シベリウス(1865−1957)


 交響曲で、ずっと苦手だったハイドンやモーツァルトも、苦手には変わりないが、なんとか克服しはじめてきて、私も変わってきたなあ、とつれづれ思っている。

 そんな私であるが、シベリウスだけは一生、縁が無いと思っていた。どの交響曲も、まず最後まで聴けた試しが無かった。

 しかし人間の耳は変わるもので、とあるキッカケに聴き直したら、これがまた良い(笑)

 そういうのって、みなさんもあると思います。それだからクラシックは侮れないし、面白い。シベリウスの深遠なる世界、挑戦である。


クレルヴォ交響曲(1892)
 
 シベリウスといえば、カレワラ。ちなはにこれはワレカラ

 いとをかしな蟲として、かの枕草子にも出てくるし、源氏物語にも登場する。よく藻塩に干からびたのがくっついていたそうで、いつも殻が割れているから割殻。
 
 それがどうして「いとをかし」なのかは、不勉強でわからない。釣りなどでも、海藻にくっついてひょこひょこ動いていてけっこう不気味だが。

 それはそうと、そのカレワラより、このシベリウス初の交響曲である「クレルヴォ交響曲」に使用された部分のストーリーは以下のとおりで、神話に結構ありがちな、近親相姦モノ。

 カレワラ35章、36章によると、カレルヴォの息子クレルヴォは叔父のウンタモに父を殺され不遇な少年時代を送ったが、やがて成長する。

 ある冬の日、森でそりを走らせていると見目麗しい乙女に出会い、ナンパ。乙女はつれなく断るが、クレルヴォはなんと乙女を拉致ってそりの中でムリヤリ関係を結んでしまう。

 これは昔の民族的な儀式みたいもので、形式上の断りと強姦なのだろうとは思うが悲劇はそこから。そりの中でお互いの身の上を話し合うと、なんと乙女は幼いころ生き別れた実の妹であることが判明。兄と交わった悲観のあまり妹は自殺。クレルヴォも苦悩のすえ、死んでしまう。

 ストーリーとしては他愛のないものだが、ベルリンで指揮者・作曲家のカヤヌスによる民族的な「アイノ交響曲」を聴いた若きシベリウスは触発されて「クレルヴォ交響曲」を書き上げた。全5楽章、70分前後にもなる大曲となった。

 メインは3楽章で、25〜30分もある。3楽章にソプラノ、バリトン独唱と男声合唱が入り、5楽章は男性合唱のみ入る。1・2・4楽章は器楽のみ。

 1楽章は序奏とも云えると思うが、「導入部」で、交響曲というよりまるで交響詩。雄々しいテーマはまるで大河ドラマのオープニングみたい。一転して曲調が暗くなり、作品全体のテーマを示すあたりも、なかなか芸が細かい。金管のワーグナー的な扱いがまた、初期のシベリウスを代表する音楽だろう。

 しかし中間部のテーマも、まったく大河ドラマ調で、非常に聴き易い。

 2楽章は「クレルヴォの青春」と題された緩徐楽章だが、ほの暗い雰囲気がまともな青春ではないことを示し、かつ、北欧の鬱蒼とした森も彷彿とさせる。そこは3楽章以降で悲劇の舞台となる場所でもある。

 中間部では、木管の奏でるパストラルが面白い。しかし後半はなかなか暗い。

 いよいよ3楽章では男性合唱で、クレルヴォの悲劇が直接歌われる。オーケストラによる序奏の後、野太く、荒々しく、音楽は進む。合唱の後は、ソプラノとバリトンでクレルヴォと乙女の台詞が歌われる。乙女は実の兄に抱かれたことを知り、側の急流に身を投げて死んでしまう。

 全曲中もっとも長い部分で、なんと20分以上もあり、中核をなす。この交響曲は3楽章を中心としたシンメトリー構成で、1・2楽章は前奏で、4・5楽章は後奏にすぎないだろう。

 しかも、音楽自体は初期の作品らしく非常に単純な構成で、同じテーマが何度も登場して歌われる。それが弱点という人もいるし、逆に聴き易いという人もいる。それは人それぞれでしょう。

 個人的には、やはりちょっと長い。

 4楽章は「行進曲調」という音楽で、父の敵討ちのため戦いに赴くクレルヴォを表している。カレワラのストーリーがどうなっているのか知らないが、なんでここに戦いの音楽が来るのか不明。交響曲としてスケルツォを置いたつもりなのだろうか。

 イマイチ、盛り上がりにかける上、これも長い(笑)

 5楽章でいよいよクレルヴォは剣を自らの胸へあて、倒れこんで死んでしまう。合唱が重々しくその様子を描写し、ラストは壮大な悲劇のテーマで終える。

 悪い曲ではないが、やはり、その長さが今ではネックとなるだろうか。


第1交響曲(1899)

 2番を含めたとしても、シベリウスの他のナンバーと比べてもっとも異質なのはやはりこの1番になると思われる。

 正直、これまでずっと苦手で、きっと一生縁のない作曲家だろうと思っていたシベリウスの交響曲を聴き直したり新たに聴いてみたりするきっかけとなったのは、この1番を聴いてからだった。チャイコフスキーの影響を受けているとはいえ、きっとよくわかんない曲だろうと思っていたが、思っていたよりチャイコ節炸裂で(笑) すごい聴き易かった。なによりフィンランディアばりの燃えるティンパニにKO(笑)

 さて曲の内容としては、構成、旋律的には初期シベリウスの特徴を十全にあらわしており、旋律はスラヴ的だがかなり暗めに叙情的で、構成はドイツ流の古典的なものだが、オーケストレーションで物憂げな弦や、派手とはいえ押しつぶすような迫力のある管打に特徴が見られる。

 個人的には折衷作のような中途半端な2番よりぜんぜん聴ける交響曲である。シベリウスの交響曲中でこれだけ、序奏がある。

 まだ暁闇を示すような、クラリネット主導による暗い響きの序奏の後、鋭い弦に乗って、冷たくも豪壮な第1楽章が呈示される。これはかなりカッコイイテーマなので、これを聴くだけでも価値がある。第2主題はハープの導きによる乙女の踊りのようなテーマで、交響曲の古典的ソナタ形式を踏襲している。
 
 展開部はやや盛り上がりにかけるが、再現部がとてもカッコイイ。ここで、この1番交響曲はカッコイイ系ということに気づく。ラストはただし、静かに消える。
 
 2楽章は緩徐楽章だが、ここがシベリウスの真骨頂というか。1番の白眉というか。こりゃ〜たまらん。ほの暗い雰囲気といい、冷たい詩情といい、その中で暮らす人々の熱い思いといい、シベリウスの特徴が充分にあって、非常に満足できる。中間部も若さがほとばしり出ててGJ!

 スケルツォもまた、これぞ交響曲のスケルツォだわ、という、シベリウスらしくないといえば語弊があるが、なんとも元気な、思わず微笑んでしまうもの。特に後期シベリウスのファンにとっては、恥ずかしくて聴いていられないだろうか? 形式も伝統的な3部形式。
 
 4楽章は些少とりとめがない印象があるが、なかなか迫力もあり、エキゾティックな雰囲気も楽しい。中間部の切ないテーマは映画音楽とのギリギリのチープさの駆け引きを聴くことができるが、こういうの好きな我輩はもうダメなんだなあ(笑) いやー、ええ曲じゃ〜。
 
 ラストは、なかなか意味深。


第2交響曲(1902)

 どこぞのシベリウスヲタクの高名評論家ではないが、なんとかの1ツ覚えで、シベリウスといえば、2番が代名詞でありけしからんと云う事であるが、さすがにその評論家の言は本質をついていて、全体の中でも2番というのは実は出来があんまりよろしくないように私も聴こえる。
 
 つまり、1番の萌え萌え……じゃなかった燃え燃えテーマと3番以降の極端な切り詰められた叙情性が複合しているわけだが、技術的にそれが褒められたものではない。
 
 冒頭より示される民謡調の主題から切ない主題に移行し、冒頭が回帰し、と、まとまりに欠け、つなぎもチグハグ。悪くはないが、非常に聴きづらいですが、みなさまはどうお感じでしょうか?
 
 しかも気づかぬうちに2楽章へ(笑) ここの雰囲気はだいぶん中・後期のものを持っている。このギャップが……1番では野暮すぎ、3番以降では晦渋すぎる……という聴き手に受け入れられているのだろうか? だとすれば、シベリウスの入門曲としては、やはり正しいのかもしれない。
 
 問題は、代表作となってしまっていることだろうか? まあ、それも有名作家と有名曲の宿命であろう。
 
 3楽章の焦燥感はなかなか聴き応えがある。これはなんなのか。朴訥な中間部との乖離がなんとも。
 
 この曲で最もカッコイイのは4楽章だと思う。1楽章より派生したテーマがまた……素晴らしい盛り上がりです。これってラフマニノフにも匹敵する、本当に良い音楽だと思う。たまにCMとかに使われる。

 またそれに続く、短調の悲しげながらも強い意思を秘めたテーマもまた、素晴らしく、一瞬のうちに転調して第1主題と入れ代わる技術も面白い。
 
 あとは両主題の変奏というか展開というか、音楽が入れ代わり立ち代わりして、大団円へもつれこむ。ただし、ここも1楽章のように、切ってつなげたようなゴツゴツ感は否めない。


第3交響曲(1907)

 偶然だがドヴォルザークも3番が3楽章制だった。シベリウスも、3番は3楽章から成っている。この3楽章制の交響曲というのは、フランクからの伝統による近代フランス式を除いては、どのような意味合いがあるだろうか? ただ単にスケルツォ楽章を欠いた構成ということも云えるだろうが、それはつまり、交響曲の伝統からいうと、実はかなり古典的……それすらも通り越した、古代的な様相なのだと思う。

 そもそも交響曲は序曲であるところのシンフォニアから発展したが、それは急緩急か緩急緩という3部形式だったから、そのように云えると思う。しかしこれはスケルツォを欠くのではなく、中間楽章が合体したという形が正しいようである。2楽章が、アンダンテ−アレグレットになっている。

 まあそれはさておき、シベリウスは、3番から完全に彼独自の世界へ入り込むことになった。1番と2番は技法的にまだチャイコフスキーやワーグナーの影響が濃かったが、この3番から、いわゆる「シベリウスの音楽」というものに目覚めていったように聴こえる。このころ、彼は都会の喧騒を離れ、ヤルヴェンバーの森の中に住む事となるから、その影響をうけ、作風もガラリと変わった。

 とはいうものの、唐突にシベリウスが進化(深化)したわけではなく、3番とて、やや耳のこりという程度に、これまでの粗い響きが残っている。

 同時代の作曲家でもっとも対極的なマーラーの超拡大性志向ではなく、シベリウスの一切の無駄という無駄を排した、千利休の茶道みたいな感覚が、この3番から始まっている。この侘びにも似た感覚は、日本人には既に馴染みのものだったように思われる。3番に比すると1・2番がいかに無駄に騒いでいたかが知れて面白い。色で云うと、いろんな派手な色が混じったものより、次第に淡色化してゆき、最後は究極の色である黒に到達する。
 
 1楽章冒頭は、リズム感のある明るいテーマが印象的で、これまでだったらそのままドカーンと盛り上がるが、シューンと静まって、物憂げな第2主題にバトンタッチする。そのあたりの独特の手法が、シベリウス的なものの萌芽と云えるのだろう。弦楽の小刻みな動きで背景を形作って行く手法も目新しい。

 展開部は春の音楽のような雰囲気で、とてもウキウキしてくる。北国の、風は冷たいが日差しは暖かい春の様子が、目に浮かぶ。しかしそれは、お祭騒ぎになる事はけしてない。あくまでしっとりとした上品さに溢れている。

 それが3番と1・2番との決定的な差なのかもしれない。

 アンダンテは優雅な舞曲ふうで、非常に美しく、かつ、異国情緒すらある。人知れずアレグレットに移ると、さらに孤高な妖精の踊りのようになる。悩ましげで唐突な終わりの後、終楽章が現れる。

 まだこのあたりのアレグロは、初期の名残がみられて面白い。激しく音楽が動きかけるのだが、なかなか光が放射せず、ほの暗く灯るのみで、それがどんどん、後期交響曲になるにつけ、ロウソクの明かりになり、ついには完全に自然光のみとなる。その前段という意味で、興味深くもある。音楽的展開は弱い。


第4交響曲(1911)

 シベリウスの交響曲を愛する人で、やはりどれが最も優れているかとか、最も好きかとか、そういう話題には事欠かないと思われる。7番は別格として、6番と4番で、シベリウスの奥義を得ようとする向きは、恐らく多いのではないだろうか。

 しかし6番は叙情性に勝るが、4番のこのショスタコーヴィチばりの暗黒はいかがしたことだろう。3番の次にいきなりシベリウスは黒の奥義を掴んでしまったのか。

 いや、それはどうも偶然のようだ。面白い事実だが、先に書かれた交響詩「夜の騎行と日の出」(後記)は、まさにこの4番と5番の縮図といえる。

 このころシベリウスは過度の喫煙飲酒により喉にポリープができ、幸い良性だったが医者から大好きな酒もタバコも禁じられ、かつ、いつ悪性腫瘍ができるかわからないということでかなりナイーヴになっていたらしい。またうがった見方かもしれないが、作曲年代(1910-1911)とマーラーの死が重なっているのも、知人のマーラーが喉で死んだこともあり、関係しているかもしれない。

 そんなわけで4番はシベリウスの暗黒交響曲ともいえる作品となった。

 しかし暗黒とはいえ、限りない叙情性を秘めているのが彼らしいところだろう。また4番ではまだロウソク程度ながら人工の明かりが灯っている。

 いきなり低音が何やら奈落の底のようなテーマを出すのが印象的。それから陰鬱なチェロの独白……。なんとも(笑)

 ここまで来ると形式も、単純なソナタ形式とかでは動かなくなる。金管のテーマがやや明るさを伴うが、儚げで、切ない弦楽や木管の動きがすぐに取って代わるので、けして響き全体を明朗にするものではない。後半近くには無調っぽい動きすら出てきて、不安や虚無を表現する。シベリウスはよっぽと凹んでいたのが、この楽章だけで如実に分かる。

 コーダに相当する辺で、ようやく、ああ天気も晴れてきたし、散歩ぐらいはするかなあ……程度に、気分が回復する。

 モルトヴィバーチェの2楽章は速い楽章だが、動きは妙で、テンポというか曲調が安定せず、揺れ動く不安をよく表している。第2楽章は短く、2つのテンポのラルゴ(ダブルラルゴ?)と支持のある緩徐楽章へ向う。

 ここがまた、静かな暗さというべきか、ややマーラーの後期の緩徐楽章にも似た雰囲気はあるが、あれほど感情が濃厚ではない。淡々として、細やかに動き、繊細で、1個の人間の内面をよく表しているが、その情緒的な響きがブラームスというわけでもない。ティンパニを伴って、後半は金管も荘厳に鳴り渡るが、その喧騒は一瞬だ。すぐに、夜の湿地の冷たい湿気が、人の存在を消してしまうような霧が、襲ってこよう。

 4楽章は規模の大きなアレグロで、最後ぐらいはと思ったのかグロッケンなんかが入り、場を盛り上げるが、テンポは速いがなんとも鬱とした気分はぬぐえない。最後は、ついに警告のような音楽となって、苦しい息を吐きつけ、いきなりそのまま終わってしまう。

 当たり前だが、陰鬱すぎて、良い曲だがあまり聴かない、というファンは多いと思われる。


第5交響曲(1915)

 喉の病気は結局、手術は成功して再発はせずに、シベリウスはようやく長い不安を払拭して人生をやり直すような気持ちになったのだろう。5番交響曲はそれを単純に表現していて、分かりやすくて面白い。交響詩「夜の騎行と日の出」で云うと、夜の騎行と中間の深い不安の表現が4番、日の出が5番とも云える。しかも、自身の50歳の誕生記念コンサート用に書かれたというから、尚更だ。

 なんと5番も3楽章制で、シベリウスはこの形式はなかなか好みだった事が分かる。構造的には3番と同じく、第2楽章にアンダンテとアレグレットが合体している。ただし、初演(初稿)では、4楽章制で、1楽章が、元は1・2楽章だったが、合体して大幅に改稿された。

 ホルンとティンパニの、雪山の夜明けみたいなモティーフに木管が絶妙にからむ冒頭は、既に4番との鋭い対比が面白い。なんという朗らかさというか、まさに夜明けというか。波がせまるような主題の呈示が終わると、見事なまでに細やかな技法によって展開部が構成される。はじめ緊張感にあふれるが、それが次第にほぐれ、金管や木管に明るいメロディーが鳴り、弦が弾み、最後は光り輝き祝典的になるその段階が素晴らしく芸が細かい。
 
 2楽章は3番と同じような構成で、緩徐楽章とスケルツォ楽章を兼ねている。アンダンテでは一転して静謐な音楽となるが、暗さは微塵も無く、暖かい。5番全体の特徴をよく表している。徐々にテンポが上がるが、落ち着いた後、アレグレットでは北欧の素朴だが美しい静かな舞いが披露される。

 終楽章はいよいよ祝典のフィナーレが訪れる。しかしカーニバルとかにならないのが、この時代のシベリウス。都会にずっと住んでいたならば、病気にならなかったならば、こういう素敵な音楽は書かれなかったろうから、人生とは面白い。
 
 弦のトレモロの後、ゆったりとした金管のモティーフにのった幅の広いテーマは、なんとも清々しい。1楽章が春なら、まさにこっちは北国の初夏の薫風か。中・後期シベリウスの音楽は、まさに清水のような透明感が、聴いているこちらも浄化してくれるような楽しさがある。

 中間部では弦楽の切ないメロディーを存分に味わえ、トランペットの格好よいシグナルも聴ける。いよいよラストでは、シベリウスの書いた祝典風音楽の中でも最高傑作とも云える部分が登場する。この朗々と響きわたるポップスにも援用されている様な旋律は素晴らしい。
 
 ティンパニが鳴り渡り、朗々と金管が光を描写する。そして、唐突なゲネラルパウゼを何度も挟んだ後、堂々と終結する。


第6交響曲(1923)

 シベリウスの交響曲では、やはりこれが一番好きかもしれない。最初はとりとめもない曲に聴こえたが、3-7番を何度か聴いてみた中では、この音楽のなんとも云えぬ愛らしさ、5番とはまたちがう暖かさ、そして異教的な神秘性、響きの美しさ、最高だ。7番が宇宙と神の樂として究極の姿をしているのとは対照的に、あくまで人間味があるというか、人の心の触れ合いがあるというか。

 このある種の異国情緒というか、正確な西洋音楽(ドイツ・イタリア音楽)とはやや印象が異なる原因は調によるようで、ドリア調(ドーリア調)という、○長調とか△短調とかと関係ないもっと古い教会旋律に非常に近いフィンランド独特の音階を使用しているとのことで、シベリウス等に影響された現代作曲家が、けっこう叙情的や神秘的な音楽を演出するのに、ドリア調やそれに似せた独自の音階を使っている。

 ※ドリア調の曲はバッハにもあるので、シベリウスや現代作家の専売特許ではない。

 また弦楽の扱いも非常にシンフォニックかつメロディアスで、それも独特の静謐な雰囲気を産むのに成功している。形式もしっかりしており、その中に、1・2あるいは5番に内在した北国の猛吹雪のような荒い迫力も備えていて、飽きさせない。

 アンダンテ・フェスティーヴォ(後記)をも思わせる、弦楽のなんという切々とした旋律で始まるのだろうか。これから派生するオーボエの主題旋律で既に、これまでと一線を画し、独特の味わいを持っている。ここまで甘いと、ちょっと映画音楽的な嫌いもあるかもしれないが、その分、楽しさは倍増。

 テンポアップしてよりの第2主題も楽しさ満天で、このまま音楽は軽い調子で進むのかと思いきや、展開部に入ってからは深刻げとなり、複雑な構造をしてきて、シベリウスの後期の管弦楽法も同時に楽しめる。これは、シベリウスの転機でもあり、この音楽をへて確かに7番へ行く。弦楽のみとなり、唐突に終わる。

 シベリウスの交響曲にはアダージョが少ないように感じる。緩徐楽章はほとんどアレグレットかアンダンテであり、意外や速い。4番だけテンポII ラルゴで例外。しかも、速い楽章でも、明確なスケルツォは無く、1番のみで、あとはアレグロやヴィバーチェで、どこか形式に囚われない不思議な感じを産んでいる主要原因と思う。
 
 2楽章はティンパニの導きにより、木管が哀惜感たっぷりの旋律を吹く。弦楽にバトンタッチするとテンポがあって動くが、最後は神秘的な暁霧の音楽となり、サッと消え行く。

 短いヴィバーチェの3楽章は、スケルツォに相当するのだが、あくまでヴィバーチェであり、他のナンバーもそうだが、それほど荒々しくない。むしろ終楽章とかの北風の様子のほうが荒々しい。これが、交響曲といえど、シベリウスの独特の物腰の柔らかさを産んでいるのだろう。付点音符が特徴的な音楽で、変化に富み、コーダではやや金管も叫び、気分転換にはもってこい。

 4楽章は1楽章冒頭の調子を明るくしたような雰囲気で、すぐにチェロが合いの手を入れ、ほのぼのした気分になるのだが、みなさんはいかがだろうか。なんとも民謡調の旋律が、ドーリア調によく似たフィンランドの伝統旋律で出来ているものなのだろうか?
 
 テンポが上がると細かい旋律がどんどん躍り出して、たいへん面白い雰囲気を出す。しかしあくまでも格調高いのは、シベリウスの醍醐味といえるか。
 
 ソナタ形式ではないとはいえ、展開がやや単調かもしれないが、響きはどんどん変わってゆき、私は飽きない。激しさと優しさを備えた、北の音楽の極致といえるか。しかしこの旋律進行はたまらん。

 ラストで再び祈りの場面が現れて、この素敵な音楽をしめやかに終わらせてくれる。

 ありがとう。聴き終えてそう云える曲かもしれない。


第7交響曲(1924)

 「20世紀の究極の交響曲」 というカテゴリーを設けたとすると、まあいろんな意味で究極の交響曲が存在するだろうが、規模ではなく音楽的内容が 「究極に研ぎ澄まされた」 中で 「究極に凝縮化した」 のと 「究極に拡大化した」 と仮定すれば、前者はシベリウスの7番、後者はマーラーの9番なのではあるまいか。

 4楽章を内在した1楽章制で、ただ響きだけがあるといったような非常に厳しい究極の管弦楽がある。その意味でとっつきにくいかもしれないが、この美しい冷たさはオーロラの輝きにも匹敵するという人もいる。

 技法的には、当初は 交響的幻想曲 とされていただけあり、多分に幻想曲的で、4楽章を内在しているとはいえ、非常に自由に書かれている。

 第1部(仮)では、なんとアダージョと指定されており、シベリウスの交響曲の中では唯一かもしれない。楽章の切れ目がない為、作曲家の速度指示は、曲の内容を把握するのに重要だと思われる。

 第2部(仮)ではウン・ポケッティーノ・メノアダージョとあり、Un pochettino meno adagio イタリア語は音楽用語とはいえよく分からないのでアレなのだが(笑) 全くもって前より遅くなく とか、そんな感じか?

 第3部(仮)ではポコ・ラレンタンド・アルアダージョであり、 Poco rallentando al adagio 少しずつ次第にゆっくりとなってアダージョに(戻る)だろうか。

 そして最後の部分第4部(仮)は、Prest−Poco a poco rallentando al adagio  プレスト〜少しずつゆっくりとなってアダージョへ。プレストはアレグロより速い速度記号。

 つまり7番は アダージョ〜ちょっと速く〜だんだんアダージョへ〜プレスト−まただんだんアダージョへ という速度で進む音楽となる。

 かすかなティンパニに乗り、上昇音形の特徴的な主旋律が呈示され、すぐにクラリネットが受け継ぐ。しかし主題はいろいろと現れては消え、展開しているわけではなく、同時期の最高傑作のひとつ「タピオラ」が変奏曲的な趣で主題が1つしか無いのに対し、さすがに元は幻想曲だっただけあり、実に自由に音楽が進む点も聴き逃せない。

 ここに至り、これまでの交響曲のようなある種のストーリー性すら消え、抒情とか詩情とかいう形容詞も消えはて、北欧的とかいう表現すらも当たらない、ただ音楽のみが光のようにそこにあるという、本当に形而上的な雰囲気を帯びてくる。シベリウス好きにはまさに奥の院であり、ブルックナーやマーラー聴きにとっての9番に相当する音楽。

 弦楽の新しいテーマはトロンボーンの重奏を伴い、なんとも荘厳かつ神秘的。意外や、ティンパニも活躍する。
 
テンポが上がると第2部。ここは音楽が動く部分で、なかなか激しい。弦楽が荒波のようにうねり出すと第3部へ。この曲ではトロンボーンが面白い響きをしているが、ここでもコラール調となる。数分をかけて、次第に収まってゆく。

 というか、収まったとたんに、4部という感じ。しかしもう、プレストである。大きく盛り上がり、様々な調子のテーマが現れては消え、現れては消え、まるで記憶のフラッシュバックであり、鋭く一瞬盛り上がって、ティンパニのトレモロが再びアダージョ(コラール)への回帰を導く。

 素晴らしい弦楽合奏に、また管楽器が静かにからんできて、冒頭に戻る。ラストの短いコーダで、西洋音楽だということが分かるほどだろう。まるで、束の間の夢というか。無常の響きがする、本当に日本人むけの(日本文化と共通するものが多い)音楽だと思う。

 この曲を聴いて、みんな究極の凝縮の中で宇宙的広がりを感じると同時に、子ども時代に見て感じたはずの、ささやかな木漏れ日の光を思い出したい。

 シベリウスの諸交響曲は、いずれも 孤高の作曲家 の名に恥じぬ素晴らしい音楽である。


シベリウスの交響詩
 
 交響詩も交響曲と同じくらい発展した楽曲形式だと思うが、その両方で傑作をモノにしている作曲家となれば、おのずと限られてこよう。ただ書いているだけではなく、傑作というからには少なくともある程度はメジャーになっていなくてはならない。
 
 スメタナは連作交響詩で非常に高名だが、彼の交響曲「祝典交響曲」(私は好きだが)は残念ながらメジャーとは云えまい。
 
 R.シュトラウスも、交響詩は非常にメジャーで、家庭交響曲とアルプス交響曲もメジャーではあるが、それらは表題交響曲以上に、ほとんど交響詩といえる。
 
 ドヴォルザークの交響曲は、新世界よりを含め、たいへんメジャーなナンバーがあるが、彼の交響詩は、いったい誰が愛聴しているかというと、なかなか探すのは大変だろう。

 と、なると、このシベリウスこそが、交響曲も交響詩も一定の評価を勝ち得ている稀有の存在なのではないか。
 
 というわけで、シベリウスの交響詩のコーナーも、特別に設けることとした。

 もっとも、シベリウスの諸曲は、厳密には音詩(トーンポエム)であり、交響詩(シンフォニックポエム)とは微妙に異なるが、日本語のニュアンスでは中身は変わらないので、交響詩として扱いたい。中には交響的幻想曲とかいうのもあるが、同じである。

 では作曲順に。


音詩「エンサガ」(1893/1902)
 
 日本語にすると、ただ単に「伝説」という意味になるそうで、もっとそれっぽい訳となると「古譚」などとも。

 クレルヴォ交響曲に感動したカヤヌスが、若きシベリウスを世に出す為、自身のアンコールとして作曲を依頼したが、シベリウスはハリキリすぎて、なんと20分にせまる大曲に。しかし出来が良かった為、それはそれでフィンランド物としてレパートリーにのぼった。

 しかしここでは、特定のストーリーは示されておらず、諸々の伝説を聴いたときの自らの心の心情を描いている……もしくは伝説のもつ雰囲気を幻想的に描いている、といったほうが、ニュアンス的に近いとのことである。

 物語の開始を示すような冒頭から、マンガ日本昔話ばりの導入部へ。そのテーマを受け継いだ弦楽による鬱々としたモノローグがなんともいえぬ味わいを持つ。

 その後、リズミックでかっこいい中間部ではかなり盛り上がり、特にテーマと同じリズムを豪快に叩くバスドラが印象的。
 
 全体としては同じテーマやリズムが繰り返し現れるだけで、音楽が展開せず、長いわりに一本調子な音楽ですが、やはりその独特の雰囲気は特筆に値する。

 単調だが響きが面白いので、わりと録音があるほうだと思う。


管弦楽の為のバラード「樹の妖精(樹木の精)」(1894)

 この作品15と作品45-2は、同じ「森の精」という訳で紹介されていると思うが、実はこれは意訳で、両者は微妙にニュアンスが異なる。

 作品15は Wood-Nymph 作品45は The Dryad となっている。まずこの15から説明したい。

 ニンフとはいわゆる妖精の総称だが、ギリシャ語では花嫁を意味する。ヨーロッパの神話や民間伝承では、いろいろな妖精が登場し、海のニンフ、山のニンフ、森のニンフ、谷のニンフ、水のニンフ……等々がある。これは精霊(エレメント)とも微妙に異なる。エレメントはもっと物質の根源的なニュアンスがある。

 ドビュッシーの曲で牧神が追いかけ回したのもニンフ。つまり、ニンフはたいてい、若い女性の姿(しかも素っ裸や半裸)をしてる。

 そして、「木のニンフ」もいるというわけ。森というより、ウッドなんで木、もしくは樹だろう。日本でいう、木霊。
 
 そして、ドライアドとは、その木のニンフの固有名詞(単数形)になる。
 
 つまりウッドニンフとドライアドは、同じものを指すが、少なくとも「森の精」では無い。日本で云うとなんだろう。「水の妖怪」と「河童」みたいなものだろうか?
 
 ここでは作品15を「樹の妖精」あるいは「樹木の精」とし、作品45-2は固有名詞ということでそのまま「ドライアド」としたい。

 話は戻って交響詩「樹の妖精」あるいは「樹木の精」だが、シベリウスも生前に何度か演奏するほど気に入っていたのだが、なぜか出版されず、総譜は行方不明。1894年の作曲後、100年のときを超えて1995年になってようやく蘇演されたという、いわば幻の曲。
 
 また、作品15には同じ題材による音楽が4つもあって、みんな作品15とのこと。それは合唱曲、交響詩、メロドラマ、ピアノ曲だそうである。
 
 メロドラマって昼メロとは異なり、詩の朗読等のBGMのこと。メロドラマ「樹の妖精」にはちゃんと詩の朗読が入る。
 
 ここで語られるストーリーはあまり複雑なものではない。ワーグナーに浮かれたシベリウスがバイロイトで感動し、「僕ちんもオペラを書くのじゃー!」 と張り切ったのは良いが、自分の音楽語法がオペラにはまるで向いてないと自覚して凹むだけの結果となり、それならリストの交響詩があるじゃないか、という次第で、リュドベリという詩人の作品に曲をつけた。
 
 青年ビヨルンが森に入り、森の小精霊、そして樹木の妖精に出会い、かどわかされるというもの。一部のニンフは、人間の男をかどわかして、妖精の世界へ連れていってしまう。

 冒頭のリズミックで明るいテーマが、青年を表す。こういう朗らかで好感の持てる勇壮なテーマは、初期シベリウス聴く醍醐味かもしれない。
 
 しかし青年が鬱蒼とした森に入ると様子は一変。木管と弦楽によりザワザワとした森の小人たちがざわめき、弦バスやトロンボーンにより踊りを踊って青年を惑わす。その様子が金管の壮大でほの暗いファンファーレで頂点を迎えると、いよいよ、白いガウンを揺らせて、樹木の精が登場し、その細い腕と波うつ豊かな胸、ささやきと眼差しで青年を誘い、永久の契りを結ぶ。もう青年は樹に取り込まれ、魂は二度と戻って来ない。樹木の精に心を奪われた青年は自分の家へ引きこもり、仕事もせず、妻も愛さず、別人のようになって、やがて年をとり、森のざわめきを聴きながら死を待つのみである。

 ラストはその様子を壮大な悲劇として描いている。

 シベリウスの交響詩中最大の規模を持ち、内容もエンサガのような抽象的な物ではなく、ストーリー性もあって、さらにテーマ自体がかなりカッコいい。これはかなりの掘り出し物だと云える。CDはまだ少ないようだが、非常にオススメ。


音詩「春の歌」(1895/1903)

 7分ほどの作品で、何かのコンサート用に書かれたが不採用になった。長い冬を超えて訪れた春の喜びを素直に表す音楽。

 3部形式で、やはりシベリウス初期の音楽にありがちな単純な構成だが、甘いメロディーや凍りつく詩情、抒情が、それを補って充分聴けるものになっているのはさすが。

 まず珍しく開放的な旋律が耳を奪うだろう。しかしその喜びの歌声もけして陽気なものではなく、しみじみと、生命の喜び、雪解けの音を表す。同じ春の訪れといっても、ちょっと独特の感じなんですよね。うーん、ただ気温が上がる本州以南の人に分かるかどうか……。ずーっとあった白いものが、どんどん無くなってゆく感覚というか。

 気温0℃で暖かいと感じる世界。ついこの間まで-10℃、-20℃の世界から、0℃になったら、そりゃ暖かい。寒いのだが、風はまだ冷たいのだが、日差しは確かに暖かい。

 低音のオスティナートとティンパニを伴う後半部では感動はいや増し、そのまま朗々と鐘が鳴り響き、喜びの歌が集結を迎える。これもとっても良い曲。


レミンカイネン組曲(4つの伝説曲)

 これは4つの交響詩からなる組曲で、中でも「トゥオネラの白鳥」と「レミンカイネンの帰郷」が高名だが、最近は全曲の録音もそれなりに増えている。

第1曲「レミンカイネンとサーリの乙女たち」(1895/1939)

 カレワラにおいて2人の重要な登場人物があり、英雄レミンカイネンと、吟遊詩人で同じく英雄のヴァイナモイネン。レミンカイネン組曲は、名前の通りレミンカイネンの物語をカレワラの11章−15章にかけて交響詩として描いている。

 レミンカイネンはポヒヨラ族の娘に恋をするが、結婚の条件の3つのとんでもない課題のうち、2つを達成するが、最後の1つ、トゥオネラ川の白鳥を射止めよというのに失敗して、死んでしまう。トゥオネラ川ってのは、まあ三途の川みたいなもので、黄泉を流れる黒い地獄の川。そこの白鳥は恐らく死の象徴なのでしょう。レミンカイネンの死体はトゥオネラの息子という血まみれのバケモノによって5体バラバラに切り裂かれるが、彼の母親が呪文によって生き返らせ、ポヒヨラの娘なんか諦めなさいという忠告を聞き入れて、現世に戻るというのが全体のストーリー。
 
 1曲めでは、ポヒヨラの娘へ恋する前に、サーリ島の乙女の1人キュリッキに一目惚れしたレミンカイネンの様子が描かれる。
 
 冷たい水の描写より、島が現れて、そこに住む乙女たちへのレミンカイネンの憧れのテーマが切々と流れるのがまたなんとも。彼の心の動きの乱れを示すような、いろいろな楽器による不安な様子や、張り切る様子なども面白い。最後もなかなか盛り上がる。ただし、内容の割にはちょっと長いかも。

第2曲「トゥオネラの白鳥 」(1893/1897,1900)
 
 組曲の中では恐らくもっとも単独で演奏されるもの。

 これはシブイ、暗い、晦渋的なイメージの曲だが、死の川と云われればまさにその通り。暗黒の川に白く浮かび上がる白鳥が哀しげに泳ぎ、鳴く様子なども、美しいがかなり不気味。

 後半では英雄交響曲の2楽章のような雰囲気のティンパニの死のモティーフに乗って、さらにコーラングレの吹きならすテーマによって美しさが極まる。

 究極の死の音楽かもしれない。

第3曲「トゥオネラのレミンカイネン」(1895/1896,1900)

 ポヒヨラの娘へ求婚した際に、ポヒヨラ族の羊飼いマルカハットゥという者をレミンカイネンは侮辱したそうで、彼の恨みを買い、トゥォネラで彼の謀略により、レミンカイネンは死んでしまう。

 低弦の戦きが陰謀を表し、金管の衝撃的なテーマが殺人を表しす。しかも、暗黒のトゥオネラ川に落ちたレミンカイネンは、血まみれの「トゥオネラの息子」という怪物により、五体をバラバラに引き裂かれる。

 やがて初期交響詩のような豪快なバスドラも鳴り響き、痺れるような恐怖が音楽を支配してゆく。

 独奏ヴァイオリンの綺麗なテーマの後、レミンカイネンの肉体が流されて川面に消えゆくように音楽も消える。

第4曲「レミンカイネンの帰郷」(1895/1896,1900)

 帰郷というか帰還というか。生き返るってのがまた凄い話だが。彼のお母さんはたぶん名のある魔女、もしくは巫女、呪術者なのだろう。

 音楽は生き返った後に意気揚々と(?)トゥオネラより帰ってくる英雄の様子を描く。明るくリズミックな主題が繰り返される単純な構成で、打楽器もフルに活躍し、行進曲調でなかなか勇ましいが、そのぶん、浅いと感じる人も多いようだ。交響詩というより組曲の最後としては、まずまずなのではないだろうか?


音詩「フィンランディア」(1899/1900)

 有名すぎて解説はいらないかも。
 
 ロシア帝国の圧政下にあったフィンランドが、日露戦争の際に日本を応援したのは当然すぎる話。日本が勝ったら狂喜乱舞。日露戦争とは関係ないが、シベリウスはそのような情勢の中、愛国歴史劇「古からの情景」に音楽をつけて、その一部を後に交響詩とした。それがフィンランディア。エルガーの威風堂々のように、そのテーマには後に歌詞がつけられ、フィンランドの第2の国家とも。よほどフィンランド人を感動させたのでしょう。

 冒頭の激しいブラスはロシアの圧政らしいが、カラヤンのようにこっちが主軸みたいになってる演奏もあるので注意。勝てねえよ!(笑)
 
 マーチ風の箇所を経て、中間部に有名なテーマが現れ、最後はまたマーチ風となって堂々と終わりを告げる。シンバルがすごい。

 さてこの高名曲、私はオーケストラ及び吹奏楽で演奏した経験がある。ティンパニとシンバルをそれぞれ叩いた。どっちも耳で聴くよりずっと難しいのだが、特にティンパニが変な動きで、難しいと思った。カレリア組曲もそうなのだが、シベリウスって独特のオーケストレーションで、ふつうはあんまり使わないような高音のトレモロを多用したり、トレモロのまま旋律を叩いたりと、なんかムチャなのである(笑)


オーケストラの為の小品「ドライアド」(1910)

 作品15の所でも書いたが、ドライアドとは樹のニンフの固有名詞で、複数形ではドライアデスとなる。特にハマドライアドと呼ばれる種類は、数百年を生きた大木に宿る妖精で、樹の1本につき1体、美しい乙女の姿で、樹と森の守護者であり、むやみに樹を伐る者を罰する。しかも、妖精らしく美男子を惑わす。
 
 日本で云う木霊を想像すると良い。

 こちらも、よくある訳の「森の精」よりも、「樹の精」のほうがニュアンス的に正しいし、固有名詞なので、私はそのまま「ドライアド」とします。これは、ルオンノタールと同じで、交響詩「ルオンノタール」でも、交響詩「大気の乙女」でも、どっちでも良い。

 さてこれはレミンカイネンの帰郷に匹敵する短さで、シベリウスの交響詩の中でも最短の部類。そもそも正題が「小品」なのでさもありなんだが。印象派ふうで、具体的な情景描写というよりかは、ドライアドの持つ神秘さや不思議さを表しているように聴こえる。


交響的幻想曲「ポヒヨラの娘」(1906)

 カレワラのもう1人の英雄、吟遊詩人のヴァイナモイネンもまた、虹に座って金銀の布を織るポヒヨラ族の娘へ求婚し、3つの難しい課題を条件として出されるが、最後の課題が達成できず、すごすごと帰って行く。ポヒヨラの娘というのがどれほどの実力者の娘なのかが窺い知れる。美人とかそういう問題ではないと思う。もちろん、たぶん絶世の美女なのだとは思うが。

 カレワラ第8章による。チェロによる雄々しくも孤独な主題により開始される音楽は、たぶんヴァイナモイネンを表しているのだろう。

 やがて現れる対照的なフルートはポヒヨラの乙女か。3つの難題が出され、ヴァイナモイネンの決意。
 
 課題を次々と解決するヴァイナモイネン。音楽は否応なく盛り上がる。が、やがて、寂しげに彼は去ってゆく。最後の課題を克服することができずに。

 最後の課題とは、糸巻棒のカケラで舟を造るという、かなりムチャなもの。ヴァイナモイネンはしかも、その最中に斧で自分の膝を叩いて割り、大怪我をしてしまう。彼は老人に薬をもらうが、しかし、そうとうのおっちょこちょいだ。


音詩「夜の騎行と日の出」(1909)

 珍しくカレワラによらない交響詩。
 
 タイトルの通り、音楽は騎士が夜通し駆け抜けて、やがて日の出を迎えるという、まったく単純なシーンを延々と描写する。しかし、そこはシベリウス、交響詩は、映画音楽ではない。ただ情景を描写するのでは、それは交響詩風の音楽で、交響詩ではない。シーンを描写しつつ、そこへこめられた深い精神性が作者の想いとなって結実してこそ、我々は感動する。「暗い森のなかをひとり馬で行く平均的人間の内面的体験」 これが作者の与える示唆となる。
 
 シベリウスはこのころ、喉に腫瘍ができて、2回も摘出手術を受けた。いまですら手術はおっかないのに、当時はいかばかりか。その恐るべき不安が、暗黒の道を行く騎士になぞらえられ、やがて病魔との戦いを克服した喜びが、夜明けの光明として燦然と光り輝く、と。こういう意味合いを、精神的に音楽で描写してこそ、1流の音楽となるのだと思う。

 ただ、暗い道を歩く人がやがて夜明けを迎える……では、なんとも、味がない。

 序奏無しで現れる激しいタンバリンを伴うリズミックな主題が騎士か。この曲は全体にタンバリンが大活躍で、それもまた特徴的。その主題がオスティナートで延々と続く部分が、騎行。まるで馬のギャロップのようで、その中に、寂しげなテーマが現れては消える。不安を表現しているのか。中間部の低弦のテーマは、なんともいえぬ味わいがあるし、それをうけた高弦のテーマも、より強い悲劇性を示す。

 しばし、歩みが止まり、暗黒の中で佇む様子も最高である。

 その後、次第に、次第に夜が明けてきて、最後に、素晴らしく光が山の端より漏れ行く様子も、感動的。単調ながら、より深い趣が楽しめる1曲。しかし、演奏によってはやはり単純になりがちなので、難しい曲。


音詩「吟遊詩人」(1913)

 具体的にこれがヴァイナモイネンの事なのか、あるいは別の事を示唆しているのかどうかは、シベリウスは最後まで語らなかったという。
 
 しかし冒頭より侘しげに鳴り響くハープが、吟遊詩人を表していないはずが無く、とはいっても、確かに具体的なストーリー性のある音楽とはなっていない。なかなか謎めいた作品で、交響曲で云うと4番と5番の間の作品というから、その深い精神性にも納得がゆくというもの。前作の「夜の騎行と夜明け」とこの「吟遊詩人」は、示唆はあるが具体的なストーリーが無く、交響詩といえども純粋音楽のように音楽のみで語りかけてきてくれる。

 シベリウスの交響詩中最小の部類に入り、構成的に短いが全体に抒情に満ちあふれ、ハープが終始重要な役割を果たしつつ、後半では金管やティンパニも加わって、ドーンと盛り上がるが、やがて再び森と湖の静寂に消えゆく

 これは通好みの音楽か。


音詩「ルオンノタール」(1910?)

 ソプラノ独唱付で、音詩(交響詩)というより管弦楽伴奏の歌曲に分類する人もいるだろう。しかし、作者が云うにはいちおう音詩になっている。
 
 ルオンノタールとはカレワラの初期に登場する始源の女神、大気の女神のことで、天と地とを分けることになる。そのストーリーを、珍しくソプラノ独唱がじっさいに歌うというもの。だから、歌曲としてとらえる人もいる。

 天の娘、自由の娘、美しいルオンノタールは大気の女神で混沌の海の中を700年間も泳いでいた。そこへ営巣の場所を探すカモメが飛んできたので、ルオンノタールが膝を波間に持ち上げ、カモメは巣を作ることができた。しかし巣は波間に転がり、卵は割れた。その卵の中から、空と月と星々が生まれた……。

 はいはい、星すら生まれてない世界で、なんでカモメがいるんだというツッコミ、無ーし(笑) 神話なのだから、このカモメもなんかの神様なのだろうと思われる。

 音楽は、波の奔流のような弦楽に乗り、さっそくソプラノが蕩々と歌う。ソプラノは高音から低音まで駆使する技術的に難度の非常に高いものであり、伴奏のオーケストラも、伴奏の域を脱した表現力を有しており、まさに声と器楽が一体となって交響詩という音楽世界を造り上げている。
 
 とはいえ、やはり歌曲として聴くと、歌曲苦手の私は個人的には特別面白い曲でもないような(笑)


音詩「波の娘」(大洋の女神)(1914)

 英語およびドイツ語では「大洋の女神」という名前だが、シベリシス自身はフィンランド語で「波の娘」という意味のタイトルをつけたとのことである。

 これもカレワラによらない。珍しくギリシャ神話で、ホメロスの海神オケアノスの妻テティスの3000の息子(流れ)と4000の娘(大洋の女神)からきている。シベリウスが初めてアメリカに招待され、新作を含む自作の演奏会のための書き下ろし。大西洋横断という初体験が、こういう題材を選ばせたのではないか、とのこと。
 
 珍しくフルートの愛らしいテーマで開始が告げられる。神秘的ではなく、これではまるでディズニーかバレー音楽。イメージが異なるのは、やはり題材が異なるからか?
 
 細分化された弦楽の扱いはさすがだが、あまり派手な描写はない。さすがに後期の作品だけはあるでしょう。ラストの嵐(?)の場面となって、初めてドーンと盛り上がる。

 やがて 「陸地が見えたぞー!!」 的な感動と共に、音楽は閉じられる。響きは美しいが、けっこう単純な曲。


音詩「タピオラ」(1925)

 第7交響曲のあとに作曲された、事実上の最後の作品で、しかも最高傑作。7番と共にシベリウスの奥義がここにあるだろう。これをして第8交響曲という人もいる。しかしこれはやはり交響詩だと思う。エンサガと同じく20分に近い堂々たる物だが、内容においては当然エンサガとは比べ物にならないほど充実しきっている。古今東西の全交響詩の中でも、芸術性において抜きん出ていると思う。

 カレワラによる森の神タピオの領地がタピオラ。つまり神の森。聖域にして神域。日本で云う、三輪山みたいな山そのものが御神体のようなものか。聖なる森の描写で、もののけ姫のような神と人が共に生きる生々しさは無いが、神に対する祈り、恐れ、敬い、清浄さなど、これも7番と同じく、日本人と相通ずるものは多いかもしれない。

 ちなみにタピオはただ単に森の神のことで、タピオが神名ではない。漠然とした、森の神様ということなのだろう。特別なストーリーがあるわけではなく、イメージや印象を描いているものという意味では、最初のエンサガに戻ったと云えるかもしれない。

 形式的には、変奏曲と云えなくもない、というものらしい。
 
 ティンパニの一打より、神々しくもヒヤリとしたテーマが現れる。人の入ることを許されぬ神域の、緊張感ある主題。しばしそのテーマか繰り返されると、神秘的な部分となる。シベリウスは深い森の根源的な姿が人間へ与える印象のみを純粋に音に写し取ってしまったようだ。

 また雰囲気が変わると、細かい木管の動きが、森の神々や妖精たちの動きのよう。しかしそれも幻想の中に遠ざかって行く。時折、激しい響きも登場して神の荒ぶる一面を表すが、すぐに通りすぎる。

 全体的に淡々と音楽が進むのは、後期交響曲と特徴を共にする。盛り上がるようでいて、盛り上がらない。静謐なようでいて、ザワザワしている。大きな管弦楽なのに、響きはどこまでも透明で室内楽的。冷たい空気なのに、どこか暖かい。最後は夢から醒めたような、ぽやーんとした気分となる。なんとも不思議な音楽。しかし、ハマると止められない。

 スコア冒頭のシベリウスの言葉。

 「そこには北国の暗い森が広がっている。太古の神秘を秘めた原始の夢の中に森の神が住んでいる。そして、森の精たちが森の中で動いている」

 いっさいの無駄を廃した、究極に磨き抜かれた至玉の音楽のひとつでしょう。7番と共にシベリウスの最高傑作の両雄で、タピオラが変奏曲風なのに対し、7番は当初幻想曲ということで非常に自由な筆で書かれており、その対比も非常に面白い。

 シベリウスの交響曲はちょっと形式的でとっつきにくいという人がいたならば、まずこれら交響詩の世界から入ると、わりとすんなり進めると思う。


オマケ

アンダンテ・フェスティーヴォ(1922絃楽四重奏/1930絃楽合奏)

 この曲は好きだ。1回、市民オーケストラのアンコールで演奏して、シベリウスを聴き直すキッカケにもなったし、これで、交響曲を1番から聴いてみようと思った。祝典曲なのにアンダンテってのがまた、良い。しかも弦楽合奏だし。オプションで最後にティンパニが入るが、それも、なかなか趣がある……。

 某工場の創立25周年記念行事の為の曲で、当初は絃弦楽四重奏だった。教会旋法にも似て、粛々と荘厳な旋律が進行して行く様は、まさに静謐というに相応しい。作曲年代は6番と7番の間ということで、後期シベリウスの熟練の筆をこの小品が余すところなく伝えてくれている。


オマケ2

 シベリウスの交響詩ベスト5

 シベリウスの交響曲は全曲通して聴いている人でも、交響詩まで手が回っている人は多くは無いのではないか。交響曲のCDの余祿にあるのを聴いたぐらいで。そんなとき、どれから聴けば良いの? という質問をされたと想定して、自分なりに5曲を選んでみた。

 1.タピオラ
 2.樹の妖精(森の精)
 3.夜の騎行と日の出
 4.トゥオネラの白鳥
 5.ポヒヨラの娘 or エンサガ

 タピオラは最後期でやや晦渋だが古今東西の交響詩の中でもダントツの出来だし、シベリウスの後期交響曲にゾッコンの人でこれを否定する変人はあまりいないと信じて、1位にさせてもらったが、以下は解説が必要かと存ずる。あくまで、個人的な選出なので、細かい点はご容赦を。

 樹の妖精は初期の大傑作で、エンサガの規模にフィンランディアのドラマティックさを合わせたような、とても面白い作品で、しかも聴き易い。発見からまだ間もないので、録音も少なく、耳にする機会は多くないと思うが、BIS等でCDは入手できるようなので、一聴を激しくお薦めする。

 夜の騎行は、ただ単に暗い夜に馬へ乗ってる人がトボトボ行く様が延々と続き、やがてバーンと夜明けになるような曲だったら、なにもランクインしない。その中間部に、素晴らしく深い精神描写があり、胸をうつ。人間の抱える虚無的な不安とそれが希望によって打ち破られる様子が、とても感動的である。

 レミンカイネン組曲を1曲と勘定しても良かったが、そうなると50分程にもなって長いし、全曲録音は少ないようなので、その中から1曲となると、やはりコレだ。サーリの乙女は内容のわりにやや長いし、トゥオネラのレミンカイネンはその死の描写の通り暗すぎだし意外に動きも無い。レミンカイネンの帰郷は中身が単純。そうなると、このトゥオネラの白鳥こそが白眉。じっさい、単独演奏や録音も多い。凍りつくような暗黒の中で、白鳥が水上を行く様は、背筋がゾクゾクするほど美しい。

 5番めはフィンランディアとエンサガとポヒヨラの娘と迷って、さすがにフィンランディアは薦められなくたって聴いたことぐらいあるだろうという仮定の元、排除。そして反則っぽいが、両方を同点とした。

 ポヒヨラは音楽としてはやや動きが少なく、内容的にも大したことはないが、その響きの美しさは、やはり特筆するものがある。その代わりとっつきにくいという人もいるかもしれないので、エンサガを。エンサガは旋律や響きは面白いしカッコイイが、なんといっても構成に難あり。一本調子で20分近くは長い!

 次点は春の歌と吟遊詩人だろうか。どちらもとってもきれいな曲だが、やはり構成的に単純な嫌いがある。ドライアドは印象主義的な小品で、正直、交響詩というには規模が小さすぎる。ルオンノタールも、交響詩ではなく、ただの歌曲。波の娘も悪くはないが、精神性に欠け、ただ波がザブザブいって女神がサーフィンしてるだけ。なんといっても、タピオラのすぐ前というのが、技法の面で近いため私は比較してしまってダメだ。

 以上、九鬼蛍が勝手にお薦めのシベリウスの交響詩でした。





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