第7交響曲(1904−1905)  −集大成として−


 この時点で、私は、4番の次に7番の項を執筆してみた。
 
 なぜなら、個人的な毒断と変見によると、7番は中期の器楽3部作の最高傑作であるだけではなく、精神性(あるいはマーラーの意図していたもの、音楽による音楽のための、純音楽ならぬ純音楽パロディーという目的性。)においては、4番から直結しているのではないか、という疑問をほぼ確信としてとらえることができたから、といえるだろう。

 7番は内容において、長らく中期器楽3部作と云われる5〜7番においても、最低の部類にランク付され、柴田南雄をして 「創作力の欠如」 的な失敗作扱い、アドルノをしても5楽章は失敗であるという。ただし、村井翔によるとこのアドルノの失敗発言は、マーラーが意図しようとした事が逆効果で意図しきれていないだけで、音楽として失敗=駄作という意味ではない。
 
 5番から、歌曲的な歌詞による補完無しに、器楽だけで完全に自己を表現できるようになったマーラーが、6番でそれを真剣に押し進めた後、5、6で培った最高レベルの管弦楽法とノリにのった創作力と霊感を駆使して一気呵成に書き上げたのが7番であり、ショスタコーヴィチのような単なる才能にまかせた早書きとは異なる。まして、この独創性の塊のような音楽において、創作力の欠如などと、あり得ないのではないか。
 
 7番の完成をもって、マーラーは再び交響曲の次元を上げることに成功したように感じる。つまり、8番大地、そして第9。この後期の交響曲群は、当たり前のことだが、いきなり生まれたわけではなく、過渡期があって、帰結する。その過渡期であり前期の完結が7番だと思う。

 2番3番、そして4番のような歌唱による音楽的な補完ではなく、完全に歌唱と器楽と融合した8と大地はそれまでの諸作品と異なる次元と方向性と表現性の作品であると定義できるから、9番が再び比較されるべき純器楽作品だが、既に精神的に最高の高みにイッてしまっているので、まだまだ現世にある7番とは、作品の出来という意味ではなく、方向性や表現の形として、比較にならないと思われる。だから、私は、この世で書いたマーラーの器楽交響曲で、技術的にも目的においても、最高傑作で完全に完成品なのが、この7番なのではないかと考える。伊達に、8番のときに、マーラーはこれまでの作品は8番のための序曲に過ぎなかったと云っているのでは無いと思う。7番による交響曲表現の自己完成を見て、そのような布石があって初めて、8番のような巨大な構想ができあがったのではないか。
 
 技術的な管弦楽法がそのように7番で頂点を迎えたとき、さらに精神的な交響曲としての性格付の点ではどうだろう。ここに、私はマーラー的なパロディー精神の集大成として、4番が初期作品の頂点であると同様に、7番が中期作品の頂点であると考える。そこに4番と7番のベクトル的なつながりを見出して、4番の次に7番を考えてみた。
 
 4番の4楽章で、歌唱をもって音楽による音楽のための音楽的パロディーを実現したマーラーは、5番でそのパロディー的方向性を器楽のみで試作した後(ブルックナーだってやってるじゃないか!)、6番では、おそらく表面的には露骨なパロディーは少なめでマジメにドラマトゥルギーと管弦楽法を追求し、その両方の方向性の融合として、7番を産み出した。5と6の両者のベクトルが行きつく先に、7番はある。従って、4番と7番は同列のパロディー的レベルにある。そこにあるのは技術力の差だけなのだではあるまいか。

 8番以降は、表面的にはパロディー性はまるで失せているように思えるのだが、如何。7番で完成を見たため、表現の必要性が無くなったのかもしれない。

 他のマーラーファン、7番ファンの指摘する通り、7番の最大の特徴・魅力は、完璧なまでのポリフォニックさとベートーヴェンの7番に通じる面白い執拗なリズムの饗宴、そして目立たぬが6番を超える異様な楽器群を含む、人を幻惑させる絶妙で膨大な管弦楽法の効果と、それによる音楽パロディーとしての面白さだろう。 
  
 これらはかなり難しい要素の集合体で、まさにマーラーの作曲技術の結晶だ。それを紐解くのは素人には至難の業だが、少しでもマーラーに近づくために、マーラーの音楽を味わい、人生の糧とするために、努力を惜しんではならないと考える。
 
 では、楽章ごとに、俯瞰してみたい。


 まず7番は、CDの裏でも見れば分かるが5楽章構成となっている。実はマーラーの交響曲はスケルツォを中心とした5楽章構成がもっともバランスのとれた形であって、1番も元々そうであるし、2番も終楽章がちょっと長くてバランスを書いているが、いちおうそう。3番は当初逆に多くて7楽章構成だったから、いちおうこれも奇数楽章制といえるだろうが、これは特に4・5楽章の性格を見ても異質だ。むしろ3番は1部と2部に別れているし。

 4番と6番は珍しい部類で、おそらく構造的なパロディー性を含んだ純4楽章制。5番を経て7番に到り、スケルツォの両端に緩徐楽章を配し、パロディー的な1楽章と5楽章をさらにその端に配して、完全なシンメトリーを構成している。
 
 8番は完全に部制を敷き、5番も実はそうなのだがそれでも3部形式で奇数構成である。大地は6楽章、9番はあまりにも忘我な4楽章、と、次元を超えてしまったわけだが、なんと、10番で再びこの世界に舞い戻ろうとした事実を、われわれは知っている。
 
 1楽章はソナタ形式だが、調がぼやかされ、主題もハッキリしない上に、管弦楽法上の聴者を幻惑させる要素が満開して、7番全体のトリッキーワールドへの誘導を巧みに行う。
 
 まず驚くのが、猟奇的「雰囲気」芬々の序奏に続く、いわゆるテナーホルンによる主題の朗々とした吹奏だろう。その序奏も、あまりといえばあまりな始まりだが、その次が凄い。
 
 ここには嘆きの歌から通じるマーラー的メルヒェン世界の終着点があると考えられるが、例えば同じトリッキーな効果をねらったものとして3番の冒頭は旋律的には民謡だか、当時の流行歌だかをパロディーしているかは知らないが、技術的には立派なもので、ホルン8本による交響曲の幕開けとして革命的な表現だと思う。

 トリッキーといえば4番もそうなのだろうが、あの鈴は、私の考えでは例の4楽章へ通じる大いなるパロディーの始まりを暗示しているので、「マジメにバロディーをねらったもの」 として考えられる。

 しかし、まずこの7番にまで到ると、テナーホルンという楽器そのものが怪しい。テナーホルンは、パロディ楽器なのだろうか? この奇妙な音階による不思議な旋律は、まともにとって良いものなのだろうか? ボートを漕いでいたら浮かんだ? ホント?? 自然の吼え声? これが?? まだ、3番のポストホルンのほうが、旋律もしっかりしているし、また実際の楽器はナチュラル楽器なのであのような複雑な旋律は吹けずに、トランペットで代用するのが通常ということでハッキリしていて分かりやすい。
 
 だいたい、私は、色々な書籍を参考に読んでいるうちに、このテナーホルンに関する記述がバラバラなのに気づいた。たぶん、実演に接して、実際に楽器を見ての記述だと思うが、ただ単にテナーホルンと書いてあるのはまだマシなほうで、テナーホルンとはバリトンのことである、とか、ユーフォニウムのことである、とか、いったいどれが本当なのか分からなくなった。
 
 そこで、日本でも数少ない金管バンド(本当の意味でのブラス・バンド)に所属しており、楽譜・CDネット専門店「Wind-Brass.com」の代表者にご教示いただいた。この方とは、HPを通じて知り合ったものである。
 
 それによると、まず、テナーホルンとは基本的に金管バンドの本場イギリスで発達したホルン属のピストンヴァルブの楽器で、テノールの音域を担当する物だが、調としてはE♭(エス)管であり、この時点で、B♭(ベー)管のユーフォやバリトンと、決定的に異なるらしい。

 したがって、テナーホルンとはバリトンのことである、ユーフォニウムのことである、というのは全部間ちがい……かというと、そうでも無いのだからこれがまた複雑(笑)
 
 しかも、楽器屋の友人に尋ねたところ、「アルトホルンというのはヤマハにあるけど、テナーホルンって聞いたことない」 というつれない返事。ここにも秘密がある。

 まずアルトホルンから解きあかすが、なんと、テナーホルンのヤマハの「商品名」がアルトホルンなのである。
 
 したがって、ヤマハのアルトホルン=テナーホルンであるが、いわゆる本場イギリス・ベッソン社のテナーホルンに比べると、ヤマハのアルトホルンはやや管が太く、音が柔らかいということで、楽器がいかに微妙な物か、楽器を嗜まない方にも多少はお分かりいただけると思う。
 
 そしてバリトンとはロータリーヴァルブによるバリトン(ホルン)のことで、テナーホルンとは異なる。

 またユーフォニウムもピストンの楽器であり、ロータリーのバリトンとは当然異なる。調以外にも、そのような違いがある。
 
 しかし、マーラーの書いたスコアをご覧いただきたい! マーラーの指定は、B♭管のテナーホルンなのだ!!
 
 こは、いかに!?
 
 マーラー作曲の当時には、そのような特別な楽器があったのだろうか?
 
 最後の秘密。このような、特にホルン属やサクソルン属の金管楽器の呼び方や、種類に定義された物は無く、国や楽器の形態によってバラバラなのが実情ということで、マーラーの指定しているのは厳密にはB♭管のロータリーバリトンホルンであり、これを東欧ではテナーホルンと呼ぶ事もあるのが真実。(7番の初演はどこでしたか? チェコですね!)
 
 しかも、現代ではユーフォニウムで代用することが多いというから、テナーホルンとはバリトンの事であるとかユーフォニウムの事であるというのも、あながち間ちがいではない!!
 
 ちなみにB♭管のロータリーバリトンとは要するにテナーチューバのことだそうで……なんですと!?(笑)
 
 けっきょく、7番に使われている楽器は、テナーホルンと書いてはあるが、

 ○B♭管のテナーホルンというものは存在せず、正体はテナーチューバであり、かつ、現在ではユーフォニウムで代用されるのが多い

 ということに帰結する。

 ああややこしい。マーラー先生ったら! 思いつきで楽器を指定しないでいただきたい!(笑)

 というわけで、現在の演奏で、「テナーホルンのテーマがプカプカと響いて、いかにも浮いている」 という趣旨の発言は、私はいささか認識不足なものに思えるのだが、いかがだろうか。つまり、ほんとうにそれはテナーホルンなのか? という意味。
 
 柴田南雄は、せめてワーグナーチューバを使えば良かったのに、と云っている。

 もっとも、彼の聴いた音が何の楽器か分からないため、なんともこの意見に対して発言できない。だから、秘密が分かってしまった以上、「テナーホルン」自体を云々するのは、あまり意味の無い事になってしまった。

※2008/4/10 追記

 PROJECT EUPHONIUM の管理人・岡山氏より、上記のテノールホルン問題において、決定的な補足を頂きましたので、ここに紹介します。

 上記の記述も、「正確ではない」とのことです。

 ○まず、Tenorhorn (テノールホルン)という楽器は、バリトンとはまた異なるもので、ドイツ・オーストリア・チェコなどでは昔からある普通の楽器で、これはB♭管である。従って、同スペルであってもイギリス生まれのE♭管の「テナーホーン」とは、元より異なる楽器である。

 【参考】 Alexthanber社の 向かって右がテノールホルン(管が細く短い。ヴァルブは3つ)、左がバリトン(管が太く長い。ヴァルブは4つ)

 

 ○それを、日本では便宜上「テナーチューバ」と呼称してきた。なんでチューバなのかというと、ロータリー楽器だから……らしい。

 ○テノールホルンが入手できないオケや入手していない奏者は、代用としてユーフォニウムやバリトンを使用してきた経緯がある。

 ○それがいつしか、テノールホルン(テナーチューバ)という楽器はユーフォやバリトンのことである、となってしまった。←ここが最大の混乱の元。

 ○オーケストラのスコアで Tenortuba B♭等と書いてある場合、それは楽器の指示ではなく、「テノールの音域を出すチューバで演奏しろ」 というパートの指示で、「テノールの音域を出すチューバ」 に相当する楽器には、調に関係なくテノールホルン、バリトン、ユーフォニウム、ワーグナーチューバ、サクソルン・バス、等が含まれる。ホルン奏者が奏する場合、ホルンに近いマウスピースを使うワーグナーチューバを使い、トロンボーン・ユーフォニウム奏者が奏する場合は、それらに近いマウスピースのテノールホルンやバリトンを使う。従って最初から 「ホルン奏者が持ち替えろ」 という指示のある春の祭典やアルプス交響曲では、Tenortuba のパートは、ワーグナーチューバを演奏する事になる。

 ○ボヘミアで生まれ、ドイツ・オーストリアで活躍したマーラーは、当然のように、軍楽隊や吹奏楽で使用されていたB♭管の「テノールホルン」を知っており、普通にそれを前提に楽器を指定した

 ○従って、7番の第1楽章でソロを吹く楽器は、ズバリ「テノールホルン」である。ただしドイツ式B♭テノールホルンと書いたほうが日本人には分かり易いだろう。

 以上で、7番におけるテノールホルン問題は最終解決したのではないかと思います。岡山様、本当に有難うございました。

 【オマケ】こちらがワーグナーチューバ。バリトン・テノールホルンとの違いは、F菅であること、ベルの向きが左右逆、吹くところのネックがにょろんとなっている。マウスピースはホルンといっしょ。

 

 それで、長々と書いてきたテノールホルン(日本でいうところのテナーチューバ)の吹く旋律というのが、3番の冒頭のような朗々とした豊かなものや、ハルサイのような激しくかっこいいものならばまだしも、全体の響きとは明らかに異質な、パプラ〜〜というものだから、よけいに可笑しい。ここにのっけから最大のパロディーを聴きとることはあながち間違いではないようで、マーラーの狙いは、1楽章の主要主題から遺憾なく発揮されている。これは、4番の鈴のような効果と意味合いがあるのではないだろうか。たたし、あれほど直接的ではなく、暗喩的で、難易度を高めている。テノールホルンのテーマは種々の楽器に受け継がれて、有機的に増殖してゆくので、その様子も非常に楽しい。

 4番と同様に、1楽章は複雑なソナタ形式であり、ホルンやトロンボーンが延々とテノールホルンを模倣し、付点音符を伴った古典的で執拗なリズム反覆が対位法と室内学的で効果的な管弦楽法を支える。リズムが基礎であり、ここがぼやけると、対位法も旋律群も管弦楽もまるで曖昧となって精緻な設計的な効果と意味がなく、残念ながら7番はまったくつまらない上に、つまらないから理解もされなくなる。7番の、構造を把握するタイプの演奏が成功し易いのは、リズム処理にもちゃんと注意が払われているから、必然、対位法や薄い管弦楽による旋律の妙など、7番の魅力が存分に発揮され、面白く聴こえるからなのだろう。
 
 7番はリズムが命という点で、ベートーヴェンの偉大な7番に通じる性格を持ち、しかも、そのことは最終楽章にまでも活きて来る面白さだと考える。
 
 またこの楽章のパロディー性を浮き彫りにするものに、マーラーらしい打楽器の用法がある。マーラーは、楽器法的にはなんといっても、金管と打楽器の革命家だった。マーラー以前にこのように金管楽器を効果的に駆使する作曲家は珍しいし、打楽器に到っては、マーラーによって初めて「効果音」から脱して「音楽」を奏でる楽器になったと私は確信している。特にマーラーとR.シュトラウスにとり、ヴァルブ付楽器が発明されたことによる(特にホルンの)想像力の発露は、身震いするほどだろう。

 トライアングルがマーラーのこよなく愛する楽器であるということは、1番から高らかに鳴り響き、その後も誇らしげに鳴って、歌曲集にまでその愛らしい音色を披露していることで容易に想像がつくが、7番に登場するのはなんと、タンバリン。
 
 もっともタンバリン自体は3番にも登場しているのだが、扱い方が根本から異なっているように思える。3番においては、あくまでまだ効果音的な扱いに過ぎないが、7番では明らかに音楽の一部として鳴ってはいまいか。
 
 1曲だけの特殊楽器で、4番の鈴や6番のハンマーと同様に、意外性と独創性をもって聴き手を唸らせるその効果。出番は必ずしも多くないし、しかも、音も大きくない。ささやかに、リー、リーとまるで虫の音のように主要旋律へ合いの手をいれるのみ。鬱蒼とした暗黒の森の中で、聴こえて来るのは、美しい虫の音か。
 
 虫の音をまさに音楽、そして風流として理解し、愛することができるのは、世界でも日本人だけという。

 7番とマーラーと虫の音には何の関連性も無いけれど、まさに日本人だけ、このタンバリンの世界と魅力を聴きとることができると思う。そこにあるのは、まさに詩情と無常観ではないか。マーラーの交響曲の東洋的な部分というものに、こういう無常観があるのだが、同じ無常でも、大地の歌の1楽章にあるような中国的な即物的なものよりも、もっとニュアンスの多様で曖昧な日本的なものとして捕らえるのは、日本人として、当たり前だと思う。後続の諸曲へも通じるような、詩情的な「もののあはれ」を、そして無常観あふるる「ゆく河の流れはたへずして」を、私は一人で聴きいってニヤニヤしている。うーん、マニアック度さらにアップ。マンドリンやギターに注目するのだったら、タンバリンも注目に値すると思いますが。みなさんは、どうでしょうか?
 
 もっとも演奏によっては鈴虫どころかキリギリスなのだが(笑)
 
 ラストの「あからさまな幸福感」も、むしろ逆の意味でパロディーということだが、事ここに到っては、7番の全てがパロディー性を帯びているようで、もう、あるがままを純粋に楽しんでしまえば良いような、投げやりな気分にもさせてくれる。

 それでいて、やはり、この魅力ある楽想と構成の1楽章は7番のなかでも屈指の出来だと思う。


 2楽章と4楽章には、マーラー自身により「ナハトムジーク」すなわち「夜の音楽」あるいは意訳で「夜の歌」という標題がついているが、これを7番全体の標題としてとらえてしまうと、やはり失敗するようである。

 同じセレナーデでも、2楽章と4楽章ではまるで性格が異なる。管弦楽としては両方とも薄く、7番自体の室内楽的な様相に大いに貢献しているのだが、私見だが2楽章の方が、1楽章の雰囲気をまだ残していて、メルヒェン的なほの陰い湿った空気を伝えている。マーラー流の真夏の夜の夢なのだろう。冒頭より順番に各楽器がソロでテーマを奏でて、カタカタカタとガイコツが笑い出す部分が素晴らしい。
 
 タンタカ・タンタンタンのリズムを延々と繰り返すことによる催眠効果とも云える独特の雰囲気が、おそらくそのような気分にさせるのだろうか。またその裏で執拗に続く3連符が、絶妙なズレを生じさせ、相乗効果でリズムを困惑させている。まるでヘテロフォニーのようでもある。このリズムの処理を有耶無耶にすると、本当にただの魔術的な不気味な雰囲気だけで終わってしまうので注意だが、わざとそういう効果を狙うというのも手法の1つではある。もっとも後者は、かなり通な手法で、聴き手の方がまずしっかりと自分なりにも構造を把握した上で楽しまないと、そのゴチャゴチャさやザワザワさが誤解を与えて、ただ単に不快な音を発しているように聴こえ、7番を忌避させる要因ともなりかねないと思う。

 バーンスタインの新録の7番が賛否両論なのはそういうところなのだろう。

 不快なセレナーデは、充分にマーラーのバロディー精神に則っていると思われるが……。

 また同じカウベルが鳴り渡っても、そのような情景だから、6番のように、どうも「あの世へゆく寸前にこの世の終わりであるアルプスの山頂から聴こえて来る」 といったような、高潔な気分にならない。素っ気なくガラガラガラと、まるで闇へ誘う幽鬼の笑いにも聴こえる。

 もっとも、(あっという間に終わっちゃうけど)後半でグロッケンと共に鳴るところでは、少しは清浄な音に変化する。
 
 しかしその後に待っているのは、マーラーのスケルツォ中でもっとも「奇怪な」3楽章だ。清浄さは、ひっかけ、パロディーだった。……「パロディー」にこだわりすぎだろうか。


 マーラーはスケルツォ楽章そのものに特殊な使命を与えており、単なる分岐点や転換点で無いばかりではなく、ただのメヌエットの代用でも無い。スケルツォそのものに強い表現性と独立性を与えて、スケルツォ楽章そのものを心柱として交響曲の中心に据えている。その意味でブルックナーのそれとは性格を大いに異にしている。ゆえに、1番よりの試行錯誤の結果、初めての本格的なスケルツォとして登場した5番では、スケルツォはソナタ形式をも内在し、ワルツとも同化して、トリオをいくつも持つ重層的なものとして、1つの部を形成するほどに肥大化・複雑化している。
 
 そのマーラー的なスケルツォの1つの完成が、7番のそれとも云えるだろう。

 ここでは、形式的にはレントラー風の1番に返りトリオを1つしか持たない単純なものだが、管弦楽法が複雑怪奇を究め、一筋縄では聴こえない。オーケストラのあちらこちらより飛んで来る単音がナマでぶつかりあって、衝撃的だ。鬼火の飛ぶ様のようではないか。唐突に響くそれらの様子にまじり、ぎこちなくも流麗な旋律が流れだし、奇怪なワルツを形作る。ここのワルツは、ウィンナワルツの悪趣味な変形(パロディー)でもあるし、ベルリオーズの幻想交響曲の精神を伝えているようにも思える。幻想交響曲そのものが悪質なパロディーであるから、それのさらなるパロディーという趣向。なかなか手が込んでいる。
 
 3拍子と3連符の織りなすこの奇妙な3部形式の果実は、幽玄的でありつつも逆に生々しい感覚を、つきつけるのだろう。だから、どこかフワフワしたような7番の中心として、または2・4楽章の真ん中として、存在感を主張し、しっかりと成り立つのではないか。


 4楽章では、冒頭のバイオリンのある意味(作られた)甘美なソロより、もう既に2楽章と趣を異にしているのが分かる。甘えるようなずり上げが頻発し、タンタタのリズムが基礎として重なって、しっかりとした本格的な愛らしいセレナーデを奏でる。ついでに、バックのギターとマンドリンで完璧だ。
 
 この愛らしい美しい、しかしやっぱり不気味な世界が、その愛らしさゆえに、単純な構造ゆえに、実は虚構の音楽のための音楽によるヴァーチャル世界だというのだから、にわかには信じられない。ヴァーチャルな音楽世界といえば私にはストラヴィンスキーのペトリューシュカであるが、あそこまでドライでなく、もの凄く嫌なほどにウェットなのが、なんとも人を食っているというか、マーラーらしいというか。それともマーラーの性格なのだろうか。
 
 まともに聴くにしてはモーツァルト的な美しさとはまた別格で、どこか陰湿・陰惨な部分があるため、どうも馴染めなく、そうかといって、パロディーとして聴けと云われても、なかなかこの7番中でも最も耳障りのよい4楽章を虚構の世界とするのは難しい。やはりこの楽章は、むしろかなり難易度の高い部分なのかもしない。
 
 しかも、これに続くのは、大問題有りの5楽章である。どうもしっくり来ない内に4楽章が終わり、現れるのは、さらに人を混乱の渦に巻き込む、華麗な仮想パレードだったりする。
 
 ちなみに、初めて7番を聴いたときは、4楽章で寝かけていたのを(笑)跳び上がって驚いた。


 これまでが夜で、5楽章がいきなり昼……という解説をむかし読んだが、意味がわからなかった。だから何なのかが解説されていなかったからだ。そもそも夜とか昼とかいう問題ではない。云われてみれば、そのように聴こえるというだけで。
 
 また、5番の終楽章から、6番の終楽章へつながらないで、6番の悲劇的な終楽章は通過点であり、直接7番の終楽章につながって、かつ7番の5楽章は6番の終楽章でもあると云う意味で、5、6、7の三部作全ての終楽章であり、三部作を真に総括し完結させている……というような意味の解説も読んで、目が丸くなったこともあった。なんじゃそりゃ???

 さて7番のパロディー性を技術的な面ではなく音楽の文芸表現的な部分から拙くも延々と述べてきたわけだが、そのパロディーもここまで来るともはや 「ウソも100回つけば本当になる」 というような気分になって、参りましたと云いたくなる。
 
 だいたい、冒頭のティンパニのソロはいったい、なんだ!?

 導入部にしては、ショックが大きすぎはしまいか。これは私がアマの打楽器奏者だから特別な思いで聴いているだけなのだろうか。試しに1人で叩いてみたことがあるが、正直、難しい。なかなかトーシロにできる芸ではない。しかも下の音からEGHE(ミソシミ)と音階も飛躍していて、突飛であり、フィナーレというかファンファーレというか、祝典的な気分に完全に水を差している。それがパロディーのパロディーたる所以なのだろうが……。
 
 ティンパニに導かれて登場する真の燦然たるファンファーレも、導入がそんな具合だから、どこかヘンテコリンでパロディーで(マイスタージンガー)ヴァーチャルだ。そこから、あまりに通俗的な茶化し旋律や、4番の4楽章みたいな金管の「ゲエッ」や、ワルツの鼻くそほじってるようなバカげた変形や、チンドン屋みたいな行進調の部分や、もうマーラー大得意の、これでもかというパロディー的世界のオンパレード、なかなかそういう意味では猟奇的な演出のサーカス小屋の演目が、なんとロンド形式で8回も組んずほぐれつ、エロティックな様相を呈している。マーラーは想像力の枯渇どころか、絶好調なのだろう。こいつは凄い音楽だ。
 
 ハ調の明るい響きのはずなのだが、チャイコフスキーの5番の終楽章のように、悲劇的なハ調は他にもあるが、こちらは逆ギレというか、ふざけた調子の中の、悲劇性か。ここまで来ると悲劇を通り越して哀れともいえる。6番でマジメな悲劇を会得したマーラーが7番でつきつめたのは、滑稽なまでの哀れなのではないだろうかとすら思える。すなわち、悲しい道化?

 また、技術的にも、5番の終楽章で会得した完全なるロンドの終着点がここだということなのだろう。

 再現部では、鐘から鉄板から、鳴り物打楽器総動員で、雰囲気を盛り上げるが、空しく空騒ぎに終わるのみ。そこにあるのはまさしく空虚。そこからいきなり、厭味ったらしく呆気なくジャンと終わってしまう。「あー終わり終わり。楽しかった?」

 これまでの引っ張りはなんだったの、と聴き手に云わせんばかりの単純な集結。
 
 このような5楽章でマーラーは、7番を締めた訳だが、パロディーの終着点としては、あまりに露骨かつ複雑で、ストーリーが破綻しているらしい。淡々と吟遊詩人が歌っていた悲劇的なパロディー譚詩が、いきなり最後にマントをとったらピエロだっだ。

 と、思われても仕方がないかもしれない。それこそアドルノが、マーラーが表現しようとして表現しきれなかった5楽章の手法が、失敗だと云っているとのことだが、まあそこまで難しく考えなくとも、聴衆の意表をついていることには変わりない。ただし、この5楽章があまりに突飛で、聴くものを当惑させ、当初のマーラーの意図が充分に伝わらない効果を産み出しているという意味で失敗なのだったら、7番の不人気がその説を如実に実証しているだろう。
 
 マーラーは7番の5楽章で、もはや20世紀においては交響曲に 「約束された安住の地」 としてのフィナーレなどあり得ないことを示したとされる。つまり7番は初めて交響曲のフィナーレが精神において破壊された、汚された記念的な作品であり、その意味で前衛的な作品なのだろう。その後、ショスタコーヴィチやプロコフィエフなどが、マーラーの意図を継いでいる。マーラーの作品は、高潔さと汚濁にまみれている。ゆえに、マーラーの交響曲は人間のもっとも崇高な部分から醜い部分まで、自然から人造物まで、精神から物体まで、全てが音として内在するのだろう。

 このような交響曲を書かれた当時の後輩たちは、こう叫んだに違いない。
 
 「じゃ、どんなフィナーレで交響曲を書けばいいんだ!!」
 
 じっさい、もう交響曲を書かなくなった、書けなくなった人もいたに違いない。ベートーヴェン以降の精神では、交響曲のフィナーレは崇高なもの、あるいは完成されたもの、あるいは幸福なものでなくてはならないのに。しかし、その答えは、マーラー自身が、さらに追求している。これ以降の後期交響曲で。
 
 そこがマーラー先生のすごいところなのですな。

 そして、そうは云っても、7番の5つの楽章の中で、やはり最高に傑作なのは両端楽章の1・5楽章になるかと思う。2−4楽章は3楽章を挟んでそれだけでひとつとしてまとめて鑑賞できることを鑑みると、7番も楽章数だけではなく部としても、1楽章=第1部 2〜4楽章=第2部 5楽章=第3部 として仮定でき、5番と相似できるのではないか。

 1楽章の魅力的かつ複雑を極めた構想や展開は、マーラーの書法の究極の形であり、この完成を経て、自在に動ける8番以降に到ったとも考えられる。5楽章も、個人的にロンドが苦手で聴いていてよく分からなくなるのではあるが、その幻惑効果も狙ったものであると充分に考えられることを加味し、マーラーの到達した熟練で絶頂の音楽であることは疑いない。

 その両端楽章に挟まれた中間3楽章は、楽想は素敵だが書法としては非常に簡素・簡潔で、両端楽章と対比しているのだが、別個に見ると、非常に単純で物足りない。そうでなくては両端楽章をつなげる役割は果たせないのだが。
 
 7番、聴けば聴くほど、味のある、深い作品です。パロディー部分を探せば無限に出てくるような、マニアックな聴き方をさせてくれるという点で、5番や6番など、7番に比べると単純に思えて来るから、摩訶不思議である。


 実演で聴いた回数。残念ながら0回。札幌での機会に、札響、PMF、札響と所用でこれまでに3度ほど聴き逃している。ムムム……。




マーラーのページ

交響曲のページ

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