第10交響曲(クック版)
  (マーラー:1910−1911死去により未完 クック:1959−1972)  −新たなる旅立ち−




 今回思うところがあり、7番までを書いた時点でクック版を書くこととした。その理由をまず述べたい。

 7番も4番の次に書くことで、4からの精神性の直結を書き、さらに5番6番をさかのぼることで技術的には5と6の並列兼逆方向ベクトルの終結としての7番の存在……5、6、7のいわゆる「3部作」の中での最高傑作及び技術的帰結としての存在……を書いてみた。

 とうぜん4番は1番からの流れの帰結点として位置づけてきたつもりである。

 つまり私の中では、1番から7番までは、どう見てもあちこちの方向性を試みながらも強靭なマーラーというアイアンシェフの手によって豪快にまとめあげられた1筋の巨大な流れであり、1本の大樹となって映っている。嘆きの歌は云うなれば根っこというか土壌であり、諸歌曲は枝葉のひとつ。

 その世界樹のごとき、生命の樹のごとき交響曲の樹という大樹の頂点に登場し、1番から7番までの大きな帰結として燦然と輝き、大輪の華であり、蜜がこぼれるように音楽が降り注ぐのが8番であり、あるいは、大河でもよいが、1番からの大きな流れの一端の終点としての瀑布が8番であるとすると、それを超えた場所……つまり大樹が立ち大河の流れるまさに大地(世界・この世)と、大樹や大河の更なる高みに存在する宇宙……として並列に存在するのが大地の歌9番という、大きなイメージがようやく浮かんできた。
 
 それが現時点での私の中のマーラー世界となっている。ちなみにこのマーラー世界では、完全に9番で完結している。

 では10番は!?
 
 結論から云うと10番はその樹から生まれた種であり、新芽だと思う。新しい別個のマーラー世界の最初の若木だと思う。完結した世界よりさらに流れ出る新しい泉の流れだと思う。 

 ここで他のマーラーの交響曲世界の見方を考察したい。

 マーラーをあまり聴かない人あるいは聴いたことが無い人への解説としてよくあげられるのが、まず、1番を若人の歌とからめつつ初心者用として持ってきて、次に2番から4番を角笛歌曲との関連を含めて角笛交響曲とし、まとめて歌曲交響曲と定義する。次に5番から7番を純器楽交響曲として、器楽3部作とし、あるいはリュッケルト歌曲とのからみでリュッケルト交響曲とする。そして8番を別格とし(あるときは存在を無視し)大地と9番を世界が行き着いた先の彼岸交響曲とする。余裕があれば10番を未完成作品として、9番の延長として紹介する。この場合全集に沿うことが多く、10番は1楽章のみとなる。この時点ではクック版は嘆きの歌と同様に上級者用、あるいはマニア向けとされる。

若人 角笛 リュッケルト 特殊 後期3部作 マニア向け
1番 2番 3番 4番 5番 6番 7番 8番 大地 9番 10番(全集版) 嘆きの歌 10番(クック版)

 これはこれで、なかなかうまい分け方で、マーラー世界を上手に俯瞰している。しかし、マーラーを全体にわたり聴きこむと、この分け方では納得ゆかない部分が多々出てくる。
 
 そこで各人、己にあった分類を試み、それぞれのマーラー理解の手助けとするわけだが、初期のころお世話になったCOMEDIAというサイト(現在は終了)の管理人 IANIS さんによる独自の分け方が示唆に富んでいたので紹介したい。
 
 それによると、分類は2段階に変化してゆく。まず、上記の一般的な分け方を捉えつつ、それに対し疑義を投げかける。

 1と2を、マーラー世界の前段階としてとらえ、3と4を真にマーラー世界の幕開けとする。そして5と6が密接に関連しているとし、そこであえて7と8をその帰結として一体に捉える。それから大地と9が集大成として存在し、いろいろな意味で別格……最高傑作というよりかは、最重要作品……の10番が登場するが、それはクック版である。 

前段 初期 中期 結論 集大成 最重要
1番 2番 3番 4番 5番 6番 7番 8番 大地 9番 10番(クック版)

 ところが、IANISさんも3年をかけて独自のマーラー論を展開しているうちに自分で思うところがあり、次の段階に到る。

 それによると、マーラーの各曲、クック版を含めると11曲になるそれは、前半と後半でそれぞれ対峙できる番号があり、ちょうど11曲の中間にある6番を基点にシンメトリーを描いている! というものである。

 しかしシンメトリー構成はマーラー世界の重要な指針であるため、これは面白い構築法だと思う。

 まず1番と7番。これは1番は交響詩「巨人」とすると5楽章で、2・4楽章に緩徐楽章、中間楽章にスケルツォを配するという楽章構成の類似と、6番を基点とすると7番は1番に相当できる。

 次に2番と8番。合唱の役割と、2番を4楽章までと5楽章の2部構成で考えると、まさに8番に類似する。フィナーレの主題も∽(相似)関係にある。

 3番と大地の歌。共に6楽章制で、自然(大地)を描いているほか、最初の楽章が大きな3番と最後の楽章が大きな大地、さらに愛(生)を書く3番と告別(死)を書く大地が表裏の関係にある。

 4番と9番。4楽章制であり、4番3楽章の変容は9番全体の手法でもあるほか、共に天国を目指す精神も、4番のパロディーがあってこそ純真に9番で追求できている。

 5番と10番(クック版)は云うまでも無く共に5楽章制で、共に妻アルマが深く関係している。5番はアルマの愛に捧げられ、10はアルマの愛を追い求め……!!

 さてそうなると、地味にどれとも似てもにつかぬ6番が宙ぶらりんに浮かんでくるが、これが重要なターニングポイントとなって、全体の折り返しとなっている。つまり、6番を終点として、7番からマーラーの交響曲は再び出直る、つまり 「反復」 している。 

↓(反復している状態)

6番 1番 2番 3番 4番 5番
7番 8番 大地 9番 10番(クック版)

 これもなかなか興味深い分け方というか俯瞰の仕方だと思う。

 さてしかし、私が考える全体像はあくまで一つの流れであり、かつ、複雑に入り組んでいる。マーラーの各ナンバーはお互いに作用しあっているので、流れというよりかやはり木のようなものなのかもしれない。

9番
世界の完結

8番
世界の完成
7番
技法と精神の集大成
6番
技法の追求2
5番
技法の追求
4番
ユーモア(精神)
3番
中帰結
2番
規模の拡大
1番
平易性の追求

大地の歌
もう1つの完成
(歌曲との完全融合)

10番(クック版)
新たなる始まり

 よって、世界の成果と終着点そして完結編である 8番−大地−9番 を後期3部作として(大地−9番−10番ではない!)ゆっくりとそしてなるべく客観的に眺めるためにも、ここで1回界の外に立ち、新しい世界の出発点、そう、新たなる第1番であるだろう10番を考えてみる。そのためには、1楽章だけでは話にならないため、クック版を聴かなくてはならない。

 マーラーが長生きしていれば、間ちがいなく10番を起点とする新しい交響曲世界が広がっていったと確信している。私の中では、マーラーの交響曲は、技法においてはとうぜん連続しているだろうが、精神性においては10番で終わっているのではなく、あくまで9番で終わっていて、10番は、それまでを糧として、また始まっている。

 したがって、私の解釈では、マーラーの交響曲は、7番から反復でもまして再生でもなく、10番から新生している。


クック版の意味

 つぎに、「1楽章だけでは話にならないため、クック版を聴かなくてはならない。」 のは何故か考える。
 
 クック版のスコアを買って初めて分かったが、クックは別に補筆完成を目指していたわけではない、という厳然たる事実。彼の正式タイトルが示すとおりこれは 「試しにオーケストラで演奏するための実用版」 であって、完成などとはおこがましいと本人が認めている。
 
 つまり、クック版を 「マーラーの完成させたものではないからマーラーの作品として認められない」 などというのは当たり前というかクックにしてみればむしろ賛成とでもいうべきもので、それをもってクック版を演奏しない、聴かないというのは、ぜんぜん見当違いの行為であると思う。まして、「補筆などというおこがましいことはするべきではない」 というラッツの意見は、ただの癇癪あるいは僻みとしか思えないほど本末転倒だろう。
 
 クック版は 「演奏のための最低限の補筆」 なため、従って、意外にオーケストレーションが薄く軽い。それを厚く補ったのが例えばバルシャイ版であると云えるかもしれない。その薄さには賛否あろうが、じっさい音として鳴っているのを聴くと、そうスカスカしているものでもない。マーラーの音楽はたいていが大管弦楽ではあるが、所によっては非常に薄い室内学的な技法がふんだんに使われているため、違和感が無いのだと思われる。
 
 そのオケ譜の一番下に、3楽章より4段の簡易譜面が載っていて、これがマーラーの残したスケッチを整理したもの、であるという。直筆譜を音楽としてつなげるのに相当の苦労をしたことだろう。とにかく、マーラーのプロット楽譜とクックの仕事と比較できるのは非常に有難い。

 同時に、マーラーの残したスケッチが、概して、全体の曲想を知るには充分なものであったことも注目に値するだろう。ほとんど音楽の流れ的には変わらない。問題はオーケストレーションで、クックの仕事の大部分はそれであったと思われる。

 そうなると、まるで連作長編小説のようにつながっているマーラーの交響曲世界全体を俯瞰するのに、1楽章だけではいかにも9番の延長になってしまって正確ではなく如何ともしがたいのと、5楽章版(クック版)においても楽想の流れはほぼ変わらないのだったら、全体の姿がおぼろげながらも見えてくる5楽章版のほうが正確に把握できるのが分かるだろう。 
 
 しかも、これがまた罪なことに、たとえスケッチといえどマーラーの書いた音楽が美しすぎる! 特に5楽章で、この5楽章はたとえ補筆版であるとはいえ、10番の白眉であるだけでなく、マーラーの全音楽の中でも、白眉中の白眉の音楽であることは疑いようが無い!! ここにある絶唱を聴くにつれ、生への執着と生きる希望が見えてくるのはなぜだろうか!? そう、9番は完全に精神の世界で宇宙まで昇華されてしまった音楽なのだが、マーラーの魂は10番でまたも地上へ降りてきている……! 完璧に手法は宇宙的なまでに昇華されている9番のものであるとしても、ここに人間マーラーによる魂の復活宣言があるように聴こえる。その復活宣言は、5楽章に託されている。ゆえに、第5楽章を聴くことのできるクック版の登場となる。

 そこにあるのは、まったく新しいマーラー像であり、生まれ変わった、真に新世紀に対応した新マーラーだと思う。10番を大きなマーラー世界の外において新しい世界の第1番とする理由である。


幽玄の響

 第1楽章においては、これは、これだけが、マーラーによって演奏できるだけのオーケストレーションがほぼできていたということで、全集版にも含まれている。しかしそうは云っても完全ではなく、クックの書いた部分は小さい音符で書かれている。また説によってはこのアダージョの後にアレグロが続く予定もあったらしいということだから、村井翔の云う通り、これだって未完成といや未完成なのだったりする。私が全集版とやらをどうにも信用できないのはこの辺の事情にもよる。

 もっともただ聴くだけには、たいして違いは分からない。全集版とクック版の1楽章は、実は違うんですよ、というほうが正しいかもしれない。

 1楽章は、音楽的には確かに完結していなくもないので、1楽章だけでも悪くはないのだが、1楽章のみを聴いて10番を聴いたつもりになっては、おかしいこととなると思う。

 そう、1楽章だけで恐ろしいのは、これがまるで9番の延長のように聴こえてしまうことだろう。ゆえに、10番にも死の影が漂っているなどという評が出てくる。死の影というか、死への憧れとその反作用による生への執着は確かに大地と9番にはあった。しかし、後に出てくる軍楽大太鼓の一撃は、殉職した消防士の野辺送りの音楽だったという。マーラーはホテルの窓から儀式を見下ろして泣いていたというが、そのとき、彼は完全に 「送る側」 に立っていたと考えている。5楽章の美しさは、死への賛美ではなく、死んだ人物とその英雄的行為への賛美であって、マーラーは生きている。しかも生活は充実している。生きているゆえに愛し、嫉妬し、怒る。この生き生きとした美しさ、陶酔的ではあるが生命力にあふれた響き、愛のため息、フィナーレに復活するアレグロ、これらの現実味ある生々しい精神力は、非常に厭世的な大地や9番の終楽章とは完全に性格を異にしてはいまいか。

 繰り返すが、これが、私が10番がそれまでの後期諸曲とは決定的に異なり、新たなるマーラー世界の1番に相当するとする理由である。1楽章だけでは確かに大地や9番の世界を引きずっている(部分もある)。しかし、ここで聴くべきはやはり終楽章だと思う。だからクック版の登場となるのは述べた。

 9番が完成した後、資料によると1910年の夏より書き始められた10番は、スケッチをいろいろ進めながらも、1楽章から一気に3楽章あたりまで行ったらしい。したがって特に1楽章が9番の延長の世界にいることは、これは間ちがいない。しかし、それだけで、マーラー最晩年の世界を9番と同類に読むことは、これはどうしても出来ないのは上記している。なぜなら結果として5楽章まで基礎は作曲されていたのだから。

 ヴィオラの序奏ともいえる幽玄的な、まさにあの世からの呼びかけのようなか細いため息から、静々と弦楽合奏が主要テーマを奏でだす。この主要テーマは高名なところではブルックナーの9番3楽章と類似しているがその他にも類似の可能性がある楽曲が認められるという。

 マーラーがこの楽章を作曲中、まだアルマの浮気が発生していないというのも意味深であろうか。アルマに対するあてつけが酷くなるのは、3〜4楽章以降ということになる。それなのに、なぜマーラーはこの楽章を当初地獄などと名づけようとし、3楽章の煉獄と結び付けたりしているのだろうか?

 文学青年から順当に文学おじさんになっていたマーラーがダンテの神曲とゲーテのファウスト、さらにはリストの2つの交響曲、すなわちファウスト交響曲とダンテ交響曲のように純粋に文学的見地から作曲を開始した、つまり9番で世界を完結させてしまった彼が意外と単純な動機で作曲を始めたとしても、おかしくはない。武満だって黒澤の機嫌を即興で歌った「明日ハ晴レカナ曇リカナ」は名曲だが、作曲の動機は他愛もないものだ。

 問題は、動機が単純でも出来上がった音楽はちっとも単純ではないということだろうか?

 さすがにそこまで考えてしまうと、もう収集がつかないし、私は作曲が出来ないので作曲家の心理はおろか実際の作曲作業や作曲に際する作曲家のアタマの中もわからないので、深読みはやめるが、作曲の動機などというのはそもそも単純で、あとはいかに楽想を膨らませるかという技術上の問題だと思う。特に西洋音楽の作曲は作曲理論が大事だし、対位法の大家マーラーに至っては、感性の産物である楽想を、理論をいかに道具として使いこなし膨らませるかという部分での大家だったのだろう。

 小説やマンガだって、キャラが1人で歩き始めてしまえば、その後のストーリーは作者といえども思わぬ方向に進んでしまうことだってある。マーラーの歌曲や6番等にみられる破滅願望主義とも云える方向性は、彼の創作の主眼であるため、10番で始まったことではない。マーラーの音楽に彼の意思を見出そうというのは、時に意義のあることで、時にまるで意味のないことかもしれない。まさに矛盾に満ちたマーラーらしい世界のようにも思える。

 さてこの1楽章は、回旋律のようなものの多様などで、世界としては9番の延長といえるだろうが、世界観となるとどうだろう。美しいがけして9番のように確固たる土台を気づいておらず、ふわふわした夢幻的な(ベルクのような!?)響きが連なって、そうと云いつつも、9番よりもはるかに動きがある。この動きはどちらかというと焦燥というか落ち着きの無いものだろう。あげくにはコーダ前のあの不協和音! この楽章を支配するのは、大いなる不安感だと思う。

 確かにこの部分だけを鑑みるに、彼にとって地獄の響き、ソナタ形式の極北とされた9番1楽章を超えた、ソナタ形式の地獄の釜が開いた瞬間といえるかもしれない。

 この衝撃的な、マーラーにとっての地獄の響きのせいで、ここで10番世界を終わらせている人(つまりクック版を否定する人)は多いと思う。彼らにとって、9番の後には、このような世界しか認められないのだろうが、ちょっと勿体無い話だと思う。ある意味、9番至上主義とでも云える人々なのだろう。

 しかしマーラーは確かに、この世界の続きを書いていた!!

 ※ちなみに上記の理由により、実はクック版と全集版は微妙に異なるとのことですが、そこまで比較してません。


スケルツォ

 ここの変拍子は異常だ。マーラーの書いた楽章の中で、もっとも複雑な拍子をしている。しかもそれでスコアがバラバラだったというのだから復元作業の苦労が偲ばれる。ここで我々は9番2楽章の 「切って張った」 楽想の順番を思い浮かべる。交錯する楽想は、作曲者にとって順番は非常に重要だったのだろう。

 ついでに版によって拍子がちがう様だが、それはマーラーがそこまで整理していなかったから致し方ないといえる。

 しかしこの音楽は、アルマは 「騒々しい」 と評したというが、そう、音量的には喧しくはない。なにが騒々しいのかは、分からないところだが、このギクシャク感やザワザワ感は6番の2楽章以上、9番の2楽章以上の効果を上げている。特に楽譜を眺めていると、着いて行けなくなる箇所が出てくる。それほどリズムと楽想が頻繁に交錯し、流れが寸断され続ける。つまりそれは、わざとそのように作曲されている(されようとしていた。)というしかない。

 マーラーの無意識のうちのアルマへの当てつけ、と云われれば、説得力はある。しかし複雑なスケルツォの意味は、5番3楽章の例もあるとおり私にはなかなか容易に判別はできない。あるいは、そのような意味を見出す必要はないのかもしれない。

 効果だけを考えた時、これがあの幽玄的な1楽章の次に来るというのがミソだろう。それは9番にも通じる世界なのだが、その鋭い対比が産み出すものは、全体のバランスをより際立たせる以外に考えられない。9番で1楽章と4楽章だけ良いという人もいるが、それはマーラーの全体を鑑賞する態度ではなく、一部を愛しているにすぎない。それはそれで良い。私だってベートーヴェンだのチャイコフスキーだののすべてを愛しているかというと、そんなことはない。一部を愛している。

 しかし私のこんな項までお眼を通しておられるディープなマーレリアーナー諸氏にとっては、楽章の順番や全体から見たその効果は大問題だろうと推察される。

 悲しいかな私の未熟な耳と頭脳と感性では意味までは見出せないので効果を考えるが、この故意に複雑な響きは、1楽章においての響きによる焦燥感・不安に続く、リズムによる焦燥感・不安を適格に表しているのだろう。2楽章続けてそのような不安を表現するということは、ここに至って初めて、マーラーの心中を察することができる。不倫は始まっていなかったとはいえ、アルマとマーラーの仲は、かなり凍りついていたのだろうから。

 しかし、この不安は実は、まだまだ続くのだったりする。


煉獄

 この短い楽章は、途中に冒頭部分のまるごとリピートがついているので、本来はもっと短い。マーラーが生きていたら、このままでは終わらなかったであろうことは容易に想像がつくが、しかし、他の曲の中間楽章の様に10分も15分もあったかというと、そうでも無かったのだろうな、とは思う。現行では3〜4分だが、せいぜい、5〜6分で収まっていたのではないか。

 というのも、煉獄というところは、リストの交響曲の項にもあるとおり、そもそも地上と地獄の中間にある暫定的で便宜的な階層で、1楽章が地獄なのだから、煉獄はそれほどのヴォリュームではないというのが分かる。

 構成的には全体の支点として上手に作用しているし、1楽章が地獄、3楽章が煉獄、2・4楽章が中間、とすると5楽章が天国への道……かというと私はそうは思わない。5楽章は、なんと、地上だと思う。

 そうはいっても、マーラーの執拗な書き込み〜アルマが怒りあるいは身の不安を感じて切り取ってしまったほどの〜も気になるところである。

 ここに登場する7番のスケルツォのような、影を思わせる不気味な旋律は、角笛歌曲の「この世の生活」というかなり悲愴な歌との関連があるようだが、なるほど。まさにパンを焼いている間に飢えた子どもは死んでしまうという生き地獄のような世界の心象を、マーラーはアルマにたいして当てつけたのだろうか。そう、この楽章より、マーラーのアルマに対する悶えるような感情が噴出してゆく。

 中間部では第1主題より発生した旋律と引き延ばされた呻きのような旋律が対抗する。ここでは次楽章の断片もかすかに聴こえる。オーケストレーションはますます薄くなるが、それは仕方がないし、むしろ、うらぶれた不気味さが際立つ。1番の3楽章のような。

 リピート記号(正確にはダカーポ)で冒頭主部を繰り返したのち、音楽は呆気なくコーダへ向かう。このリピートの際、マーラーだったならば必ず変化をつけただろう、という意見もあるようだが、それではリピートではなく、記号をつける必要はない。考察は2種類あって、便宜上リピートをつけてあとで取っ払って推敲するパターンと、1番や6番のようにそのままリピートさせた可能性。

 結果としてリピート記号のままマーラーは死んでしまったので、ここでは他の可能性は考察しないでおき、リピートをそのまま味わっておく。

 とはいえ、やはりホントにこれでいいのかどうか、大いに疑問も残る。

 コーダではホルンにより主題がつぶされたようにゲシュトップで変形され、不気味なハープに乗って低弦が受ける。優雅なというより不安感を煽る見事なハープの効果と、大地の歌を思わせる冥府のドラの一撃が、聴くものを戦(おのの)かせる。とはいえ、煉獄の答えは、地獄ではなく、地上にあった。奥さんの激しい浮気問題で心身ともにすったもんだしたこの時期のマーラーにとって、現実世界こそ、煉獄にふさわしい。


ああ、ああ、ああ!! 悪魔が私と踊る!

 さて4楽章においては、どうしても打楽器に耳が奪われてしまうのは、アマ打楽器奏者としての私の性だろう。しかも、ここの打楽器は賛否両論というべきか、クック版においても版によって異なるらしいし、指揮者によってもこれがまた異なる。私の買ったFABER社のスコア(第3稿第2版?)によると、4楽章で使われる打楽器は以下の通り。

 ティンパニ(2人) シンバル バスドラム 軍楽用バスドラム ドラ ルーテ グロッケンシュピール

 つまりコレ以外の音はすべて指揮者の創作追加か、以前の版の踏襲となる。この辺の経緯は金子建志著「こだわり派のための名曲徹底分析〜マーラーの交響曲2」にくわしいが、この本はこだわりすぎているため、万人向けではない。

 それによるとクック版には第1稿(途中まで)と第2稿(いちおう完成)があり、その後のさらなる研究で第3稿が出来、それのさらに第1版と第2版がある。そして第3稿第1版まで、冒頭のテーマのところにスネアドラム(小太鼓)が、そしてその後の特徴的な旋律線を補助する役割でシロフォン(木琴)が入っている。しかし第2版よりそれらがまるごと消えたらしい。

 私の所持しているクック版で、それらを比較してみたい。(録音年順。随時追加)

モリス/ニューフィルハーモニア管(1972)

 初期の録音のため演奏の流れが悪い部分もあるが、貴重な録音には変わりない。動きが多く、けっこうドラマティックな演奏に思える。スネアは胴の深い重い音で、トレモロの粒が粗い。シロフォンは普通。

 ちなみに、軍楽用バスドラムの一撃は、余韻が極力抑えられた ドムッ…! という音。また、回数を、スコアは4楽章最後からテューバソロまで2発なのだが、ここを1発省略する指揮者もいるので、ついでに聴き進めてみたい。

 ってモリスがいきなり省略!!(笑)

 レコードのA面B面の関係で省略したのかな? →CD化に際し、編集者のミスで落ちたみたいです。アホか!! 参照。

ザンデルリンク/ベルリン響(1979)

 初めて聴いたクック版がこれかシャイーか忘れたが、10番の全曲版とはずいぶんゴッツイ曲なんだなあと感心した演奏(笑)

 さてこれは初期ということもあるのかどうか、かなり特殊な演奏で、演奏効果を鑑み、冒頭のスネアになんとラチェットが加わるという奇抜さ!! ラチェットとは、金子氏はガラガラと称しているが、なんというか、歯車のようなものを薄い板と組み合わせ、歯車を回すと ガガガガ あるいは ギャギャギャ と騒音が鳴る楽器。ネジ回しの音を模しているという。連続して鳴らすと確かに ガラガラガラ と聴こえなくもないが、ガランガラン では無いです。よく分からない人、すみません(笑)
 
 そしてシロフォンあり。

 ラチェットはその後のすべての再現に登場し、乾いた異様な空気を産み出している。

 軍楽用バスドラの音色はミュートの効いた鋭い砲声のような、ズドッ! という音。回数はスコア通り2発。

シャイー/ベルリン放送響(1986)
 
 スネアドラムあり、シロフォンもあり。ただしシロフォンは控えめな音色。他の打楽器はなかなか大きく鳴らされて、インパクトがある。スネアはトレモロの尻にアクセントがついているので、ハッキリと自己主張が強い。
 
 軍楽用バスドラムは、4楽章ラストから5楽章冒頭テューバソロまで、2発。スコア通り。ゴジラの足音のようなズシン……! という音。

インバル/フランクフルト放送響(1992)

 スネアあり。シロフォンあり。スネアもシロフォンもあまり大きくはないが録音全体にも云えるが硬質な響き。スネアの音は胴が深いように聴こえる。(金子氏の指摘するトランペットのフラッターも凄いが、表情過多かもしれない。)

 軍楽用バスドラは2発。スコア通り。ダン! というやや高い(口径の小さい)音。
 
ラトル/ベルリンフィル(1999)
 
 スネアなし、そしてシロフォンもなし!! これはクック第2版に忠実であるが、シロフォンに関しての理由が 「ヒンデミットみたいだから」 というのはちょっと意味不明。

 それでなくともラトルはクック版の早くからの推奨者で、校訂に多々意見しているという。そのようなわけで、ラトルは、4楽章最後から5楽章冒頭にかけての2発の軍楽用バスドラを、1発省略している。そのほうが良いと思っているらしい。これは、私はどっちでも良いような気がする。音は遠くで鳴っているのを模しているのか、あまり大きくなく、ドーン…! というふうで余韻がある。

ハーディング/VPO(L2004)

 スネアなし、シロフォンなし。表現もそんなに鋭くない。ふんわりしてる。バスドラは1回で完全にラトル流。音はふつうにドン! 胴の浅い太鼓を再現している。

ギーレン/SWR(L2004)

 スネアあり、シロフォンもあり。シロフォンがやはり大きめ。アクセント的な効果は大。バスドラは凄まじい。ドゥガアッ! というまさに衝撃音。やりすぎ。CD-R盤。

ギーレン/SWR(2005)

 スネアあり、シロフォンもあり。音量はさほどでも無いが、スネアもシロフォンもかなりクッキリ鳴らされている。そして軍楽用バスドラは1発。つまり、クック第1版とラトルの解釈の折衷といえる。インターバルとしては2発のほうがドキドキし、テューバのテーマが際立つが、音楽の流れ的には、やはり1発のほうが素直だろう。

 軍楽用バスドラの音は鋭いが録音にエコーが効いているせいもあって ズドォッッ…! という感じ。また、この録音では、バスドラソロの前のティンパニと小シンバル付大太鼓(1番の3楽章に出てきたやつ)とのアンサンブルで、モリスに次いで、小シンバルの音もよく聴こえる。

ノセダ/BBCフィル(2008)

 スネアなし、シロフォンなし。ドゥン!というなかなか良い音。こちらは2回。テンポ早め。

 さて聴いてきてみて、ラチェットは別にして、スネアとシロフォンの絶大な演奏効果の魔力には、ほとんどの指揮者が抗しきれてないことが如実に分かる結果となった。これは聴き手として非常に難しい問題で、小太鼓は9番3楽章の短い(たった1小節!)が直近例があるとして、シロフォンは6番まで遡らなければならない。曲想に合っていると云われれば合っているし、無くても良いというのであれば、確かに余計なオーケストレーションかもしれない。

 というのも、マーラーの打楽器多様は7番を頂点にあとは控えられる一方なのである。ただし、これは数ではなく用法の問題。

 特に大地はその控えめな用法の割に効果的な使い方に着目できるし、9番は非常にインパクト的な使用法に限定されていて、これも達人の仕事と云える。他のシンフォニーで嵐のごとく叩き荒れるティンパニは、たとえ曲想が完全に他と異なっているとしても、大地ではなんと4楽章の一部にしか登場しない。
 
 したがって10番でいきなりシロフォンが鳴るというのは、とても効果的で、もしかしたらマーラーも採用していた可能性を棄てきれないのを加味しつつも、ちょっとそれまでの打楽器法の流れからは外れているのではないかと思わざるをえない。

 ゆえに、いかにも「マーラーっぽい」打楽器多様は、私は10番には不必要だと考える。 

  モリス ザンデルリンク シャイー インバル ラトル ギーレン ギーレン(CD-R) ノセダ ハーディング(CD-R)
特殊 × ラチェット × × × × × × ×
スネア × × ×
シロフォン × × ×
軍楽用バスドラ 冒頭2

 「悪魔が私と踊る」 楽章であるが、そのイメージがシロフォンだとしたら、最後期としてはちょっと安易といや安易かもしれない。ルーテと共に。スネアのインパクトは私も抗しきれないものがあるが、必ずしも無くてはならないかというと、そうでもない。従って個人的には、懸案の楽器は4楽章は現行スコア通り、スネアも不要、シロフォンも不要。クックは採用しているが、できればルーテもいらない! 小シンバル付大太鼓は微妙なところだが、シンバルも聴こえる演奏が少なく、それで違和感が無いので、ふつうの大太鼓でも充分だと判断できる。

 マーラー晩年の仕事では、少なくとも技法上9番や大地につながるものであれば、打楽器は必要最低限……つまりティンパニ、シンバル、バスドラム、ドラ、グロッケン、そして誰がなんと云ってもトライアングル……これで充分といえる。あるいはルーテやシロフォンがあるくらいなら、低い音程の鐘でもあったほうがよりリアルだろう。

 もし長生きし、大戦と市民革命=ヴァイマール共和国の誕生を経験した老マーラーがその後どうなったかは、この項では考えても意味がないので述べない。

 さて、打楽器に対するマニアックなこだわりはそれくらいにし、楽曲そのものを考察してみたい。第2スケルツォであるが、原譜スケッチにはそう書かれておらず、曲調からの推測らしい。ここのマーラーの書き込みが高名で、嫉妬に狂わんばかりのマーラーによる当てつけ音楽の最たるもので、そういう意味では、打楽器による衝撃的な騒音もありえるが、マーラーが後期になればなるほど楽器法が簡素になってゆく中で、疑問も残るのは確か。いくら嫉妬に狂っているとはいえ、作曲なのだから、冷静な人格がそこで第3者的に譜面をさらに整理するはずだったのは疑いようはない。衝撃は、ラストのバスドラで充分だし、それを強調するには、重複するが、4楽章そのものの音色は最低限に抑えるべきだと思う。

 複雑に交錯した怒りの絶叫のテーマと、狂おしいほどの愛の踊りがなんとも痛ましい楽章だと思う。

 またミリタリーバスドラの前にティンパニ2台と小シンバル付バスドラムの絶妙な 「打楽器アンサンブル」 があるのも聴き逃せない。これにより雰囲気を独特のものとし、太鼓の音による導入でもある。また、重複するがここの小シンバル付バスドラムは、判断が分かれるだろう。

 静寂の中の銃撃のようなバスドラの一撃のショックは、大抵の者が指摘するように、ハンマーですら超えるほどのものがある。特殊楽器を使うのを悪いとは云わないが、単純に特殊楽器を使用するより、より熟達した書法になっているのが分かる。アタッカでフィナーレへ続くが、合計で12発も葬送の精神的衝撃を示す芸術的な一撃は鳴り続ける。この軍楽用バスドラの音色も非常に重要な考察対象で、マーラーが聴いていた音は眼下においての遠い音であるが、指定はミュートをした口径の小さい軍楽用(現在ではマーチング用)バスドラだが、ただでさえ音がつまっているのにミュートの指示があるということは、やはり余韻が残らぬ鋭い突き刺さるような衝撃的な音が必要なのだと思う。
 
 つまりマーラーの表しているのは、じっさいに聴いた音の再現ではなく、聴いた際の心理的ショックの再現であるといえる。

 よって、ここのバスドラを、余韻を残している演奏は支持できない。ただし、ホールの残響はもちろん別だ。


私の竪琴……!! 

 さて、まさに天才にしか書けぬ音楽により4楽章からアタッカで続く5楽章こそ、10番の白眉だけではなく、全マーラー交響曲の白眉と云って良い。10番が新マーラー世界の1番であるとする理由も、またこの全マーラーの最終楽章にある。

 5楽章は草稿とそれを基本としたクック版では大きく分けて3部形式であることは明快だが、やはり重要なのは最後の部分でしょう。この10番においてもマーラーにおいても最終楽章は、意外や非常に分かりやすく構成が単純化されているのも注目したい。

 第1部は4楽章の続きであり回答に思える。ここはあまりに無機質で地獄をも超えた月や火星のような荒涼とした世界に、バスドラが容赦なくそのような世界に墜ちた者の精神的ショックを表現する。それを導くチューバはクック最大の成果だろう。低弦では緊張感に欠け、バスドラの衝撃を完全に受けきれず、荒涼感が表せきれない。

 またこの衝撃は、室内楽的なオーケストレーションでこそ最強の効果を上げるのは、もはや疑いのないところであり、他の楽器を混ぜるなどというのはあり得ない話だと思う。全体のことは9番が意外とオーケストレーションが厚いので何とも云えないが、打楽器に関しては確信がある。10番に6番7番のような打楽器法を持ち込んでは絶対にダメだろう!!

 バスドラとチューバのソロから続くのは、なんとフルートによる絶唱! 大地、9番から続くフルートのこの世のものとは思えぬ美しい世界が我々を包み込む。大地の6楽章では精神的な(東洋的な)荒涼を尺八のように虚無僧の響きで表し、無常観を表したので、あれはちょっと意味が違うような気もするが、9番の1楽章ではまたホルンとのデュオでまるでアルマとマーラーの掛け合いのようにも聴こえて、すると、10番においては、煉獄世界の続きにおける天上からの天使の歌声であると同時に、アルマそのもの、アルマへの想いそのものというように聴こえる。 

 この旋律の与える印象は、ほぼ無伴奏フルートソロ曲のようなので余計美しく、空恐ろしくすらある。武満の「エア」のようであり、そうなるとバッハ的な響きすら聴こえる。虚空の中に浮かび上がる1本の横笛は、アポロ的で近未来的ですらある。

 これに続く第2部はなんとコケティッシュなアレグロで、フィナーレにアレグロが登場するのは7番以来だろうか? 8番もそのうちに入れて良いだろうか?

 このアレグロ部は3楽章の変奏ということで、3楽章が短い理由がそこにもあるという分析は説得力がある。また3楽章が単純なリピートのみとなっているのは、ここに変奏があるから、というのではなく、それは単純にマーラーの仕事がアイデア(プロット)段階で終わってしまったためで、違うと思う。

 そもそも3楽章から通じるアレグロの主要テーマは第1部から出てきているので、それの変形とも云える。煉獄世界は、衝撃のバスドラの音色や呻き声の様な低音のテーマと共に、地上に吹き上がってきたのだろう。じわり、じわりとそのテーマが増殖し、危機を知らせる。

 ここのアレグロはオーケストラレーションが薄いせいか、なんとも寂しげだ。ここでは厭味も当てつけも無く、煉獄は現実世界の地上ではなく実は己の胸の中の出来事だったとマーラーはハタと気づいたのだろうか。気づいた時、アレグロは唐突に終わりを迎える。

 アレグロが終わると、第1部が再現されるのだが、もうバスドラが聴こえないのが示唆に富む。マーラーの精神は、次の境地に達している。第3部の世界に達している。ここには同じ楽想でも明らかに変化が認められる。また1楽章のあの絶叫が再現されていることも注目できる。

 さらに、最後にして最高、究極の愛のテーマであるコーダへ向かう前に、アルマのAの音が伸ばされるという示唆……!

 第3部は、第3部こそが、10番中、いやマーラー全交響曲中の白眉であると思うのだが、それはただ単に神がかった忘我の美しさだけではない、強靭な意志が認められるからである。このラストには明らかに希望がある。涙のあと、それをふっきって前に確実に進みだす力がある。そこには聴くものが新たな世界に向けて歩き出す喜びがある。

 マーラーは、己の心の中の煉獄を振り払って現実へ帰って来たのである。

 ゆえに、10番こそ、新たなる世界への入り口なのだと確信できる。我々はこの5楽章を聴き終えた後、未来に対して希望が持てる。ある種、すがすがしい気持ちになる。光がある。それはまったく新しい世界の光となる。そしてマーラーに感謝できる。音楽に感謝できる。マーラーの新しい世界を垣間見れる。

 10番全曲演奏版を聴いてこそ、マーラー最晩年の光明差したる新境地に触れることができる。
 
 その新しい光が果たして許しなのか、諦めなのか、別れなのか、救いなのか、希望なのか、願望なのか、愛なのか、そこまでは分からない。しかしマーラーがこれまでとは異なる精神に到っていた事は、音楽が予想させてくれる。

 が、答えは結局、見つからない。見つかってはいけない。

 マーラーは、絶好調とも言える仕事生活の中、アルマとも仲直りし、新しい交響曲世界への入り口も開け、伝説へ足を踏み入れかけたが、突如として喉を菌にやられ、一気に敗血症となって倒れた。抗生物質の無い時代、もはや死を待つだけとなって愛するヴィーンに帰り着いた。モーツァルトを指揮する混濁の中、バッハの構築性とベートーヴェンの激情とシューベルトの歌謡を3種の意味で故郷の無い現代人として後世へ伝え、没す。


他の版について

 みなクック版を下敷きにしているようなものだが、余計な、必然性の感じられない楽器の追加があり、それはそれで面白いのだけれど、いまだにクック版を超えるものは無い。別に私はクック版至上主義というわけではなく、必然性のある、まるでマーラーが生き移ったかのような版があればそれにこしたことは無い。が、どんなにマーラーっぽく対位法や和声や打楽器を追加しようと、それはあくまで実用版の域を出ないのは明らかで、それでは、最低限といいつつその完成度の高さで、クック版を超えるものはおそらく出ないのではないかと思う。クック版で物足りないという人は、よほどに研究者の域に達した人か、金子氏のように指揮者として実演する上での不具合を感じている人、あるいは10番を100回以上聴き倒して頭の中でちがう音楽が鳴るようになってしまったディープな人とか、それぐらいになるだろう。クック版の禁欲的な簡素さは、逆に、私にとっては最大限に無駄という無駄を廃した侘びの世界に結果として通じるもので、それだけで非常に魅力があるものとなっている。極限まで無駄がないということは、つまり、無限である。

 オーケストレーションが薄かろうが、和声が足りなかろうが、どこぞの対位法はこんなものではなかろうが、すべては、我々のマーラーに対するただの夢想であり、10番が完成していたらどんな音楽になっていたのだろうかという、泡沫の夢にすぎないのだろうから。


 実演で聴いた回数。あたりまえのように0回。一生に一度は聴きたいですねえ〜!



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