シュミット,フランツ (1874−1939)
 

 山崎与次兵衛のページ の よじべえさんのご好意で、フランツ・シュミットの交響曲を聴いた。

 吹奏楽出身の私としては、シュミットといえば長く吹奏楽曲「デュオニソスの祭」で高名なドイツ系フランス人のフローラン・シュミット(1870-1958)のことであり、オーストリアにもシュミットがいてフランツさんという、というのは、ずいぶん後で知ったことだ。

 作風からいうと、フローラン・シュミットと比べるとかなり古風なものであるが、同時代の世紀末ヴィーン風に影響されたような斬新な部分もある。しかし、あと一歩抜けきらず、悪い意味でアカデミックで折中的な嫌いもある。若いときはチェリストで、ヴィーン国立歌劇場において、かのマーラーの指揮の元でチェロを弾いていた。後年はヴィーン音楽アカデミーの院長にまで上り詰めた。

 作曲に関してはヴィーン音楽院におけるブルックナーの弟子で、交響曲は40分ていどの大規模なものを4曲も書いている。
 
 真に後期ロマン派最後のシンフォニストとして、隠れたファンを持つ。かめばかむほど味が出てくるが、最初はかなりカタイという印象だ。歯が丈夫な人でないと、太刀打ちできないだろう。

 シェーンベルクと同い年。


第1交響曲(1899)

 1899年に完成したこの曲は、4楽章制の正統な交響曲で(3、4番もそうであるが)45分ほどの大曲。そもそも、シュミットの交響曲はすべて40分以上の大規模なもの。正統的な後期ロマン派であると同時に、新古典派の血筋も引いているといえる。

 ファンファーレ的な序奏より、なんとも優雅なテーマが流れる。ワーグナー的な旋律と展開が面白いが、構成はブラームス的でもある。そこいらへんのブレンド感覚が長けている。そしてオーケストレーション(とくに金管の用法)はR.シュトラウスの影響が顕著だ。こうして書くと、なんともごちゃ混ぜ交響曲のようだが、それらをまとめる手法というのは、確かにうまい。印象派のような和声感覚もある。しっかりと地に足のついた形式の中の、独特のエッセンスのような斬新な部分に興奮するマニアックな方は、喜ぶだろう(笑)

 2楽章は緩徐楽章に相当するが、全ての楽章がまったく図ったように10分で統一されているのは、後期ロマン派といえども、かなり古典的だと感じる。確かに、マーラーやブルックナーは緩徐楽章が長すぎるという人もいる。本来、交響曲の白眉は1楽章であったはずだが、後期ロマン派というのは、1楽章はもちろんだが、新たな個性として、緩徐楽章とフィナーレへ重点を置いたと思われる。その中にあって彼らのしたの世代に属するシュミットが、さらに古典的な性質へ回帰したというのは、彼がアカデミックな境遇にあったからかどうか。切ないテーマと朗らかなテーマがおそらくソナタ形式で順当に進んでゆく様子は、なかなか聴かせる。コラールも美しい。ダラダラせず、スパッと終わるのも潔い。

 3楽章は順当にスケルツォ。舞曲ふうなのがまたブルックナーやドヴォルザークを思い起こさせて良い。最初はふつうのスケルツォなのだが、なんかどんどん調が変わっていってラヴェルかマーラーっぽくなるあたりが、なんとも地味に「革新的」な部分w そのまま音楽が崩壊してしまえば、歴史に名も残ったろうが、最後は順当に冒頭へ戻って終わる。

 フィナーレも期待を外さない。明らかに明るい調子で、歓喜を歌うわけだが、フーガやロンドなどの古典的な形式に、オーケストレーションや転調で未来思考という典型的なアカデミア。こういう人の評価は難しい。個性というかナントカと紙一重の才能を尊ぶ人からは古くさいとか中途半端とか云われ、古典を尊ぶ人からは常道ではないとかやっぱり中途半端とか云われる。ようするに悪くないのに妙に損をする作品である。従って、どうしてもマイナーだ。中間部の延々とつづく弦楽の一本旋律なども斬新だし、それらへ管楽器が絡んで最終的にフガートを形成する部分など、なかなか面白いのだが。コラール、ワルツやなんだも回想のように現れては消えて行くが、パロディというでも無い。変にマジメ。最後は立派に盛り上がって終わる。

 なにより、全体的にも形式がしっかりしているので時間の割には長く感じない。ただし、何回も聴かないと味が出てこないかもしれない。演奏会で1回、聴いただけでは、地味で面白みの無い曲、ととられるかもしれない。


第2交響曲(1913) 

 1913年に完成したこの第2番は、形式の面において革新的なことがある。すなわち、第2楽章が変奏曲であり、3楽章制なのである。それのどこが革新的かと云われればそれまでだが(笑) シュミットの交響曲においては、2番だけの試みとなっている。

 しかもその変奏はかなり大規模なものであり、20分前後に及び、全曲の半分近くを占める。

 1楽章は木管の明るい調子で導かれ、それが細かく変化してゆく。その内より金管のテーマが沸き上がって、堂々と第1主題が奏される。そこからそのテーマが弦楽へ移ったりしつつも、無限旋律のように流れてゆく。しかしオーケストレーションは常に厚く彩られ、薄くなっても、音楽としてではなく表現として便宜上静かになるのみなため、そこが少し、音色的に飽きる部分かもしれない。激しい不協和音もある刺激的な部分とそういう間奏的な落ち着いた部分との対比に脈絡が無く、形式観があるようで無い。R.シュトラウス的な部分が多い。旋律線はやはりワーグナー的か。全体としても、交響曲の楽章というより、かなり交響詩的なドラマと面白さを持っている。ただし、ちょっとしつこいかもしれない。

 2楽章は2番の白眉だろう。長大で上質な変奏曲を楽しめる。牧歌的な主題が木管で示され、それが弦楽、その他の楽器等と順当に変奏してゆく。この手堅い変奏は、エルガーにも通じるかもしれない。ただし、転調や音階の変化は、現代的だが。手法は、古典的である。ワルツもあれば、スケルツォっぽいものもある。アンダンテからアレグロまで、まるで車窓の変化を見ているような音楽で、その変化が上手であり、楽しい。最後もあっさりと終わり、ハデさは無い。

 3楽章は調が変わり幾分か深刻な、暗い音色へと変化した主題が、無調的な動きもしつつウネウネと発展してゆく。(しかし無調ではない)
 
 それが4分くらいかけてうにょうにょと盛り上がって明るくなって、ついにパーッと目の前が開けるあたりは、なかなか芸が細かい。ここで一気にぶわーっといくと良いのだろうが、なんとも堅実な響きがまた(^^;A

 そして、このじわじわひたひたが10分以上も続いて、いいだけフラストレーションがたまったころ、ついに、壮大なファンファーレが現れる仕掛け。なんというブルックナー。(5番っぽい) なんという山頂。(アルプスっぽくもある)

 しかしそのファンファーレも、その後、さらにじわじわと3分も続くから、注意が必要である(笑)


第3交響曲(1928)

 1番から2番まで14年をかけたのと同じく、2番よりやや時間を置き、1928年に完成した3番は、4楽章制の伝統的な構成。

 序奏なしに、木管アンサンブルより始まり次第にテーマが盛り上がって来るが、その旋律進行は必ずしも平明ではない。ただし、美しい。木管と弦が延々とくんずほぐれつする展開も複雑で、シュミットの交響曲はどんどん難しくなって行くが、前衛というではない。従って、とても演奏しにくい。この進行や和声、それに展開の複雑さで、ロマン派の音楽語法を持っているのであれば、難しくないはずがない。これなら無調でギーギーヒヨヒヨやってるほうが、遙かに(カンタンとは云わないが)やりやすいだろう。

 木管の侘しげなテーマが特徴的で、何回か繰り返される。1楽章は最大規模で14分ほどあるが、金管の出番があまりない。従って、しっとりとした味わい。ウネウネとした奇妙なテーマと、それと対比するような明るいものとが交錯し、独特の世界へ聴き手を導いている。なんとも渋い。

 2楽章はアダージョであるが、これまでと同じく、速度はやや速いうえに、時間的にも短い。またとても聴きやすい。ここの旋律は、変な半音進行は少なく、とても聴きやすい部類の物だろう。構成も、シュミットにしては単純だ。

 3楽章はスケルツォ−アレグロ・ヴィバーチェ。アダージョと同等の規模を持つ。そもそも古典派、ロマン派では、スケルツォは異常に繰り返されて、時間的には緩徐楽章と同等かむしろ長かった。現代ではベーレンライターでも、繰り返しを省略しても良いほどだと思う。それほど長い。緩徐楽章が長くなったのは、ブルックナーが最初ではないか。シュミットは従って、その古典的な様相を模していると推測されるが、別にスケルツォとトリオが単純にリピートされるというものではない。

 幻想的スケルツォといった風合で、なんともモヤモヤした歪んだ鏡のような音楽。この幻想度は、マーラーというよりベルリオーズに近いか。つまり、バカバカしいパロディーやユーモアという物ではなく、あくまで自己陶酔的というか。ラストもしっかりしていて、3番ではこの3楽章がいちばん分かりやすいかもしれない。

 4楽章はレントからアレグロ・ヴィバーチェであるが、レントという割にはやっぱりなんか速い。この人のテンポ指示は、全体に速い(速度は遅くとも細かい音譜を詰め込めば早く聴こえる。)のだろうか。それとも指揮のせいなのか。ちょっとヤルヴィ以外聴いていないので分からない。

 レントが分かりやすく集結すると、緊張感のあるアレグロに入る。どこか哀愁の漂う流れような旋律が美しく現れては消える。このほの暗さが、全体的にシュミットを目立たなくしているのは明らかだろう。

 しかまー、こりゃロンド形式になるのかな? ひたすらその目立たない旋律が流れてゆく(笑) ゆく川の流れはなんとやら、の境地なのか。さすがに最後だけは、パーッと盛り上がって、ジャン! と終わるが、そのコーダはラスト1分くらいか?(笑)

 ちなみに同曲は、アメリカのコロンビア社が主催したシューベルト記念賞にエントリーしたものだそうで、テーマ旋律が常に鳴り続ける作風は、シューベルトを意識した、らしいです。全体に弦楽と木管主体で、大人しい印象。4曲の中で最も分かりやすいという人もいますが、私もそう思います。


第4交響曲(1933)

 4曲の中はおそらくもっとも評価が高く、書法も独特で面白いのはこの4番だろう。1933年に完成しているが、直前にシュミットは一人娘を亡くしているとのことで、その悲劇的な響きが如実に現れている。これはシュミットの悲愴、シュミットの悲劇的なのだろう。4楽章制(ただし単一楽章のようにアタッカで進められる。)で、やはり40分を超える大曲。しかも、演奏が4曲中、至難だという。無理もない。このような現代と古風との中間にあるような、またモダン(というかアヴァンギャルド的)とも異なる、技法としての現代を持つ古典のような響きは、音楽的に造り上げるのに技術を要するし、技術だけではなく音楽的素養も要する。ベートーヴェンやシューベルトの精神を、ドビュッシーやマーラーの技術で演奏する必要があるとも云うべきか。

 半音階的なトランペットの単旋律で寒々と幕を空ける異形さ。その孤独感が、否応なく読み取れる。

 そこからひたひたと盛り上がって、ティンパニを伴ってついに頂点へ達するが、そのままバーンとは行かない。コントラファゴットの低音が、聴く者の精神を再び奈落の底へ連れ戻す。暗澹たる思いと、どうにしかして救いを求める真摯な眼差しに心うたれる。展開としてはかなりワーグナーに近いかもしれない。テーマがうねうねと変形しながら鳴り続けるが、扱いは室内学的。旋律が延々と変容しながら流れ続けて、ついに官能的な和声に支配された、世紀末情緒にあふれた部分へ来ると、チェロの独奏が登場し、第2楽章。

 このソロは、4曲の中ではもっとも古風な印象。つまりこの4番は、冒頭のトランペットに代表される4曲の中で最も先鋭な部分と、このような最も古風な部分が同居した不思議な味わいを持っている。このアダージョは、ヴォリュームがある。チェロの優雅で幸せな旋律は、儚い想いでだったのだろうか。現実は、作者を再び容赦の無い孤独感へ突き落とす。ティンパニの鳴らす葬送の太鼓(英雄の2楽章に類似)がまた胸を掻きむしる。打楽器が動員され、金管が半音を刻み、マーラー流の死の象徴たるドラの一撃で、その悲しみは頂点に達する。心の葬送の音楽は、やがて心の地平の彼方へ消えゆく。

 続けてけっこう唐突に3楽章に相当するヴィバーチェが現れる。ここでは意外に明るい旋律が現れるが、その進行はやはり半音的で、変な気分に陥る。これまでの交響曲のスケルツォ楽章のようなトリオ部が無い(?)ので、けっこう短い。まあスケルツォでは無くヴィバーチェだから、当たり前なような気もするが。楽しげにくるくる回るが、それは現実逃避だった。急転直下の絶望が印象深い。

 4楽章は冒頭に戻る仕掛けがある。つまり、フィナーレではない。トランペットの不気味な旋律がホルンで再現される。それから弦楽の官能的な悩みがしばし続くが、CDによっては、ここらへんのトラックわけは異なるようだ。

 救済を求め、あるいは求道者として悩める魂は、ティンパニの連打より再び心を持ち上げ、前へ進もうとする。トランペットの旋律は、もう、下降ではない。いや、下降ではあるが、前進の意思を感じる。ただし、その意思は、再び孤独の中で、来るものを拒むように佇む。

 この曲は、これまでの3曲のように単に技法に流されず、技法に溺れず、それを道具として活用し、深い精神性を有した、シュミットの傑作のひとつだと信じられる。

 4曲とも、じわじわとその良さが染みてくる交響曲です。
 





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