池辺晋一郎(1943− )


 池辺は、かつてN響アワーでのダジャレをいつやめるんだろうという視聴者の忸怩たる想いを無視し続けた、現代日本作曲家界の重鎮である。かれのダジャレのお陰で視聴料を払わなくなった視聴者がいったい何人いたのか、それは髪……もとい神のみぞ知るというところか。

 彼は非常に多作家で、自分でもどれだけ作曲したかワケが分からないらしい。校歌とかまで含めると何千曲にもなるそうだ。典型的な才能まき散らし型で、それはそれで、質の高さを維持できるのならば、良いと思う。やっつけ仕事が無い訳でもないだろうが……N響アワーで自作を放送したとき、謙遜のつもりかどうか 「こんな曲だったかなあ」 あれは無いと個人的には思った。

 交響曲は2017年現在、なんと10番まで初演済みであり、まだ作曲の機会があれば増えるだろう。また、ほとんど録音されているのも有り難い。ダジャレに似合わず、みなシリアスに攻めており、「ポップスとの安易な結婚」 を現代作家として戒めているだけはある。作風とダジャレは関与し合わないという実例でもある。


第1交響曲(1967)

 芸大の卒業作品として 「アカデミックとの決別、決着」 というつもりで書いたとか。結局、純粋4楽章制の純粋音楽たる「交響曲」は後にも先にもコレ1曲となった。

 1楽章冒頭の何小節かで、使用される和音とリズムが呈示される。しかし古典を模している訳ではなく、なかなか現代的な無調っぽいもので、一筋縄で分かるものではない。ゲンダイオンガクかというと、12音技法ではないしまだそこまででは無いが、現代オンガク程度の複雑さは有している。しかし都会の喧騒と云うべきかはどうか迷うが、そういう現代人の歪んだ複雑な心境を吐露しているようでもある。つまりこれは典型的な音色型交響曲だった。

 私が印象に残る音色型交響曲というと佐藤眞がいるが、まだ学生の作品だからか、あそこまで思い切りが良くない。いや学生でこれだけ書けるのを凄いというべきなのだろうか。

 1楽章冒頭の音程とリズムが全曲を支配しているらしいが、一般人にはそれを判別するのは難しいだろう。ということは、一般聴衆を無視した素晴らしい孤高の芸術作品ということなのか。そのスタンスは良い悪いに関係なく、芸術家を自負するならば持たなければならないのものであり、一般聴衆(あるいは大衆)に分からない芸術に価値は無いと思うのもそれはそれで自由だろう。大切なのは作曲家そして聴衆の自由意思なのだと思われる。

 2楽章はリズム楽章で、そういう意味では古典を踏襲し、伝統的な響きを模索している。その起点リズムが異様に節が細かいため、不安定のように聴こえ、見事に聴くものへ不安感を与える。

 3楽章は作曲者によると「マーラー頌」のつもりだったとの事で、つもりだった、というのは、あとになって振り返ると 「我ながらどこがやねん」 という事だったのだろうか。若いというのは素晴らしい発想と、それを表現しきれない未熟にイライラするのは、芸術家も一般人も変わらないのですねえ。

 4楽章は静寂からスタートし、絶妙に副次的な音色として打楽器等を加えながら、盛り上がって行く。唐突にアレグロとなり、跳躍する旋律が踊る。細かい打音を刻む打楽器が特に活躍する。コーダで金管が咆哮し、急激に進行して、一気に終わる。

 総括すると、やはり学生時代の佳作は佳作か、という感想。まあそりゃ、あたりまえというか、ね。でもこれだけ書けるのはやっぱり凄いですよね。交響曲を書いてくれたことにも感謝です。いまの学生、もう書かないでしょ。書けないのかもしれませんが。
 
 ちなみに池辺は大学院へ進んだが、この交響曲の後、自分で新たなる作風や芸術の在りかたに思い悩み、丸々2年間、曲を書けなくなったという。


第2交響曲「トライアス」(1979)

 2年どころか、1番の後、10年ほども交響曲を書こうとも思わなかった池辺だが、いくつかの管弦楽曲の模索の後、日フィルからの委嘱によって、アカデミアからの脱却を図ったまるで新しい概念の交響曲を書こうとした。その方向性は一柳慧もそのようなので、交響曲に対峙する者としての逃れられない姿勢のひとつのようだ。

 別に無理に新しい概念にしなくても良いとは思うが、作曲者はしたかったのだ。

 そんなわけで、1979年に発表された交響曲第2番「トライアス」は、楽章の概念を棄て、チャプター、つまり章としてのふたつの音楽から成る。ここでは交響曲をトリオの集積として見立てておるとのことで、トライアスとはトリオとの語呂合わせで、地質学、考古学上の三畳紀の事で、特に意味はないようだ。

 各章が10分程度の、20分の音楽。

 第1章は上昇音形の分散和音により導かれ、テーマが呈示される。皮膜打楽器やピアノが重く鳴ると同時に増殖する細かな音形も見られる。金管と金属・木打楽器が微細なリズムを刻むのも面白い。それから弦楽や木管の独白が続き、なんか点描風にもなる。それから冒頭のような急な部分に戻り細かな楽想が現れては消え、唐突に終わる。
 
 ところでどこがどうトリオなのかは難しくて分からない。

 第2章はまたさらに点描ふうな、ポツンポツンとした音形から始まる。やがてテンポがあがり、諧謔的なフーガ(?)となる。しかし無調でのフーガほどバカらしいものはない。すぐにまた幻想的なピアノの旋律が夢のようにまどろむ調子の上でポロポロと鳴って、1章の再現となるがテーマが微妙に異なる。最後は打楽器の重苦しい打音で結ばれる。


第3交響曲「エゴ・パノ」(1984)

 不思議なタイトルだが、「いつかエゴ・パノという言葉を自作のタイトルにしたかった」 というのだから、音楽よりタイトルが先にあった様子。エゴ・パノとは、エディプス王が自分の罪とはまだ知らずに 「いつか私が明らかにするだろう!」 という神の前での宣言のセリフ。墓穴を掘るというか自業自得というか。後に真実を知ったエディプス王は、父を殺し母と結婚したというあまりの罪の恐ろしさに両目を突いて放浪の旅に出る。

 池辺がいつか自分の両耳を突いて(あるいはダジャレを禁じるため口を縫って)旅に出るのかどうかは知らないが、そのような決意のほどをもって作曲したようである。

 2番と同じく20分からなるがこちらは単一楽章。テンポが記譜通りではどんどん変わるが、その分音符の長さも変わるので、実はまるでテンポは変わらないという面白さがあるが、譜面を見ないお客さんにはどうでも良いという衝撃の事実(笑)

 タイトルといい、理詰めタイプの人の音楽は、どうしてそうあまり意味のない変なこだわりがあるのだろう。不思議だ。そうしないと作曲できないのかもしれない。これは、悪いという意味ではない。

 序奏無しで強烈な印象のテーマが鳴り渡り、一定のパターンでそれが何回か繰り返される。それからテーマが発展するようにして音楽が進行するが、全体を貫くリズムの躍動感が面白い。リズムと共に全体を貫くG音のコードが自己(エゴ)を表し、管弦楽はそのエゴを包み込む構造物という構想でもあるという。

 やがて音符が伸びて、静かな部分にくるが、緊張感は持続されているのは流石。
 
 それからまた忙しくなるが、テーマは上手に発展している。コーダの前にまた静かな部分がきて、調(?)が変わって明るい雰囲気となり、消え行くようになって終わりか? と思わせておいてチャカチャカ始まり、冒頭のテーマがティンパニの連打をキッカケにドーンと戻ってきつつも、変形されていると言う芸の細かさを堪能しつつ、カオス的に盛り上がって一気におしまい。

 緩急を対照的に際立たせた、交響曲というよりSymphonyという雰囲気の、モダンなもの。オーケストレーションや一気呵成な感じがとてもかっこよく、テーマが分かり易い分、2番よりずっと聴き易いと思った。


第4交響曲(1980)

 4番は純粋にナンバーのみのタイトルとなっている。N響の委嘱だが、下記の5番のような至極もっともな注文なども無く、いかにも取り澄ました感じがN響らしくて良い。というかなんというか。翌年、第39回尾高賞受賞。

 2番と同じく、楽章ではなくチャプター(章)制をとり、第1章と第2章に分かれ、このふたつの音楽に対比の性格は無いという。どちらも池辺がよく観る夢からの心象ならぬ夢象風景からとられた夢の音化ともいうべきもの。のようであるw

 短い無調っぽいうねりから生じるまとまりの無い茫洋とした響きの中を鋭い音が突き刺さるものが第1章。つまりそういうイメージの夢をよく観るらしい。10分間ほどそういうアヴァンギャルドふうの風景が広がる、描写音楽いうか音色音楽。

 第2章も夢のイメージで、こちらは淡い色調の風景に硬質な宝石のような硬い粒が雨のように降ってくるというもの。第1章の終結と第2章の冒頭が 「ほとんど同じ」(池辺) というのも表現の1つであるが、弦楽のたゆとう響きの中に様々な(主に管打楽器)が降り注ぐ様はうまく表現できている。

 全体的にダークな響きが特徴で、池辺はこういう暗い夢をいつも観ているのか?

 芸術的、あるいはオーケストラの表現を追求した、とかそういう意義はあるかもしれないが、音楽として面白いかどうかは人によるだろう。偶然か否か、同じ方式の2番と共にもっともシリアス調の交響曲。個人的にはなんか吹奏楽コンクールの課題曲っぽい響きが苦手。しかし、課題曲も現代曲には変わりないから……。


第5交響曲「シンプレックス」(1990)
 
 N響に引き続き、東京都響より委嘱。都の委嘱ならまだしも(都の委嘱なのだがw)都響事務局の委嘱のはずなのに 「なるべく難解、晦渋なものは避けて」 と注文があったらしい。じゃあ池辺に頼むなよ(笑) と云いたいが、1990年ならまだ吉松隆もマイナーだったし、無理もないところか。「音楽がいったいどういう場合に難解もしくは晦渋になるのか私には分からない」 とは池辺談。

 それはさておき、ちょうど5番なのでひとつねらってやろうと思い立ち、4番が重かったことだし、ショスタコーヴィチの9番という例もあるから、ブリテンのシンプルシンフォニーやプロコフィエフの1番(古典交響曲)に習い、ライトなものでも書いてやろうという具合で、それでシンプル交響曲だとブリテンと同じになってしまうから、シンプレックス、と。

 というわけで3楽章制のいわゆるシンフォニエッタ風の作品なのだが、けっきょく20分程度なので、他の交響曲と規模的には大して変わらなかったりする。

 1楽章冒頭で、3番と同じくいきなり主要テーマが呈示される。それがジャジーな雰囲気を持ちつつオスティナート風に展開するものだから、そういうのが好きな私はたまらない。しかしすぐに無窮動的なギコギコした無調アレグロっぽくもなり、ああもう委嘱者ガックリという観。とはいえ、またテーマが明確に呈示されるので、ここでまた委嘱者ホッという音楽で、遊んでるでしょ池辺センセ。

 2楽章は緩徐楽章で、1番以来の明確な個性を持った多楽章制の交響曲ということになる。ここでは自身の劇音楽からテーマがとられ、モロ調性。委嘱者大安堵の表情が眼に見えて微笑ましい。しかしその旋律のウラに、1楽章テーマの変形が忍んでいる。

 しかしこれでは、曲調の中で、いきなり歌いすぎだと思うのだが……。注文って難しい。

 3楽章では再び執拗なオスティナートが聴かれて、池辺は本当に器用な作曲家だと感心する。まるでちがう作曲家である。全体では基本テーマを複雑に展開しつつもワルツ調になり、「難解」や「晦渋」にはちゃんと「なっていない」のがウケるというかイイ仕事してる。

 あたりまえだろうが池辺の交響曲の中ではいちばん聴き易い。


第6交響曲「個の座標の上で」(1993)

 3楽章制で30分にも及び、特に交響楽的なダイナミックさが魅力。
 
 現代の作曲家で、音楽を音楽によって語るという手法は既に古めかしいものなのかどうかは分からないが、池辺の言を借りるに、個の在りようをどのように音楽に反映させるか……そのようなもの、ただ聴いている分にはわかろうはずも無い。

 話はズレるが、一般聴衆で、楽曲解説(感想ではない)を否定し、音楽がすべてを語っている、音盤は音楽だけあれば良いなどという意見は本当に懐疑的になる。あんた、ホントに聴いただけで何もかも分かるの? モーツァルト級の天才ですね。

 1楽章は緊張感のあるアレグロ的な弦楽のメロディーを、執拗に管楽器やピアノの単音による刀が切り裂き、押しとどめ、断ち切ろうとする面白さ。第4番で追求したという「繰り返し」の概念の、形を変えた試み。全曲で最大規模を保ち、最後まで緊張を持続する技術はさすが。

 2楽章はスケルツォに相当するが、弦楽の奇妙な変形されたテーマが、やはり管楽器や打楽器にブツブツと邪魔されるが、断固として振り払い、前進する面白さを楽しめる。

 3楽章は緩徐楽章だが、全曲を統一する緊張感はまだ健在。分散する金属打楽器や木管に乗って弦楽や金管が太いテーマを鳴らしたり、カオスっぽい響きになったりして、それが何度が繰り返される。

 ピッコロの日本的なテーマがあった後、伸ばされる金管の和音をまたも分断しようとするピアノを経て、叫ぶように終わる。

 この曲で追求されている 繰り返し つまりオスティナートは、伊福部流のそれをさらに作曲者なりに現代的に押し進めた結果なのだろう。池辺は、東京音大教授時代、学長として大先輩として伊福部昭を尊敬し、その芸術に影響を彼なりに受けているのだと思う。

 そしてこれの何がどう個の在りようなのか……などということは、もはや作曲者のみに課せられた個人的な命題にほかならない事を露呈している。


第7交響曲「一滴の共感へ」(1999)

 これもN響よりの委嘱。こちらは夢というよりも、アタマの中に常にあるとあるイメージが元になっているという。小さな点が大きなって様々な形に姿を変えて動き行く、というもので、それへ人間という個が社会の中でどのように広がり変化するか、ということへも通じている。

 作曲技法的には、統一された音塊が設定された音域間の中を移動、拡散、また収斂という動作を繰り返す……ということでそれが表現されている。ように聴こえる。

 20分近い単一楽章作品で、形式的には3番に通じているが、3番より上記のように複雑に進行する。全体には大きくラストにむけて盛り上がって行くもので、西村朗ばりのドローンの中にピッコロや鐘が鳴るのは効果的だ。

 池辺のこれまでの7曲の交響曲は、1番だけ本来の意味の「交響曲」であるが、他は作曲家としての総意としてのタイトルにすぎないという。それでも、形式的に模式化できる。
 
 1と5は古典的外観や内容が対応しているし、2と4は章の概念が通じている。3と7は同じく単一楽章作品で表現方法が似ている。6番のみ、3楽章制ながらも複雑な形式がそれらの中間と云えるだろうか。


第8交響曲「大地/祈り」(2013)

 なんと、14年ぶりの交響曲。2番から7番まで社会と個をテーマに交響曲を書き続けてきた池辺が、7番の後になかなかオーダーか無かったのもあるのだろうが、例の2011年の東日本大震災……その経験をへて、大いなる大自然の前では、人間の社会も個も、何ら意味も意義もなさないのではないか……そういった想いや思考を新たなテーマとして書かれた初めての交響曲となる。

 それは、副題ではないが、この交響曲の姿そのものを現す大地と祈りという二つの言葉にも現れている。

 緩−急−緩の3楽章制で、ほぼ25〜30分の音楽だが、第1楽章「大地から」と第3楽章「祈り」のあいだに、短い第2楽章がある。これは、本当に間奏曲だと思う。全体として、これは鎮魂交響曲といえる。

 1楽章、「大地から」は、15分ほどの楽章で、大きな序奏とでもいうべきか。地の底から響きわたる、不気味な衝動。不安と危険の予感。まるでゴジラだ。息の長い旋律が低音から延々と提示され、ほぼ調性といえる。オーダーにより、無理に調性にしているのではなく、シリアスさを保ったまま、表現のひとつとして普通に調性を使っているというか。7番まで非調性のこだわりが、震災で全て小賢しいものとしてぶっとんでしまったというか。主題が少しずつ音域が上がって行き、低音が鳴りながらも、中音域や、高音域の楽器に受け継がれる。打楽器も鳴り出して緊張感を増す。調性といっても、旋律はまったく歌謡的なものではないし、不協和音もバリバリだが、いわゆる「難解」「晦渋」ではない。オスティナートにも似て、1つの主題を執拗に繰り返して、少しずつ展開してゆく。不安は不安のまま、最後まで緊張感を持続させる。音楽はまだまだどこまでも続きそうな展開だが、やおら、終結する。しかしそこには、帰結としての終結はない。

 2楽章は、3分ほどの短い現実の歪みであり、舞踊であり、諧謔である。小さく提示された楽想が、これもある種不気味さを持って、歪な展開を見せる。しかし、それらは発展せずに、終結することも無く突如として終わる。これがいったいなんなのかは、作者は聴く人それぞれに委ねる、とある。

 第3楽章「祈り」は、9分ほどの鎮魂であり、闇の中の鐘より楽章は始まる。ざわざわと魂が暗黒の中で気がつき始める。いったい、いま、何が起こったのか。鋭く悲しい木管の響きが、あちこちから立ち上って、やがて集約されゆく。中間部でいったん、その集約が頂点を迎え、後半はそれが次第に拡散してゆくような感覚を覚える。その拡散が、コーダの和音の伸ばしとクレッシェンドによって、ついに光の中へ消えてゆく。この光は平安なのか、どうか……。


第9交響曲〜ソプラノ、バリトン、オーケストラのために(2013)

 2013年、池辺は、交響曲の8番と9番、そして舘野泉のためにピアノ協奏曲第3番〜左手のために「西風によせて」 と、オーケストラ曲を3曲も完成させている。さすがの作曲速度だ。

 その中で、ついに自身の「第九」へ到達した池辺は、どのような形式にするか……流石に少し考えたようで、合唱付は流石にまずいとなり、長田弘の詩集による独唱付の多楽章制交響曲を考えついた。ショスタコーヴィチの14番に先例があるし、大地の歌を交響曲と認定するならばマーラーにも先例がある。ただ、本当にただの歌曲集なのか、歌曲集の形をとった交響曲なのかは、これは天と地ほどの違いがあるが……。

 私の聴感では、池辺は、前者としてしかとらえられていない。これは、交響曲というには少し構成が弱い、本当にただの歌曲集に感じる。

 9楽章制で、9編の詩に曲がつき、演奏時間は50分を少々超える。9つのうち、3つの楽章、第2、5、9楽章は、歌が無く、器楽のみで、複数の詩に曲をつけた楽章がいくつかある。それが、第3、6、8楽章となる。

 1.「世界の最初の一日」
 2.Splash
 3.「遠くからの声」「森を出て、どこかへ」
 4.「世界はうつくしいと」
 5.Choral
 6.「人の一日に必要なこと」「切り株の木」
 7.「むかし、私たちは
 8.「立ちつくす」「春のはじまる日」
 9.空と土のあいだで

 各楽章は、短くて2分半、長くて9分ほどの曲が集まっている。音色と音調がどの楽章も統一され、一本調子に全体で長く感じる嫌いがある。もっと千差万別で、全体のトーンが統一されるのはむしろ交響曲しての統一感を出すが、各楽章は様々な手法で表現されないと、歌曲集形式はだれる。それが、もろに出てしまっていると思う。ショスタコの14番も、マーラーの大地も、同じように全体のトーンは統一されつつ、それぞれ楽章に個性や役割がしっかりとあって、飽きさせない。それらは歌曲集形式交響曲の神曲であるので、それらに勝てとは云わないが、せめてツェムリンスキーの叙情交響曲には匹敵してほしかったなあ、とか。

 1楽章から、深遠な音づくりの中で、朗読めいて最初の詩が歌われる。旋律はもちろん歌謡的なものではなく、シュプレッヒシュティンメまでもゆかないが、うねる無調形式。すぐにアレグロとなって、まるでオペラのようにも響く。エコーの部分をソプラノが歌う場面や、後半は激しく音響が破裂する場面もあって、全体的に緊張感が強い。この1楽章は、良い。

 2楽章は器楽のみ。スプラッシュというのは、池辺による楽章表記。短い斬りこむ様な動機をひたすら叩きつけてゆく、曲中で最も短い楽章。トランペットのソロが、無常観を演出する。

 3楽章は2つの詩を連結させて歌ってゆく。まずソプラノが最初の詩を歌うが、これも無調形式による。あまり、極端な音の跳びはないが、一般的に分かりやすい歌ではない。後半ではバリトンが2つ目の詩を歌う。曲調は変わるのだが、なにせ旋律が全て無調なので、音色や音調に変化がない。これが、全曲を通して一本調子な最大の原因だと思う。

 交響曲全体の統一感は必要だが、各楽章の変化が無いと、聴き続けるのはツライものがある。大地やショスタコ14番は、伊達ではない。

 4楽章はソプラノ・バリトンによる。伴奏はやや調性に傾き、歌唱も調性に近づいてると思う。この楽章は山田耕筰などの普通の日本歌曲により近いと感じる。他楽章に比べると叙情的だからだろうか。

 5楽章は器楽のみ。コラールとある。これも、池辺の楽章表記。金管合奏により、ふくよかでやわらかいコラール。その中へ、絃楽がガギガギガギと、ノコギリ音を斬りこんでくる。それから、すぐにコラールはその絃楽へ移り、歪なコラールは繰り返される。

 6楽章もソプラノとバリトンによる。ここでは、2つの詩が同時に歌われる。韻もしっかり合ってるし、池辺は流石にうまいと感じる。こうしてちゃんと聴くと、楽章ごとに様々な表現の工夫がしてあり、けして一本調子になるはずがないのだが、音調が変化ないので、これがまたなんとも言えない飽きが来る。1曲1曲は良い出来だが、交響曲としてまとめられていないように感じる。

 7楽章はソプラノによる。伴奏が室内楽的になり、より独唱が際立つ楽章となっている。美しいが、儚い楽章に聴こえる。

 8楽章も、ソプラノとバリトンにより2つの詩が歌われる。ここで最初の詩は、ほぼ朗読となる。なんか……そうじゃない。聴きたいのは、そうじゃないと私の魂が叫ぶ(笑) 伴奏が、ちょっと武満へのオマージュぽくなる部分がある。続く詩は、二重唱となる。

 最終楽章は、器楽のみ。「空と土のあいだで」は、池辺が長田の詩よりタイトルを拝借しているが、歌はない。最後は激しい音響のカオスと、何度か立ち上るもの悲しい主題により、第九は締められる。 


 池辺は、2004年の伊福部昭卆寿記念コンサートにおいて、サントリーホールのロビーでチラリと見かけたことがある。一柳と同じく、ずいぶん小柄な人だった。正直、作風においても池辺と伊福部が瞬時に結びつかず、意外な人を見たという感じだった。しかしあとで分かったが、池辺が東京音大で(和声とかだったらしいが)教鞭をとっていたころ、学長は伊福部だった。上司と部下だったのだ。しかも、池辺の芸大時代の作曲科の先生は、矢代秋雄だった。矢代は伊福部の優秀な弟子だったので、つまり、池辺は伊福部の孫弟子ということになる。過日のN響アワーで、日本人作曲家を特集していたときも、伊福部のことを 「師事したわけではないがよく存じあげていた。人間的にも素晴らしい方だった」 と熱心に語っていた。







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