第8交響曲(1906−1907)

 −8番に抱くキーワード・テーマ−
 水と光と愛の交響曲
 1000年の時を超えたテキストの融合を図るマーラーの音楽
 これまでの音楽の集大成、器楽と声楽の完全融合 
 マーラー全交響曲中の最大の華、最大の陽、そして「世界の完成品」
 嘆きの歌 → 8番へ

 私にとっての 「マーラー後期交響曲」 とは、8番、大地9番であるというのは、クック版の項で既に述べている。この3作は、一見バラバラだが、私は8番でマーラーの交響曲世界はいったん 「完成」 したと思う。完成したゆえに、むしろ8番よりも突飛な大地や、人間としての精神の高みを超えてしまったような9番にたどり着き、そして、まったく別世界への新生を目指した、10番へと至った。8番と、大地以降の、埋めがたくも見えない糸でつながっている大いなる溝は、自らの境地がいったん完成しなくば、そういう完成を突破した境地には到らないだろうという、逆説的な意味もある。ただし、あくまで世界の 「完成」 であって、世界の 「完結」 たる9番とは、意味合いが異なる。

 また、マーラー自身が(最後まで?)8番が最高傑作だと思っていたという。完成品にしか、そういう評価は与えられないだろう。

 その交響曲世界の完成は 「技法的な完成」 と 「精神的な完成」 とに分かれる。それぞれ考察したい。


「技法的な完成」
 
 技法とは、ここではオーケストラと合唱という意味になる。

 または、器楽と歌謡、というべきか。

 ここまでのマーラーの創作過程を振り返ると、歌曲、あるいは歌曲的な旋律法を駆使した、合唱を含めた、歌曲と表向きにも密接に関連した交響曲群、つまり1番から4番までのグループと、そこから発展しつつも、志向性として器楽的表現に根ざし、歌謡的旋律法を裏に潜ませ、オーケストレーションと対位法でどこまで交響曲が書けるか的な、偏執狂的ともいえる作曲姿勢を打ち出した5番から7番までの音楽が、8番へ到ってでフェードイン。倍率ドン、さらに倍。

 7番までの諸交響曲は、8番への序曲であったというマーラーの言は、それをよくあらわしていると思う。

 音楽学的研究に到るまでの証明は残念ながら力不足で及ばないが、遊び感覚の推論、あるいはファンによるいち考察としてお付き合いいただければ幸いです。  

 マーラーの交響曲における標題的発想による音楽は、逆に純標題音楽たる「交響詩」というジャンルを否定した1番、2番より始まるのだが、まさに標題音楽の一種とも云える嘆きの歌を生涯愛したことからも分かるとおり、ただ単にタイトルを与えそのタイトルより音楽が導かれるというような表層的な標題音楽を否定しつつも、根源的なテーマや発想に基づきそれを展開させ結論を得る深層的標題そのものには深い理解と愛着を示していた。それは、マーラーの中での絶対音楽、純粋音楽とも言える5-7番においても、その全体のストーリー性、旋律のテーマ性、なにより音楽そのもの標題性、等により、標題的気質を多いに有しているのを見ても明らかだと思われる。

 ここで、8番に到り、マーラーの中の標題性は、最大限に発現し、昇華される。つまり、ここでは、自らの創作の第一歩、作品番号1を与えた嘆きの歌をスタートとすると、まさにゴールとでもいうべき境地に達している。オペラもミサも作らなかったマーラーであるが、交響楽作家としては、それらを全て包括した作品を最初から最後まで作っている。マーラーを交響曲作家ではなく、交響楽作家と定義づけることができるとしたら、まさしく、8番はその集大成なのではないか。マーラー的世界の進化の到達点である8番の、始原の姿は、嘆きの歌にある。それゆえ、8番以降の諸曲は、マーラー的でありつつ、どこかマーラーの世界から逸脱している。(9番における当初のシェーンベルクの所感)

 話がそれたが、自らの集大成、最高傑作、世界の完成品を作るにあたり、これまで培ってきた作曲技術の全てを注ぎ込むのは当然であり、各所の楽想さえ浮かんでしまえば、6週間でそれらをまとめ終えたなどというのも、大げさには響かない。マーラーには既に、この大作の概要を8週間で仕上げる技術的素地が充分に備わっていたことの証明にもなる。(スケッチそのものは、3月には遅くとも始めていたようだが。)

 ここでマーラーは器楽技術と、声楽(歌謡)技術の全てを融合させた、オラトリオ、カンタータ、オペラ、歌曲、そして交響楽としての声と器楽のシンフォニアを、およそ考えうる最大規模で創りあげた。合唱、独唱部の見事さや、伴奏の域を脱した雄弁なオーケストラ、それらを包括したソナタ形式、フーガ、スケルツォやアダージョ的性格。まさにマーラーで無くば成しえぬ、融合の極地。

 マーラーの創作して来た全ての作曲技術が、ここでいったん完成したといって、過言ではないと思う。


「精神的な完成」

 マーラーの創作における精神性は、全ての交響曲を網羅しないと、けして見えてこないのは、ディープなマーラーファンならばうなずいてくれることと思う。正直、4番までは、テーマ性はあっても精神性など、無い。1-4番までは、歌そのものや歌謡旋律を含めた純粋に響きを楽しむ、そういう意味でむしろりっぱな純粋音楽だと思う。

 5番より一気に作品に深みを増しているのは、形式的・技術的な深みの追求が、マーラーの精神的な深みを疑似体験させてくれるからなのではないか。5-7番は、実はすばらしい標題音楽である。どれもが、愛と憎しみの交響曲なのだから。
  
 さて、技法の完成というテーマと密接に結びつきあうものでもあるのだが、これまでの交響曲においてマーラーが追求してきたテーマでもっとも重要なのは死ではなく愛であった。死は愛を表現するためのマーラーの個人的な意識の裏返しにすぎないと思う。愛の賛歌を究極に発露するべく選んだテキストが、809年ごろの第1部ラテン語による「来たれ、創造主たる聖霊よ!」と、1830-1831年に書かれた第2部ゲーテによるファウスト(の最終場面)である。この1000年の時を超えた壮大な物語を、結びつけることに成功したマーラーの音楽はしかし、技術的な要素ばかりでなく、両者のテキストにそれぞれ愛という共通のテーマを見出したからに他ならない。

 しかも、マーラーの交響曲は、一概に、暗い、というイメージがある。彼の中の愛は、常に陰湿な部分がつきまとい、死と隣りあわせで、愛とはエロスの一端でもあった。当時の梅毒の蔓延と、同輩のヴォルフの末路を見るに、現在のAIDSよりも恐ろしい病気が、常に青年たちの純愛とエロスを脅かしていたのを知ることができる。マーラーの交響曲の中には、常にその捻じれた愛の姿を垣間見ることができる。その一種の恐怖と煩悶こそ、(奔放で魅惑的な女性には確かに心惹かれるが、いったいどうして、彼女が病気持ちでないと断言できるだろうか!?)愛をテーマにしたときの、マーラーの中の猟奇的な影の部分なのだとしたら。

 しかし、8番の中に、いったいどこにそんな湿った人間の負の精神があるというのか?? 権力と創作の絶頂にいたはずの者が、どうしてそのような陰の部分を音楽にできるのだろうか?翌年に彼を襲う不幸の数々を思うと、大地からガラリと作風が変わってしまうのもうなずけるし、また、8番の完成あっての、作風の変化ともいえるだろうか。

 彼の中の理想の愛は、人間的な、また人間ゆえの憎しみをも一切を救済してくれる、神の愛だったのだろうか。2番で死よりの復活を、3番で神への愛の賛歌を、4番では天国の風刺を書いたマーラーが、その後の5、6、7で培った技法の全てを捧げて完成させた8番は、愛と救済という精神的なテーマにおいても、ここで完成したと私は思う。そうでなくば、やはり大地の歌の、愛をも通り越した、純粋に「生きる」という人間の本質中の本質への回帰には到らない。あの大地の歌の無常の精神性は、8番という壮大な陽の完成なくして、けして到達できないほどの究極の地平の彼方ではないか。


第1部 賛歌「来たれ、創造主なる聖霊よ」 

 えー、精霊ではなく 「聖霊」 ですので、お間ちがえのなきよう。キリスト教学の基本です。父と子と聖霊、です。これが三位一体となって、信仰が成立します。父は神、子はイエスです。で、聖霊は……聖霊なんですねこれがww (我輩はこう見えてプロテスタント系の大学で、キリスト教学が必修でした。キリ教の先生の牧師さんも、聖霊の正体はよう分からん、と当時は云っていた。たしか。)

 さて、これは古いラテン語の聖歌(賛歌)で、もともと手持ちの古いテキストに調子よく作曲していたが、どうも全体に音楽と詩が合わないのを友人のフリッツ・レーア博士に相談し、博士より

 「きみ(マーラー)のもっている本は、詩が1連半、抜けてるんじゃないのか?」

 と指摘され、急いでヴィーン宮廷音楽監督のルッツェに完全なテキストを送ってくれるよう依頼し、送ったもらったところ、その詩と音楽がピッタリ一致し、驚いたという。

 それ以前、1906年の6/21に、レーアには、作曲の関係で、韻律を確認するために 「2つの単語」 の翻訳を頼んでいる。そのさいは、早急に返事をもらえるよう、このように書いているのもマーラーらしい。

 「さもなければ手遅れだ。創造する者、されるものとしてぜひそれが必要なのだ!」

 それから4週間後の7/18に、前述の、ここにきてなんかどうしても歌詞と音楽と合わないんだけど、正しいテキストを知ってる? という問いになった。(フローロス「マーラー交響曲のすべて」による)

 また曲にあわせて、少し、詩に手を加えている。しかし、ほとんど自作である2番の5楽章の詩への手の加え方と比較すると、何ほどのものではない。

 この音楽は、20世紀最高のカンタータであり、ミサ曲であり、究極の交響楽だと思う。複雑なソナタ形式を有しており、交響曲の第1楽章の役割もちゃんと担っている。なにより複雑な構成のわりに、統一主題が変形しつつ執拗に出現するので、非常に分かりやすいのが最大の魅力だろう。この音楽は分かりやすい。そして底抜けに明るい。まさに光の洪水であり、エーテルの奔流であり、瀑布の虹を発して光り輝きながら壮大に落ちる様を、音楽で表されるなどと、聴くまで誰もが想像だにしえない。

 もっとも! CDでは限界がある。実演でなくば、2部もそうなのだが、マーラーの設計した、上に下に右に左に手前に奥にの、究極のマルチ音響は、味わえない。機会があれば、是が非でも実演を聴きに行くのをお薦めしたい。

 例えば混声合唱が2群も求められているが、ただの音量を求める数あわせではない。第1合唱と第2合唱は、ちゃんとパート分けされ、凄まじいステレオが聴衆を覆う。

 そういう音響効果の意味でも、嘆きの歌の直系の子孫が8番だと感じる。

 冒頭から序奏なしで、いきなりオルガンのバブー! とともに、合唱が下降形の主要主題を歌う。金管が答え、弦が歌い、渾然一体となった音楽の洪水。すぐさま、低音による第2主題。これは上昇形で、第1主題の反転形。それがおさまると、テンポも落ち、8人のソリストたちによる賛歌。第2主題は第1主題の派生であり、かつ、それらの主題展開も非常に分かりやすい。またこの主要テーマは2部にも頻繁に姿を変えて登場し、全曲を強力に統一して、これをただのカンタータや、ミサ曲、はてはオペラではないことを意味している。

 そう、8番はあくまで、そういった全ての音楽世界を包括した、一種の循環形式にも似た、(6番の1楽章→4楽章の手法にも似た)確固たる交響曲なのである。

 ソリストたちのしっとりとした共演から、器楽のみの間奏よりはじまる展開部は、解説によると6つに分かれているが、ここに来てもマーラー特有の妙な俗っぽさは健在。間奏はつながりの悪い変な進行だし、金管のテーマは通俗的で、いきなり鐘も鳴る。そういう部分を嫌う聴き手も多いのだろうが、察するに、そういう人たちは人間の本性を暴きだすような現代的な手法は、すべて苦手なのだろう。聖俗あわせてこその人間であり、聖だけなら神だ。マーラーの音楽が人間賛歌、人間性の賛歌、エロスを含めた愛の賛歌、そして神へあこがれるという意味の神の賛歌なのは、聖も俗も併せ持つ人間としての弱き姿を赤裸々に晒す2番、4番、5番、7番の例も出すまでも無く、そういう俗っぽさがあって始めて証明される。聖だけ求める人は、賛美歌だけ聴いておればよろしかろう。

 私なぞは、ブルックナーのウンコくさいスケルツォを含めた神に媚びた音楽のほうがよほど俗っぽいと感じるのだが。それは俗っぽさの質のちがいでもある。ちなみにそんなブルックナーは苦手だし理解不能だが、嫌いではない。

 展開部のクライマックスでは、低音の激しい1拍ズレの動機が旋律部を補強し、甲高い1音を衝撃的に挿入して、 「敵を遠ざけてただちに安らぎを与えたまえ」 というシーンを激しく演出する。そして、頂点に達し、ドカンと再現部があわられる。これほど明確な再現部は、珍しいと思う。ソナタ形式の中で安易な再現を否定し、再現といえども常に形態を変えて展開の一部で無くてはならないという姿勢は、この曲では全体の統一感の前に薄れている。それはもちろん、通常の交響曲の概念を超越した8番の中で、交響曲としての技術的な配慮だろう。

 個人的な聴きドコロは、再現部 練習番号82からの、F管トランペットによる変形テーマの吹奏で、高い音がいかにカッチョ良くスカッと出るか(6番1楽章のF管Tpのソロのごとく、特にライヴではたいてい出ない。)と、同じく再現部 練習番号873小説前からにある2人のティンパニによるテーマ補強の3連打が印象的で、これは2部の最後のほうにも変形されて登場し、1000年の時空を乖離するテキストを強力に統一するための道具のひとつで、とても重要な箇所であり、サラリと流されて良いものではない。 

 盛り上がったところで、一気に豪快なコーダへ到る。

 この1楽章は、この後、明確なソナタ形式を書くことの無かったマーラーの、最後のソナタかもしれない。ここの天使のラッパの掛け合いは聴きものだろう。(これもまた、たいていヘボイけどw) 

 コーダではもう、恐るべきハイテンションで叫び倒し、アゲアゲの上昇カオスとも云うべき音の洪水に辟易する方もおられようが、その洪水は汚濁ではなく光の洪水であり、聖なる泉の器よりあふれ出る様である。身も心も、聖なる光を讃える音楽に浸ってしまって魂が持ち上げられるのが良いでしょう。

 実演で聴いたら本当にシビレますよ。  


第2部 「ゲーテの『ファウスト』第2部“山峡”からの終幕の場」

 マーラーの中でも8番が苦手という人は、おそらくこの第2部の長さが苦手なのではないだろうか。しかし、私の実演での意外な感想は、第1部の圧倒的な音と光のスペクタクルな洪水に比べて、2部のほうが飽きずに面白く聴けた、だった。

 2部はあちこちから意外な音楽が舞台上をまさに天使の行きかうごとく空間的に交差する、音楽による音楽のための音楽劇というべきもので、マーラーの音響設計のすばらしさを嫌というほど体験できる。まさに、壮大なる管弦楽伴奏の歌曲集でありつつ、同じく管弦楽伴奏付合唱曲でありつつ、歌劇の演奏会形式そのままでありつつ、音響設計という点と衣装や装置や演技に縛られず純粋に音楽のみで勝負する点では歌劇をも超えた超歌劇でもあるだろう。

 歌劇を超えるもの、それはマーラーにとって、交響曲に他ならないというのは、興味深い。

 また、2部では歌曲様式が連続して登場する、という側面ももっており、その連続した歌曲という形式は、そのまま次作の大地にもつながっていると思われる。

 面白いのはさらに、この2部の中に、通常交響曲のアダージョ、スケルツォに相当する部分が内在されるという指摘である。確かにそれも、ある意味構造的な分かりやすさにつながってくるだろう。またマーラーは厳格に登場人物に役を割り振っているので、例えばCDだとバリトンとバスの、つまり法悦の教父と瞑想する教父の絶妙な違いも分かりづらいが、ステージ上だとちがう人が歌うので、これが面白い。ソプラノと2人のアルトによる贖罪も同様である。あの3重唱へつながる展開が、ドイツ語の歌詞が分かる人や、暗記するまで聴き倒している人は別にして、入れ替わり立ち代り歌われるこれらが、CDでは漫然と流れやすいが、実演だと共演者が指揮者やお互いに眼をあわせたりして、本当に面白く聴ける。あちこちから合唱や器楽の音が(本当にポーンと)飛んでくるのも魅力的。

 問題は、最後のほうにたった2節しか出番の無い栄光の聖母(第3ソプラノ)で、これがまた高いところに登場して視覚的音響的効果を上げるのだから、マーラー先生、そのこだわりも異常ではないか。そんなもの、出番の無いソプラノに ちょいと やらせれば良いのだ。2番の5楽章で余ったトランペットへ舞台の端に移動しろなどと指示を出していたのとは対象的だ。マリアを崇拝する博士たるテノールの、首を絞められたような絶唱にも似た響きや、天使の女声合唱、児童合唱も面白い。まさにこの第2部は純粋に歌を楽しめる。

 1部の圧倒的なスペシウム光線をも凌駕する光の攻撃にやられてビリビリしている余韻をひんやりと冷やしてくれるのは、霧深き谷間の音楽。2部ではゲーテのテキストによる膨大な視点のベクトルが地面スレスレから天上にまで到る様子を、音楽においても体験できる。そのスタートが、霧深き谷間のビジョン。

 ここで不思議に鳴るシンバルが好き。何の音を表しているのか? 緊張感か? 微風か? それとも、淡くも鋭い谷間の光だろうか?  

 テンポがやや切迫するところで緊張感が生まれ音楽が変わるが、ここでトラックを切るCDもあり、分かりやすい。やがてその名も神秘の合唱が神秘的な音楽をうたうw
 
 瞑想の教父と法悦の教父の、ドイツ語丸出しの浪々とした歌い方も面白い。面白い韻律の踏み方はさすがドイツ言語を芸術まで高めたゲーテだと思うし、うまい具合に合わせて作曲するマーラーもすばらしい。ここは、ドイツ語圏の歌手が有利か。ここの歌曲的旋律と進行は非常に分かりやすく、歌劇のアリア的でもあるが、単なるカントルに終わっておらず、膨大かつ繊細な管弦楽に支えられ、広大無辺の世界を示し、交響曲という世界を構築しているのも注目できる。

 ここまでがアダージョに相当できるという。

 それから音楽は高音に移り、視点が上がってゆく。女声合唱から児童合唱へ移ってたくさんの少年や天使たちが登場する。その登場する順番は以下の通り。

 “天使”(ファウストの永遠の魂を運びながら、高い空中を漂う) → “祝福された少年たちの合唱”(山頂を経(へ)めぐりながら) → “若い天使たち” → “若く成熟した天使たち”(アルトソロと合唱) → “若く未熟な天使たち” → “祝福された少年たちの合唱”

 ここまでがスケルツォに相当できる、とのこと。リズミックで、高い音が高い場所を行き来し、実演では夢を見ているような心持になるが、CDでは(DVDですら!)イマイチ漫然とするのが残念だ。

 ちなみに、マーラーの伝記映画、ラッセル監督の「マーラー」(←面白いです。必見。マーラーとアルマがまた似てる!w)冒頭で、マーラーの夢の中、10番1楽章というまた微妙なBGMで、アルマが荒涼とした岩場で、繭から裸でモゴモゴ出てくるシーンがあるが、これは、8番の以下の歌詞にインスパイアされているのだろうというのは、熱心なマーラーファンにしか、なかなか気づかれていないようである。

 “祝福された少年たちの合唱”

 よろこんで、わたしたちは、
 蛹の段階にあるこの方をお迎えします。
 そうすれば、わたしたちも一緒に育ち、
 きっといつの日か天使になれましょう。
 この方にまつわりついている。
 繭だまを早く取って差し上げましょう。
 彼はもう神聖な命を得て、
 美しく大きく育ちました。 

 そして、マリア崇拝の博士が登場してからが、フィナーレに相当することができるのだそうだが、そのフィナーレ以降も、アダージョっぽかったり、テンポが速くなったりなんだりと、音楽の進行は多様なので、そういうカテゴリー分けはあまり意味がないという人もいる。私は目安としては、良いとは思う。

 博士は大地の1楽章に匹敵する高音の連続で、凄まじい上昇(いや、昇天か)志向を表すと同時に、歌手泣かせでもあるだろう。大指揮者が起用するようなベテランでも、ニワトリの断末魔みたいになってる人が本当にいる。なかなか、聴いていて悲哀感の漂う場面だ。旋律自体は、独特の浮遊感や高揚感がたまらない。

 「罪深き女」(第1ソプラノ)、サマリアの女(第1アルト)、エジプトのマリア(第2アルト)と、グレートヒェン=懺悔する女(第2ソプラノ)に促されたソプラノと2人のアルトが次々に贖罪し、3重唱に到るのは静かな圧巻で、第2部後半部の聴き所。カノンも良いがここのオーケストレーションが見事で、非常に薄く、大地の歌に直結する様な音形も出てきて実に興味深い。エジプト=東方系の旋律、という、意外と他愛のない理由だと思うが。
 
 それからコーダともいえる、この長い長いうた物語の最終場面。かつてグレートヒェンと呼ばれた女が少しずつ少しずつ昇天して行き、栄光の聖母がそれを迎え、博士が合唱する。最後に神秘の合唱が、永遠に女性的、母性的なるものを讃えて、壮大に、荘厳に、静かに、ちから強く、天国のトビラ、ヘヴンズドアーが開いてゆき、光の中に、全ては、消え行くのである。 

 “神秘の合唱”

 すべて移ろい過ぎゆく無常のものは
 ただ仮の幻影に過ぎない。
 足りず、及び得ないことも
 ここに高貴な現実となって
 名状しがたきものが
 ここに成し遂げられた。
 永遠の女性、母性的なものが
 われらを高みへと引き上げ、昇らせてゆく。

 これはマーラーの書いた、最後のハッピーエンド(またはフォルテシモ)エンディングでもある。マーラーの交響曲は、ここで一定の 「世界の完成」 を迎えたといってよいと思う。人間として、地上から天国を仰ぎ見る、最後の憧れと希望の賛歌。その集大成を完成させたマーラーは、まったく発想の異なる、次なる次元の地平の彼方へ向かい、歩み続ける。それは、大地であり、9番であり、10番である。8番と大地の間の、かすかな技術的共通性によってつながれてはいるが、深層的標題性においてまったく異なる 「おおいなる溝」 は、このようにして説明できる。さらに、9番と10番との間にある、溝も、説明できるヒントをくれるだろう。マーラー世界は9番でついに 「完結」 し、10番から新生している。マーラーの歩みは、現実問題として10番の途中で止まってしまったが、止まらなかったら、どこまで続いていたのか、とても興味ある事柄だが、夢想していて空しくなる瞬間でもある。

 第2部はゲーテの創作視点、ファウストの魂が永遠に女性なるもの、神、聖母の大いなる愛に救われて、ついに天上へ旅立つ様を、膨大な音楽的上昇力学で、聴衆もいっしょに螺旋的ベクトルに沿って上へ上へあがって追体験する、体験型交響曲(?)であるところが、実演で無くばその面白さが半減する最大の理由でもあり、CDだけではイマイチ難解で冗長な音楽に思われる理由でもあると思う。 

 8番は、その破天荒な規模や内容の荒唐無稽さも含めて、マーラーの創出した、おおいなる 神話 なのだろう。 


 実演で聞いた回数 1回

 さすがに、特にこの田舎ではそうそう聴く機会はない曲。某地元企業の記念冠演奏会で、ラッキーだった。選曲者は秀逸だ。



マーラーのページ

交響曲のページ

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