菅野祐悟(1977− )


 サントラ界ではこの世代でおそらくナンバーワンであろう菅野が純粋音楽を書いたわけで、折しも岸田繁と同じ年に初演されたので個人的に注目した。というのも、どちらも異ジャンルの音楽家にクラシックの最高峰の曲種の1つ、交響曲を書かせているからだ。

 交響曲は、ジャンルとしては無調12音主義ではその音楽の特性上、書かれにくい。無調12音主義の始祖の1人ヴェーベルンがその技術で高名な交響曲を書いているが、最初で最後の最高峰という出来ばえであり、これに挑戦するのは苦しいし、新音楽であろう無調12音主義において旧音楽の権化である交響曲をわざわざ書く理由もないだろう。

 一方、聴衆は今でも過去の素晴らしい交響曲を愛好しているし、現代音楽の交響曲も受け入れている。例のゴースト騒動でも、交響曲がウケた。一般聴衆はこの21世紀に交響曲なんか時代遅れとか、そういう意識はまるで無いことが証明された。そうなると、オーケストラの客員数を増やし、かつ現代の交響曲を紹介するという意義を満たすため、話題造りもあって異ジャンルの人に交響曲を発注するという試しが行われたと捕らえている。


第1交響曲〜The Border〜(2016)
 
 4楽章制で、40分以上のヴォリューム。あたりまえだが完全調性。やはり、近代調性交響曲のスタンダードはショスタコーヴィチプロコーフィエフの5番なのだろうか。実作業に半年、構想を含めると作曲に2年かかったという。

 The Border 「境界」とは、標題もしくは副題めいているが標題や副題というよりコンセプトに感じる。菅野自身が劇伴作曲家であり、現代音楽作曲家が劇伴を書くのとはまた別な、劇伴書きが現代交響曲を書くという境界(垣根)、そしてポップスをもこなす菅野がポップスとクラシックというジャンルを超えた境界(垣根)、そういうものを取り払った自由な世界を表現しているようにも思える。

 ライナーノートで池辺センセがそのように指摘し、当曲をえらく褒めているが、かつて現代音楽において「ポップスとの安易な結婚」を戒めとしていた人の言葉とは思えない。まして、そのポップスとの境界(垣根)を超えるのは素晴らしくも羨ましいみたいな論調だ。震災後に価値観や音楽観も変わったと告白しているが、変われば変わるものである。

 各楽章には、これも副題というより楽章のコンセプトめいたものがある。武満かよ、って感じだが、ここらへんは作者のセンスなのでなんとも。

 第1楽章 Dive into myself

 作者の言葉を引用すると、「探求。自分の内面に飛び込む、挑戦の始まり」 とある。10分ほどの楽章だが、解説によると第3主題まであるソナタ形式っぽい。完全なソナタ形式ではなく、緩いソナタ形式的なもの、という程度に感じる。疑似ソナタ形式というか。

 壮大な音調でティンパニ連打も雄々しく大河ドラマ調に始まる序奏と、続く第1主題。短調で悲壮的英雄的な主題が、まるで悲劇の主人公。すぐにオーボエが第1主題の変奏めいた第2主題を示し、そしてまたすぐにピアノがジャズテイストの第3主題。それから第1主題と第3主題を少し再提示し、目まぐるしく推移する。ゲネラルパウゼから展開部。展開部は3つの主題を自由に変奏させ、ドラマティック。中間部で速度が落ち、優しいアンダンテに。第1主題と第2主題がロマンス調で展開される。それから無調っぽい場面を経て、再現部へ。第1主題が再現され、次いで第2主題が。そして第3主題も律儀に再現される。真面目だなあ。菅野は。

 ところが、突如として打楽器アンサンブルがズンドコと鳴り出す。大河の戦闘シーンか!? そのまま壮大で豪快なコーダへ突っこんで行く。戦闘が終わり、音調が変わって英雄の黄昏。これは第1主題の派生。そして第1主題がまた再現され、堂々と終結。

 演奏時間(規模)のわりに主題がたくさんあって、入れ代わり立ち代わり気忙しい印象も受けるが、全体に構成がしっかりしており、交響詩的でカッコイイ。

 第2楽章 Dreams talk to me

 こちらは、「夢。そして夢と現実の狭間を表して」 いる。10分ほどのスケルツォ相当楽章。1楽章第1主題と同じ素材であるという主題が提示され、しばし緊張感のある美しい夢の旋律を紡ぐ。木管による第2主題も、1楽章第2主題と関連しているという。それらの主題が入れ代わりで少しずつ展開して行くロンド形式めいた構成。やがてジャズテイストの1楽章第3主題も顔を出す。夢にまどろみ、次々に夢想が錯綜する。ここでは夢と現実のボーダーをかいま見る。この音調は、意識しているしていないに関わらず、吉松隆の影響もあるだろう。終結部に到り、静かな気配の中でまどろみは戻る。

 第3楽章 When he was innocent

 「思い出。何者にも縛られていなかった、幼いころの自分を回想して」 いる。3部形式緩徐楽章のヴァリエーション。演奏時間は8分ほど。劇伴書き面目躍如の美旋律。しかし甘ったくるなく、キリリとひきしまっているのが菅野の腕。菅野自身の幼いころの思い出を巡る。しかし、こんなに美化されてるものか?(笑) という気がしないでも無い。冒頭美旋律を、時に緊張感あって、時に陰鬱に、時に感傷的にと、様々に変奏してゆく。最後はピアノも優雅に鳴ってまさに大河ドラマの感動シーン。ベターすぎるが、技術的にうまいので違和感は無い。逆にここまでしっかりやってくれるとむしろ面白い。鐘が遠くに鳴り、清涼感の中へ消える。

 第4楽章 I am

 そして最後は「希望。まだまだ自己探求の旅は続きますが、新たな世界や自分を見つけたいという願いを込めました」 とある。13分ほどで、全曲中最も長い楽章。序奏が長い。しっとりとして、悲しみのシーンめいた劇伴調。当曲にあっては、当然悪くない。第3楽章中間部の主題の派生だそうである。それを引き継ぎ、オーボエが哀しげな第1主題を提示する。それは弦楽が引き継いでドラマティックに流れる。しばし第1主題を展開してゆく。音調が代わり、苦悩のテーマのようなものが現れるとそれが第2主題。第1主題からの派生と聴こえなくもない。

 と、やおらマリンバとヴァイオリンで無調的な世界へ突入する。ソナタ形式だとすると展開部。しかし、全体的にあまりソナタ形式っぽくは無い。疑似ソナタ形式とでもいうべきところだろう。無調世界は楽器を変えて蠢き続け、次に、タンバリンが鳴って緊張感を持った世界になる。木管の独特の音形も面白い。その中に第1主題なども紛れこむ。すると、チェロが轟々と渋く第1主題を再現し始める。第2主題は、先ほどの無調世界が調性になった雰囲気で現れる。次第に音楽は切迫してゆき、一転して闇が晴れる。そこに現れた光の世界は、RPGのエンディング的解放感にあふれている。

 そしてナウシカの「おわり」みたいな終結へ(笑)


第2交響曲−Alles ist Architetur 〜全ては建築である(2019)

 1番に続き、またも謎めいた副題がつけられている。根源的な標題が、建築家の言葉からとられている。交響曲(あるいは音楽)とは、音の建築物であるという観念は以前よりあるが、いつしか建築物に惹かれ、音楽と建築は切っても切れないものと感じている作者により、交響曲全体と各楽章に高名な建築家の言葉が捧げられている。「全ては建築である」は、ハンス・ホラインの言葉とのこと。別に、この言葉そのものを表現している音楽ではないので誤解なきよう。

 4楽章制、演奏時間は約45分。重量級の交響曲だ。ただ旋律が垂れ流されて長いのではなく、技術的にも藝が細かいのは、さすがである。

 第1楽章 One of the great beauties of architecture is that each time, it is like starting all over again.-建築の偉大な美しさの一つは、毎回人生が再び始まるような気持ちになれることだ。(レンゾ・ピアノ)

 菅野がイタリアを訪れ、ピアノの設計した建築物を訪れた際にインスピレーションを受け、作曲されたという11分半程の楽章である。全体に吉松流の擬似ソナタ形式ともいえるもので、主題が現れては単独で展開し、独自に終結しながら推移する。聴きやすいが、形式としてはちょっと不思議なもの。早坂文雄の言う、一元ソナタ形式にも似ているかもしれない。

 冒頭から英雄的かつ悲劇的な主要主題が現れ、それがしばし展開する。解説によると、長大な序奏部とある。2分半ほどから第2主題が現れ、速度が上がって展開する。マリンバとヴィブラフォンの不思議な変則リズムに支えられ、ホルンやヴァイオリン等によって颯爽と進む。やがてヴィブラフォンの印象的かつ神秘的なソロを経過し、次の部分へ至る。木管楽器群が、まさに吉松流の鳥のさえずりを再現。低弦のジャジーな進行も、いかにも吉松的。やがて序奏第1主題が厳かに再現され、ゆったりと展開しながら大きなコーダへ向かってゆく。コーダでは再び木管とマリンバ、ヴィブラフォンが鳥主題を再現する中、壮大かつ爽快なフィナーレとなる。

 第2楽章 Architecture is the arrangement of light; sculpture is the play on light.-建築とは光を操ること。彫刻とは光と遊ぶことだ。(アントニ・ガウディ)

 ガウディといえば、サグラダ・ファミリア、カタルーニャ、バルセロナ。作者がスペインを旅した際の印象であるというが、別にスペインもの(スペイン音楽チックなもの)ではない。また、フラメンコの力強さを表現したというが、フラメンコはアンダルシアの芸能で、バルセロナとは何の関係もない。日本でいえば、なんだろう。阿波踊りが、東大寺と特に関係ないように。

 9分以上ある、規模の大きなスケルツォ相当楽章。まずマリンバと弦によるピチカートが不規則なリズムで、面白い楽想を奏でる。展開しつつ、楽器も増えてゆく。主題は変則的で面白く、トランペットが入ってくるあたりから、グッと吉松調となる。このライトでファンタジックでどこまでも明るい音調が、まずもって吉松だ。作者は、意識しているのか、いないのかは分からない。クラリネットのサイレン音、打楽器の扱い、そして中間部のポヤポヤした音形に大きく弦楽の旋律が重なる部分など、吉松の新曲と言われても分からないほどである。

 ピアノによりマリンバ主題が再現され、発展し、盛り上がってゆく。打楽器も加わって、どんどん展開する。7分半ほどでコーダに達し、弦楽が跳躍の大きな主題を奏する。解説によると、冒頭のピチカート主題の拡大ではないか、とのこと。不協和音によりギスギスとしていつつも、とても美しい大きな旋律のまま、たっぷりとした息をもって、鐘の一打と低音の伸ばしで終結する。

 第3楽章 Architecture is the masterly, correct and magnificent play of masses brought together in light.-建築は光のもとで繰り広げられる、巧みで正確で壮麗なボリュームの戯れである。(ル・コルビュジエ)

 11分ほどの緩徐楽章。作者は、フランスも旅をする。フランスの作曲家や、フランスのブティックブランド。作者に影響を与えた、フランスの藝術、街並み。光り輝く、フランスの印象による、光の旋律が紡がれている。

 こういう甘美な音調の楽章は、クラシックの定番にも思えるが、古典クラシックとは少し異なる。具体な技術的音楽学的にどう異なるのかは、私にはよく分からないが、ベートーヴェンやモーツァルトは、さらにはマーラーブラームスなどは、いかに甘美な音楽とはいえ、交響曲でこういう音調を書かない。そこは、現代作曲家とは当然異なるだろう、という意見もあるだろう。が、どちらかというと、この手の甘美さは、劇音楽やバレエ音楽、そしてオペラに通じるものがある。つまり、原点はサントラなのだろう。

 その違いは和声なのか、対位法なのか、というところだが、ともすれば美音美旋律タレ流しのムードミュージックなる危険を孕みつつ、1つの楽章とするのはやはり技術だ。

 まず冒頭から序奏無しで、弦楽合奏による美しくもどこか悲しい主題が現れる。チェロの独奏からヴァイオリンに主題は派生して受け継がれてゆき、盛り上がってゆく。この変奏、展開、派生というのが、プロの作曲家とアマチュアの技術の差だと思う。西洋音楽の根幹である和声、展開(変奏)、形式をどこまでうまくやれるか。そこが、プロになると違ってくるし、違ってこなくてはいけない。

 旋律はホルンにバトンタッチし、ピアノが絡んでくる。このへんが、うまいがいかにもサントラ調である。曲は次第に幽愁を帯びて、緊張感も伴ってゆく。6分半を超えた所で冒頭に戻るが、旋律は管楽器も加わって層が厚くなり、すぐにピアノも入る。やがて音調は明るくなって、日が差しこんでくる。最後は、ピアノが第1楽章の第1主題の断片を奏で、それを包みこむように、大きくコーダが待っている。最後はピアノのソロが美しく響いて、光の中に終結する。

 第4楽章 Things beyond the possibility remain in people's hearts.-可能性を超えたものが、人の心に残る。(安藤忠雄)

 最後は、日本である。最も規模の大きい、12分半ほどのフィナーレ。四国の直島にある、安藤忠雄の設計した美術館を訪れた際の印象。また、安藤による東日本大震災遺児育英資金による希望の言葉をうけて。

 解説によると、これまでの主題の派生によって造られているため、大きな循環形式とも云える。冒頭の響きは第3楽章の派生であり、すぐに1楽章冒頭主題の派生に引き継がれる。次は、ヴァイオリンを中心とする弦楽とピアノによって第3楽章の気分が蘇る。そこへ打楽器も加わり、速度も上がって勇壮な曲調となりつつ、やおら、1楽章冒頭主題がそのまま深刻に復活。高らかに主題が歌われていったん区切られ、音楽は後半へ。

 気分が一変し、低音の金管が不気味なコラールめいて蠢き、やがて変則的な拍子で第2楽章の主題を変奏。そこに、またも1楽章主要主題が展開してくる。そこからいったん静かになり、じわじわと幅の大きなオスティナートで主題が繰り返されて、大きく盛り上がってゆく。その中に木管による鳥の主題が現れ、ホルンも歌いだす。打楽器やファンファーレが入り、夜明けとなる。日輪が差しこみ、祝祭的な音調となる。そして鐘が鳴って、大団円。まさに、伝統的な交響曲の終結を迎える。


前のページ

表紙へ