉じる。


 さて2楽章へ進む。

 あえて6番の特徴というところでふれなかったが、スケルツォ楽章とアンダンテ楽章の順番という大問題が、6番にはついて回るのは、6番を何種類も聴いている人にとってはなかなか重要な認識かと思われる。
 
 しかしこれはもう結論の出ない永遠の命題であるということも、分かっているのではないだろうか。少なくとも私は、もう好き好きでしかないとすら思っている。もう、スケルツォだろうが、アンダンテだろうが、両方とも市民権を得ているのではないか。
 
 ただし、このところ思うのは、スケルツォの場合とアンダンテの場合を、単純に比較してどちらが良いというようなハナシは、意味がないのではないかということだ。つまり、この両方の表現の違いは、単純に比べられるものではなく、創造者のマーラーですら最終判断まで迷いに迷ったというぐらいなのだから、これは両方のパターンが同時に存在するという結論で良いのではないか。

 ※なお、最終判断ではマーラーはスケルツォを第3楽章とし、最新出版譜もその通りとなっている。

 個人的には、1楽章からのあの興奮とテンポ感は、そのままスケルツォへ行くのが妥当に思うのである。あの1楽章コーダのまさに疾風怒濤の音楽は、止まることを欲してはいない。1楽章と2楽章が密接に結びつき、アンダンテのブレイクを経て、いよいよ終楽章の盛り上がりを体験するという、まさに起承転結そのままの、面白い小説を読むような愉しみを味わえる。一気呵成の一体感がある。もうその一体感を楽しむ為には1楽章と2楽章はアタッカでも良いぐらいだが、これはマーラーが、アタッカではなくちゃんと楽章間は休むようにと指示をしている。

 とはいえ、アンダンテでも、面白いと思う。そもそもマーラーの最終判断がそうだったというので、どちらが正しいのかとあえて問われれば、そりゃ、3楽章が「正しい」だろう。

 その場合は、そこで音楽の流れが完全に寸断されてしまうのを良しとしなくてはならない。気が抜ける。6番が、ガッシリ手を組んだような塊の音楽ではなく、もっとゆるやかなつながりの、淡い印象のものになるため、全体のバランスを変えなくてはならない。各楽章のつながりが希薄になり、小説というより、もっとドライな、エッセイというべきか、全体として軽い解釈になってしまうと思う。つまり、どうしても、流れの寸断により、のめり込めない。一体感は無いが、客観的に音楽を眺めることができるだろう。

 したがって、スケルツォとアンダンテの順番の入れ違いというのは、ただ順番が違うのではなく、全体表現の根本から異なる問題であって、どちらが良いとかいうレベルでは無いことに気がついたのであります。

 6番自体に、表現の方向性の違いで2種類の版があると云っても良いのではないか。

 2楽章スケルツォの場合、ドラマ性が重視され、1楽章と2楽章はどうしても連結して考えられる。そして間奏曲的なアンダンテとしての3楽章がきて、長大なフィナーレがくる。つまり、時間的にも、1+2楽章、3楽章、4楽章の3部構成になると考えられる。

 しかるに、2楽章アンダンテだと、これはどうしたって4楽章構成になる。つまり、より古典的なスタイルとなる。

 中間楽章が入れ代わるだけで、違う曲を聴くほどに、聴き方を変えなくてはならないと思う。

 ということで、どちらでも良いのだが、私は、スケルツォのほうが好きなので、スケルツォを聴く事にしたい。

 スケルツォ楽章は構造は音楽自体のリズムの複雑な5番のそれに比べて非常に単純化され、整然と音楽が進む印象があるが、逆に、変拍子がすさまじい。そのギャップが、平易な表現の中に難度の高い技術があるという一段とレベルアップされた音楽造りを感じさせる。

 また私が特に面白いと思うのが、トリオの鬼のような変拍子よりむしろ、その3拍子の扱い方。

 3拍子はメヌエットにしろスケルツォにしろ、西欧の民族舞踊のリズムを取り入れて芸術として昇華されたもの。日本には、この3拍子の動きというのが無いため、日本人はイマイチ3拍子が苦手と云われている。苦手というのは、その、演奏するのに。

 特にアマチュアのオーケストラや吹奏楽団体がよくやるのが、3拍子を全体に力んでしまって、123 123 と、ガチガチな演奏。もっとひどいのは、13 123 などとアクセントがバラバラ。これでは踊れない。つまりそれは、もはや3拍子ではない。

 ワルツがもっともイメージし易いと思われるが、正確にはアクセントというほどのものではなく、頭の1を弾み車でも回すように、押し出すようにブンと演奏すると、あとの23は、風のように通り抜けるだけ。ブンチャッチャー ブンチャッチャー と、なんの力もいらない。ブンに必要なのは強さではなく勢い。たいていブンは弦バスなのだが、チャッチャーのヴァイオリンあたりが何を勘違いしたか張りきってキーキーやると、音楽はメチャクチャとなる。もちろん、旋律部だって、音符に何も書いていなくとも、一拍目を勢いよくして、あとは流すだけでちゃんと音楽となる。

 それなのに、ああそれなのに。

 マーラーは何を思ったか、3から始まっている!  12 12 12……。

 これはどう考えても踊りの為の音楽ではない! 毎拍子分断された音楽なんて! 5番の3楽章とて、パロディー化されているとはいえ、れっきとしたヴィンナワルツだったのに、これはもはや、3拍子ではない!

 3拍子そのものをパロった、何か別物の音楽である!!

 とすると、こんなところに、私は7番への布石を見てしまう。音楽の形式や構造や概念そのもののパロディーの面白さ。何か表題や、天国の描写などの観念のパロディーではなく、音楽形式の固定概念の破壊。

 素晴らしい!! なんというアイデアなのだろうか! そしてそれを、完全に表現しきっているこの技術! 感嘆するほかはない。

 さて、ではそれをどのように演奏(指揮)しようか? これも面白い考察対象になると思う。

 このパロディー効果を面白いものとして強調するか否かにかかってくると思うのだけれども、棒さばきも颯爽と、3拍めを1拍めとして錯覚させるぐらいにサッサと進む場合、そして真逆に、3拍めをあくまでこれは3拍めであって1拍めではないんだ、つまりこれは踊りの音楽のフリをした、けして踊れない毒音楽なのだと、もう捻りや突き上げを加えた、空間をほじくるような指揮でガクガクしたものにするか。

 なんにせよ、聴衆は、うぇッ、うぇっ、とガクガクしながら付き合わされ、やっとトリオに入ってホッと一段落したならば、今度は拍子が変わりまくるという仕掛け! しかも音楽そのものは変拍子に気づかれないようにできている(?)から、聴衆は 「何かがおかしい……」 と眉をひそめながら聴くだろう。すげえ、7番の精神がここにも先取りされているのだろうか?

 もう云うことないッス、マーラー先生。

 あと、木琴(シロフォン)の響きが印象的である。鉄琴(グロッケン類)はよく使うマーラーだが、木琴は珍しい。6番と10番クック版に出てくるぐらい。

 木琴にはマリンバというのもあって、シロフォンより音域が大きく融通が利くので、近年はよくシロフォンのパートもこのマリンバを使う場合もあるのだが、このマリンバという楽器はアフリカ→ラテンアメリカ起源の楽器であり、シロフォン(ザイロフォン)はヨーロッパの民族楽器ストローフィドル由来であって音色が決定的に異なるため、ここは指定とおりシロフォンを使わなくてはならない。

 マーラーのアイロニーに満ちたガイコツ踊りを表すのに、これほど似合うものは無いし、それへ同じくガイコツを表すルーテが加わっているのだから、仕事に余念が無い。シロフォンはサン=サーンスも交響詩「死の舞踏」でガイコツの音として使っている。

 グロッケンシュピールは小さな鉄琴なので、愛らしい、メルヘンチックな音がするから、4番などでも大活躍だったが、このシロフォンの使用法も、管弦楽法としては、私はすごく面白い効果を上げていて、気に入っている。

 スケルツォ楽章は順当に スケルツォ−トリオ−スケルツォ−トリオ−静かなコーダと進み、木管から受けた楽想をティンパニと低弦がひっそりとした連打で閉めて終わる。この後、調の問題では4楽章がくるほうが妥当だという話を読んだことがあるが、調はそうでも、6番の示す重大な特徴のひとつ、ストーリー性で考えたとき、私は、起承転結の意味ではアンダンテ以外に無いと思うが、起転承結のようにバラバラになっても、それはそれでまた違う面白さがあるとも思っているのは前に述べている。


 では、アンダンテへと続きたい。

 時間的には、5番の4楽章と比べて、大して差は無いと思うのだが、まったく緩徐楽章としてのヴォリュームを保っており、見事な仕上がりとなっている。編成的に、弦楽合奏+ハープと4管との差なのだから、音色の多彩さという点では、6番のアンダンテに軍配が上がるのはしょうがないとして、音楽の作り方としては、断然上だと思う。やはり、かのアタージェットは、交響曲の緩徐楽章という役目をはじめから放棄していたとしか思えないのだが。

 基本となる動機としては2、3種類しか私には判別できないが、それを自在に駆使しており、また、対位法もより微細かつ自然で、素晴らしい。

 金管楽器も控えめな用法に徹しており、さらにここでは、1楽章に続き、本格的にカウベルが導入されている。本格的に,というのは、本来の意味で、ということ。つまり、聴こえる最後の娑婆の音である。しかも、2回、登場するが、2回目は他の楽器がフォルテなのに、カウベルだけ、フォルテからすぐにデクレッシェンドして、ピアノになってしまう。ここを、ここぞとカウベルも鳴らす指揮者もいてそれはそれで胸を掻きむしられるような激しい効果を上げているが、本来は、魂が天上へ行くのに、カウベルは、どんどん消えて行く……。つまり、地上がどんどん遠ざかっている描写なのだろう。
 
 標題音楽ではないのに、この描写的効果は、マーラーならではの魅力であり、6番の分かりやすさにもつながっている。あとは、静かに、視点だけを残して、魂は上へ上へと逝き、見えなくなってしまう。

 やはり私は、1楽章と2楽章スケルツォの興奮を鎮める為にも、そして、大いなるフィナーレへの前段としても、3楽章はアンダンテが相応しいと思う。ただしそれはストーリー性を重視したロマン的な聴き方による。6番の疑似古典性を楽しむのならば、やはり各楽章が分断される、2楽章アンダンテが、面白いと思う。


 さて、いよいよフィナーレ。6番の白眉はやはり、この楽章になろうかと思われる。

 4楽章は6番のなかでも、もっとも構成的に分かりやすくできている。楽想そのものはもっとも複雑なのに! まるでブルックナーのごときブロック構成で、巨大ロボが合体変形した印象すらある。

 2拍子の導入部では、1楽章にも登場した悲劇のモットーが再び呈示される。これぐらい露骨にやらなくては、聴衆は全曲の統一感は味わえないと思う。1楽章のテーマが回帰されるとは、このぐらいの思い切りがあると、効果は高い。

 4拍子になり、まだ導入部は続くが、実はこれは最後のコラール主題の導入でもあって、芸の細かさに余念が無い。カウベルではなく鐘が鳴り、雰囲気を荘厳にするが、音程の定まらない非常に低い音の鐘が 「かそけく」 不規則になるよう指示がある。ゆえに、荘厳ながらいかにも不気味。第1・第2主題の断片も登場して気分を盛り上げ、だんだん速度が上がり、満を持してアレグロ・エネルジーコに突入して、呈示部が幕を開ける。

 まず弦楽器で高らかに宣言される宣戦布告のような第1主題と、その後すぐに戦闘の角笛のようなホルンの第2主題。これと、悲劇のテーマと、この単純さが良い。この3つのテーマで、30分にもなるフィナーレが作られている。同じほどの時間をかけるブルックナーと比べて、その単純さというか明快さは、比較にならないと思う。これは、表現の方向性のちがいであって、もちろんどちらが優れているかという問題ではない。
 
 ちなみに第2主題は解説書によってけっこう異なっているのが面白い。音楽之友社の解説では、練習番号115ペザンテからのホルンの吹奏となっているが、村井翔の解説では、117からの木管によるテーマが第2主題となっている。

 どちらにせよ一段落すると、例の低い鐘とカウベルが同時になる。まるで戦場から魂が天上へ行くようだ。そこから展開部らしい。なお、6番ではマーラーの交響曲で初めてチェレスタが使用され、非常に効果的に使われている。

 展開部は膨大だが、各主題が意外やクッキリと扱われており、楽想もそう多くはないので、とても分かりやすい。ここでも、5番の分かりづらさの対極があると思う。

 そして、まず大きな山場というか到達点のひとつで、ついに例のハンマーが登場する。

 ハンマーの箇所では総譜にマーラーが青インクで書き加えているらしいので、あとで創作したものらしいのだが、実に上手い楽器法だ。ハンマーなどと、たいていのイメージでは成し得ない音色だが、1812年の例もあり、ああいう空砲的なイメージもあったのかもしれない。重く、鈍く、金属的ではない音。

 しかもハンマーのあとの(特に弦楽の)狂乱たるや、まさに蹴散らされたアリのごとくで、素晴らしい表現で、ワーグナー的でもある。蹴散らされ右往左往しているのは、無理解な批評家や聴衆なのだろう。なんという痛快な場面だろうか。
 
 そこから村井が云うところの第2主題が扱われて、流石にヨロヨロと音楽が止まりそうになるが、遮二無二進み続ける。しかしまだ痛々しくはない。打ちのめされた英雄は、二度目の進軍にと雄々しく立ち上がる。

 ここで初めてルーテが登場する。足を引きずるような乾いた音が生々しい。執拗な付点音形もギクシャクした印象を与えるし、ここのオーケストレーションは凄い複雑だと思う。
 
 そして思ったよりも速く、二撃めが現れる。今度はハンマーの音量はフォルテひとつ少なく、そのぶん、他の打楽器(シンバルとドラ)が音量を抑えるよう指示があるが、実は1回目のハンマーでは、この両楽器は入っておらず、ティンパニ、バスドラ、ハンマーのみなのに、2回目ではこれへシンバルとドラが入るが、音量は抑えて、とある。この効果の意味するところも、考察の対象になるだろう。

 つまり、2回目では金属音が加わるのである。

 金属音が加わると、鋭さが増し、緊張感が生まれる。しかし、ハンマーそのものには金属的な音は求められておらず、それとは別次元の意味で、金属的な音が求められている。

 このすべてが一体となった「グシャワアッ」というような破壊的な音色は、むしろハンマーの音のみが「ダン!」と、響く1回目より、複雑で衝撃的な印象を与える。一撃めで打ちのめされた英雄は、二撃めで鎧もつぶれ、血だまりの中に打ち倒される。その後の弦楽と木管の目の回りようといったら無い。

 ちなみに、マーラーは自作自演の初演でこのハンマーが良く聴こえなかったらしく、初演後すぐさまスコアに手を入れてこの部分の、同時に鳴っている金管楽器とハンマー以外の打楽器の音量を半減させている。

 その後悲劇のテーマが回想され、三度葬列の鐘が鳴り、流石にもうダメかと思われたのが、またも立ち上がる!!

 この展開部の3ともいえる、3回目の進撃こそ、全人類の悲劇を背負ったようなマーラーの姿そのものであり、闘うという事を音楽で表すと、こういう事なのだなと心の奥まで染み入ってくる。戦争音楽とか戦闘の音楽とかは多々あれど、まさに闘争の音楽とは、こういうことか。

 練習番号150の途中からの 2番ティンパニによる悲劇のテーマは、ここはもう悲劇ではなく、戦いのテーマでもある。下のE音による重々しい銃声いや砲声のごとき連打。なんで2番なのかというのは、たぶん1番と2番の指定口径によると思うのだが、2番ティンパニなんてアナタ、1番の補助でしかなく、ぜんぜん出番が無くってトライアングルも叩いたりするくらい正直ヒマ。その2番ティンパニの唯一の出番、唯一の見せ場と云ってもいいこの箇所。

 燃えるなというのが無理な話。
 
 ハンマーよりむしろ、打楽器ニストは傾聴の箇所(笑)

 割れんばかりに叩いてある録音に出会ったら、自分に酔っている2番ティンパニの姿を思い浮かべてほしい。

 それはさておき、2番ティンパニは実は導入でしかない。その後、練番153テンポプリモよりの第1ヴァイオリンのテーマこそが、6番での最大最強の盛り上がり場で、この高弦による魂の叫びは、6番で最も訴えかけている場所だと思う。

 それから音楽はもう遮二無二突き進む満身創痍の英雄を描写して、頂点では複数のシンバルが鳴り渡り、いよいよ3回目のハンマーにたどり着く。

 ちなみに3回目のハンマーは練番164ではなく、その11小節目である。チェレスタがどうのという解説もあるが、むしろティンパニがAで弱々しく悲劇主題を叩くのでそっちのほうが分かりやすい。ここにバーンスタインのように3回目のハンマーを本当に入れる指揮者もいるが、流石に無いほうが良いと思う。英雄はもう、こんな弱い打撃でも死んでしまうほどに弱っていたというわけだ。それとも、これは、まだ最後の攻撃ではないという暗示なのか。

 その後、トロンボーンがメインとなって息も絶え絶えに祈りの言葉……はては喘ぎ声……が続いて、最後の本当の死の一撃が、聴衆を襲って、いまだに私はどんな演奏でも跳び上がって驚いてしまう。

 このように、1楽章ほどではないが、ストーリー性を重視したような非常に分かりやすいソナタ形式であるが、内容といえば風刺画に 「警笛を忘れた!」 と書かれて揶揄されるほど、破天荒なものとなった6番交響曲は、その見かけだけの古典性からは到底理解できないほどの表現力の先進性を含み、7番へつながっているのは、確実だと思う。

 特にこの4楽章は、ソナタ形式というものの皮肉であると同時に、限界の探求でもあって、9番の1楽章につながって行く非常に貴重な音楽だといえる。

 6番はカタルシスをへての浄化といった西洋悲劇の構成がそのまま当てはまるので、その意味で、悲劇的なのでしょう。悲劇的とは、劇としての悲劇のような交響曲といった程度の意味であって、交響曲が悲劇的ではないということで、その意味では、この奇妙なタイトルも、存外合っているのかなあ、とも思う。

 というわけで、6番前後の、相関図のイメージがこちら。(テキストでムリヤリ作ったので分かりづらくてすみません。)
  
  / ̄ ̄ ̄ ̄|
 4番―5番\ |
     |  7番 
     6番/
      
 けっきょく、5と6はやはり7番への序奏でしかなく、7番までですら、8番までの序曲でしかない。マーラーの人間世界での究極の生の表現は、やはり声楽を加えて、8番の登場まで待たねばならない。

 実演で聴いた回数 3回




マーラーのページ

交響曲のページ

表紙へ