ミャスコーフスキィ(1881−1950)


 元は軍人で30を過ぎてからペテルブルク音楽院に入り、プロコーフィエフと親密な親交を結んだミャスコーフスキィは、ソ連に残ったラフマーニノフと云っても過言ではないほど、ロシアロマン派の正統の1人だと思う。とはいえ、濃厚というほどでもなく程よい古典派の佇まいも残している。もちろんその中には現代的な技法も含まれるが、けしてプロコーフィエフやショスタコーヴィチのような尖鋭性には進まなかった。むしろ温厚というか堅実な作りをしている。音楽は歌謡的で、純粋にロシア民族派と新ロマン主義の両方を合わせたような独特の社会主義リアリズム路線と云える。その意味では、技法的には新古典主義とも云える。内実的に様々な実験的手法や精神を持ってはいるが、その性格が手伝ってか、なかなかストレートには伝わりにくい。そこが粋であると同時に、弱点でもあるだろう。

 絃楽四重奏曲が13曲、協奏曲が3曲、ピアノソナタが9曲と多作家と云っても良いだろうが、何といっても交響曲が27曲であり、当時としては異例の数字である。

 その全てが純粋音楽というわけではなく、交響詩的な単一楽章のバラードや機会音楽も含まれる。長さも1時間を超えるものから、15分ほどのものまでヴァリエーションに富む。が、全体的に30分の中規模なもの、そして40〜50分の大規模なものが多い。

 長くモスクワ音楽院で教授職を務め、ハチャトゥーリアン、カバレーフスキィ、シドリーンなどを育てた。


第1交響曲(1908/1921)

 記念すべき1番は、3楽章制で40分という、若書きの書法の荒さや薄さを鑑みても、まさにロシア後期ロマン派の薫り馥郁たるものがある。

 しかもペテルブルク音楽院で担当のリャードフに見せる勇気が無かったが、プロコーフィエフにつきあってもらいグラズノーフへ見せると、グラズノーフはすぐさま奨学金を与えた。

 今日では1921年の改訂版が聴かれるという。

 1楽章から20分近い大規模なものだが、内容はそれほど濃くない印象。冒頭の陰鬱な低音がロシアの闇を表すようでもあり、ミャスコーフスキィの心の暗さを表しているようでもある。闇と光の交錯、そして平易と思索的複雑さの交錯。なにより派手さの無い誠実で堅実なつくり。

 手法の幼さは別にして、ミャスコーフスキィの全てが既にある。

 また2楽章が白眉。ミャスコーフスキィは、なんといっても緩徐楽章に「ちから」が入っている。彼のアレグロはショスタコ聴き等にしてみれば「生ぬるいだけ」だが、緩徐楽章の叙情や情熱、風情、歌謡性はむしろショスタコなどより遙かに勝っているだろう。

 たっぷりと歌い上げ、盛り上がってゆくが激烈というでもなく、そこは地味といえば地味だし、叙情や詩情的といえばそう。なんともいえぬ味がある。

 アレグロ楽章も大規模であり、情熱的な主題から始まる。クラリネットの流れるような主題も秀逸。フーガっぽくもありロンドっぽくもある。長さのわりに展開が弱いのは若さからかと思いきや、それは「ミャスコーフスキィだから」というのがまた微笑ましい。


シンフォニエッタ(1910-11)

 Op10 ミャスコーフスキィにはシンフォニエッタというタイトルの曲が3曲あって、1番2番という番号がついてないので、作品番号のほうから区別するしかないのだが、初期、中期、最晩年と見事に交響曲の中にあって作曲年代に区切りをつけている。

 この初期のシンフォニエッタは管絃楽のためのもので、1番や2番、3番の交響曲が40分という大規模なものに比べたら3楽章で20分ほどなので確かにシンフォニエッタ(小交響曲)だが、後年になると交響曲のナンバーでも15分とか20分とかのものが現れるので、あまり意味が無いというか、よく分かりません(笑) ま、当時の心境としてこれは小交響曲なのだろう。

 1楽章から活力ある序奏に続き、朗らかな主題が次々に登場する。牧歌的な作風が魅力的。

 続くアンダンテも牧歌的な雰囲気は失われない。フルートの切ないソロが美しくて泣ける。短いのが残念。シンフォニエッタだからしょうがないのだけど。

 プレスト楽章で〆となるが、コミカルな調子が珍しい。コミカルと云っても、基本は仄かに暗い陰が常につきまとうのだが。案の定、中間部の暗さとシリアスさはなんなの(笑) 

 また最初のテンポへ戻り、おどけた音楽となって、まさに社会主義リアリズム全開の終結を迎える。ただしアッサリしている。


第2交響曲(1911)

 2番も若々しく神秘主義的な響きを楽しめる。やはり40分を超える大曲で、2楽章モルト・ソステヌートと3楽章アレグロ・コンフォーコはアタッカなので、大きな2楽章制と云っても良いだろう。

 舞曲的な主題からいきなり始まり、木管(ファゴット)の第2主題は暗め。アレグロ楽章だが、展開部はテンポが落ちる場面もある。チャイコーフスキィらしいドラマティックさも兼ね備え、それはミャスコさんにしては珍しいかもしれない。チャイコの5番が好きな人は、この(内容的に)ミニチャイ5のような音楽は面白いと思うでしょう。

 さあお待ちかねの、緩徐楽章。とはいえ、やや盛り上がりに欠ける嫌いはある。叙情性はたっぷり。だが、ちょっと薄い印象。

 アタッカの3楽章はコンフォーコ(火のように)だから、さぞや激しいと思いきや、そこはミャスコさんなので(特にこの初期の交響曲は)いかにもスクリャービンな響きがそれを遮る。ミャスコさんの27曲の交響曲の、良くてヴァリエーションの多彩さ、悪くて節操の無さは、ありとあらゆるロシア的な音楽を自己流に貪欲に取り入れて消化した結果なのかもしれない。

 (私はそこまでマニアックなロシア物聴きではないので、どこが誰の影響下にありそうだ、とまでは云えません。ただ、全体でなんとなくそう聴こえます。)

 それにしても、これは本当にアレグロ楽章なのか?(笑)

 マーラー流の激しいアンダンテにも聴こえるが、うねりにうねって波濤のごとく進んだ果てに、唐突に終結する。


第3交響曲(1914)

 ミャスコの交響曲は基本的に初期からずっと大規模だ。この3番も40分の音楽だが、こちらは完全に2楽章制で、20分ずつ楽章が分かれている。その頂点が60分を越す6番である。7番はその反動か、20数分になる。だが8番でまたも40分を超える大規模交響曲が現れる。

 ただし大規模であるが音楽の中身としては、時間的な長さの割には淡麗な印象はぬぐえない。しかも表面的には辛くない。それを魅力ととるか短所ととるかは聴く者の好みとなるだろう。もちろんミャスコ流の毒というのは確かにあるのだが、この辛さに気付く人はよほどの通人なのではないか。ショスタコーヴィチのような「分かりやすい」音楽ではない。

 しかし、冒頭、珍しくいきなりムーソルグスキィ(禿山)かというドラマティックなパッセージ(笑) ゴジラでも出てきそうな低音。またミャスコさんの不思議な音楽が始まる。こういう、「なんだなんだww」という遊びが好きな人は、ミャスコはハマる。だが完璧な構成やパッセージ、刃物のような凄味を味わいたい人には、不向きだ。

 なぜなら、どうしても長い割に展開が不充分でモヤモヤ感に苛まれるのである。このウジウジした晦渋的(瞑想的?)な進行を好まない人には、とても聴き続けられないだろう。

 第2主題も暗いが、延々と、まるでオスティナートのように延々とその主題が反復される。まったく同じ姿ではないのでいちおうは展開しているのだろうが、これは展開というよりやはりチャイコ流の「主題の並列」とでも云うべき物だろう。

 盛り上がったり納まったりはするが、大部分が第2主題の羅列のようなものを聴かされる。しかし後半の数分に、ミャスコ流の緩徐楽章っぽい部分が出る。妙な半音進行の金管は、まだスクリャービン的だ。

 第2楽章も激しく始まる。なんともショスタコっぽいアレグロだが、どこか突き抜けない、突破しない垢抜けなさはミャスコ流。それがまた愛らしい。表面つらの(たいして魅力的でも無い)旋律に隠された中低音部が地味に熱心だ。

 2楽章も中間部でゆっくりとした部分が現れるが、低音がグロテスク。

 またアレグロが戻るが、アーチ場の3部形式に思える。最後は1楽章冒頭に回帰する。というか葬送行進曲になる。なんで?(^^;

 (しかも長いw)


第4交響曲(1918)

 4番も3楽章制で、4楽章制の順当な交響曲は次の5番が初めてとなる。またも40分の大曲であり、1楽章が20分ある。

 フルートのもの悲しい独奏より始まる。どうしたんだろう、これも意表をつく冒頭だ(笑) ミャスコも実験的精神は非常に豊富だった作曲家であるのが分かる。モノローグはクラリネットから絃楽に伝わり、しばし続く。アンダンテ・メストコンサンティメントの神聖な響きである。5分ほどでアレグロとなる。

 展開部はまたも幅の少ない旋律が上下するソヴィェート流のものだが、激しく楽想が入れ代わり、まずまずドラマティックだ。1・2番にあったような叙情に重きを置くものではなく、3番と共に構成に力を入れてくる。(それでも、ミャスコの構成は複雑な割に推進力が弱く、聴きにくい。)

 後半のシリアスな怒濤の突進も迫力があるが、不協和を伴いうねうねと苦悩を表しつつ、数度のシンバルの打突と共に唐突に楽章は閉じられる。

 2楽章ラルゴもさらに暗い。ソ連の作曲家は明るいか暗いかだが、ミャスコは正直、どん底に暗い。ショスタコのような狂気染みた強靱な暗さではなく、救いようのない無表情な虚無的な暗さだ。同じ虚無でも、シューベルトペッテションのような極端な叙情も無い。いや、あるにはあるが、叙情は技法としての叙情であって、精神としての叙情に救いを求めていない。つまり救いが無い。

 フルートのソロすら、なんとも田舎臭い、美とも歌ともつかないこのロシアの土俗的な響きはなんとしたことか。絶望する農奴のようではないか。

 人によっては、ミャスコのナンバーは奇数は明るくて偶数が暗いとなっているが、嘘だ。ぜんぶ暗い。少し暗いか凄く暗いか、あるいは表面上は明るくて内面が暗いか表面も暗いか、のどちらかである。

 短いコーダが美しい。

 3楽章は2楽章に匹敵する規模のアレグロである。しかしここで展開の弱さが出る。せっかくのエネルジーコ・エマルカートだが、アレグロ部ではなくアンダンテ部で盛り上がる。モヤモヤアレグロはどこまでもモヤモヤし、何のカタルシスも与えてくれない。

 だが珍しく終結部は力強くチャイコ流の大団円である。ミャスコはこれを相当気合を入れて書いた模様。


第5交響曲(1918)

 4番から続けざまに書かれた5番は、ミャスコ初の4楽章制の交響曲であるのが興味深く、また規模も同等である。しかしスケルツォが欠けており3楽章アレグロ・バルランドが4分という短いもので、バランスを欠く。ショスタコの10番を思わせる構成となっている。本人的には4番に力を入れすぎたので気晴らし的に書いたようなのだが、構成的にはこちらの方が良い。

 穏やかな田園風景を思わせるアレグレット。ドイツ音楽のようにしっかりとした旋律。そこにはこれまで意識的に避けられてきたか、あるいは見落とされてきた構成への意欲が感じられる。だが低音に不気味な音形が現れ、ホルンやクラリネットが森の闇を予見させるとやおらロシア的な佇まいとなる。アレグロは荒ぶる大地の精霊を呼び覚まし、ロシアの雄叫びを天空にあげる。叙情に流されないしっかりとした精神が感じられ、かなり良い雰囲気。徐々に鎮まり、霧の中に消えてゆく。

 引き継ぐようなレントはしかし、緊張感にあふれ、ルサールカ(人を引き込む水の精霊・妖怪)でも現れそうな危険な匂いを発している。民族音階ふうの鄙びたくらーい旋律が、またいい味だ。救いようの無い無限の螺旋を思わせるこういう音楽を聴いていると、ほんとーにミャスコさんのネクラさが分かる。いや、暗いばかりの人でないことは承知のつもりだが……解放が無いんだよなあ。全てが悲劇的。

 乱暴なアレグロが地獄の軍勢のようであるが、リームスキィ・コールサコフが手を入れたムーソルグスキィ、あるいはボロディーンを感じさせる小洒落たバーバリズムであり、ロシア舞踊のような土臭さが道民の私には心地よい。

 3楽章が終曲のようでもあるが、アレグロ・リゾルートの4楽章は明るい旋律で幕を開ける。比較的明るい、いや勇壮な雰囲気で進み、英雄的な側面を見せる。うーん、ミャスコも5番という事で張り切ったのだろうか。

 コーダも主題の循環を見せて統一感を出し、民族的側面も出しつつ、壮大な大団円ラストを演出する。

 他の人も勧めるだけあり、これはマニアックな側面を脱し普遍的な価値があって聴き応えがある。やはり5番は苦悩から歓喜なのだなあ。しみじみ。


第6交響曲(1921-23/1947)

 副題に「革命」を持つ事もあるが、ロシア革命ではなくフランス革命歌の引用があるから。4楽章に合唱が入るが、資金難だったのかスヴェトラーノフ盤では惜しくもカットされている。ミャスコさんにとって最も希有壮大な出来上がりで、演奏時間も27曲中最長を誇り60数分から70分になる。

 1楽章は最も規模が大きく20分を要し、ラルガメンテからアレグロに到る。

 深刻な金管の叫びより序奏も無く不安げな主題が登場。半音階進行も激しく、辛辣な表情を見せ、憂鬱な第2主題がもの悲しく鳴り渡るも、変わらない展開の弱さで、凄まじいグダグダ感。素晴らしいミャスコーフスキィ展開である。何をやっているのか分からない不気味なウネウネ節が延々と続く様は見事という他はなく、現代音楽も真っ青の難曲ではないだろうか。展開というよりむしろチャイコ流の「主題の並列」が爆裂する。最後は陰々滅々たる闇の中に吸い込まれて行く。

 2楽章プレスト・テネブローソ(神秘的な、暗い、闇に包まれたプレスト)は8分における暗黒プレストである。すぐにトリオ部が現れるが、やや平安的なパッセージに心が洗われる。3部形式で焦燥感のある冒頭に回帰する。短いコーダの後、ぷいと終わる。

 アンダンテ・アパッショナートの3楽章。これが暗い(笑) アパッショナートではなくこれではミステリオーソである。暗黒星雲に飲み込まれるヤマトの如き悲愴さ。緊張感ある絃楽から低音が渦巻き、虚無的なクラリネット。幻想的な音色のパッセージも洗われるが、やはり主体は蠢く低音だったりする。美しい響きに支配されてはいるが、あまり情熱的ではないと思う。

 どっちにしろ暗い……暗すぎる。暗すぎるんだよミャスコ! ペッテションに匹敵する暗さだよ!

 ところが、4楽章は急に明るくなる。

 長いアレグロ楽章だが、レスピーギ調の能天気なお祭ファンファーレより、ロシア的な祝祭へと姿を変える。ここはやはり、リームスキィ=コールサコフの流儀を得ている。

 ところがアッという間に悪魔城の内部に潜入(笑) そこから瑞々しい旋律に耳を癒されるが、ここらへんが革命歌なような気がする。ティンパニも轟き、革命の戦いの様子が聴こえてくるが、ショスタコのような描写力は無い。ラストは魂が救われ天国に行く。たぶんここらへんに聖歌による合唱が入ったのではないだろうか。

 初演者ゴロヴァーノフが「チャイコーフスキィの悲愴以来最大の第6番」と讃えたというが、いろいろな意味が隠されていると思う。


第7交響曲(1922)

 6番の反動か、24分ほどの2楽章制の作品。しかし内容はさらに抽象的となる。霧むせぶアンダンテの冒頭より、非常にフランスものっぽいアレグロがく続く。ここらへんは1番〜3番あたりに戻っているが、よりフランスものかスクリャービンっぽい。

 しかしこのウネウネ感はいかにもマジメにスクリャービンかドビュッシーなんだけど……ミャスコの芸術って何を基準にしているのかよく分からないなあ。それらのエッセンスに自らのロシア魂と堅実な作曲技術をレッツコンバイン! しているのだろうか。

 そのまま、沈み込んで1楽章は終わる。

 2楽章もアンダンテである。朴訥としたハープと木管の音色で幕を開ける。ホルンが遠くから谺し、まるでドリーブあたりのバレー音楽。

 あとはミャスコ流の美しい緩徐楽章だが、後半に展開がけっこうメチャクチャになる。そのままウネウネして、一気に終結する。なんとも云いようがない。


第8交響曲(1924-25)

 ショスタコやグラズノーフも交響詩を書いているロシアコサックの英雄ステンカ・ラージンの物語に基づく一種の標題交響曲。こちらは4楽章制で50分を超える大曲。民謡風の主題が多用されており聴きやすい。

 1楽章からミャスコさんにしてはなかなかの描写力(笑) ミャスコのメロディーはドイツ流の息の短いものだが、それは鬼の展開(変奏)がついてこそのもの。展開の少ない場合はそもそもメロディーそのものの魅力が無いと話にならないのだが、ミャスコはかなり話にならない事になる(爆) 牧歌的で勇壮な様子が伺えるが、世界が突破するものではない。

 2楽章アレグロ・リゾルートもコン・スピリートと指示があるがむしろ幻想的。ここでトリオにロシア民謡風の旋律が現れ、雰囲気を出す。それにしてもスケルツォ部はとりとめがない。

 3楽章に到り、ようやくミャスコ流の落ち着いたアダージョが聴けて、なにやらほっとする。やはりこの人は緩徐楽章の人なのだろうか……。

 コーラングレの黄昏た響き。寂寥ある風景。たまらない。なんか馬子歌みたいだが(笑) とはいえさすがにあんまり暗くない。ミャスコなら怒濤の暗黒闘気渦巻くでろでろの盛り上がりが無くてはならないのだが。でも、この侘しい雰囲気は良い。

 4楽章はいよいよステンカ・ラージンが反乱を起こして暴れ回り、つかまって処刑される部分だが、なんか妙に明るい(笑) 

 ミャスコーフスキィ、わけわからん。ふつう、他の作曲家が明るいところで暗く、暗く悲劇的なところで明るい。もしかして、どっかオカシイんとちがうか。これが反乱の音楽か。

 しかし、足どりはどんどん重くなってゆく。逃走に入ったようだ。そして後半に勇ましくも絶望的な戦いが繰り返され、衝撃を迎えて幕を閉じる。4楽章の後半部分は、聴かせると思う。


第9交響曲(1926-27)

 大曲が続く。9番も4楽章制で40分を数える。そのわりには、なかなかドカンと衝撃を与えるものや感動を与えるものは(少なくとも私には)無いように感じるのが辛いところ。

 ここらで一発ドカンと来てはくれないものか。

 来たらミャスコさんじゃなくなるんですけどねwww

 相変わらず素晴らしく暗黒的な立ち上がり。思想的な第1主題も魅力的。立ち上がりはなかなか良いのだが、そこからミャスコ流のウネウネが続く。13分になるアンダンテ・ソステヌートは、ホルン独奏の不思議空間。その後、切々と乾いた情景が続く。冬というより晩秋の立ち枯れた木々が原野にただひろがる無人の情景。

 そして2楽章がいきなりお祭(笑) ディズニーのような陽気なお散歩か。微妙に狂ってゆく様子はあるが、完全には狂わない。バカになりきれない知識人の気恥ずかしさ全開。

 3楽章のレント・モルトで再び寒風の吹く湿原の情景に。轟々と吹くのではなく、ひしひしと冷気が漂い、その中にどこか郷愁がある。

 さて、4楽章がまた変に明るい。アレグロ・コン・グラツィア(優美なアレグロ)だが、中間部はやはり暗いw しかも楽想が意味不明。とにかく関連というものが無いか、余人には分からないミャスコ流。突拍子が無いようであるようでやっぱり無いのかなー? というもの。これは聴く者を選ぶ。諧謔のようでただの悪ふざけのような音形が戻ってきて、それがまた延々と続いてじわじわと盛り上がりつつも、消化不良で終結。もっともミャスコさん的には凄まじく盛り上がったつもりかもしれない。

 こんな曲に40分は必要かと言われると必要ないと答える人が90%以上なんだろうけど、この独特の妙な展開や構成あってこそのミャスコーフスキィという意見も当然あるだろう。


第10交響曲(1926-27)

 プーシキンの長編詩「青銅の騎士」に基づく、初の1楽章制の交響詩風交響曲。演奏時間も27曲中最短の15、6分。9番とは同じ作曲年。

 詩がけっこう悲劇的なものなのでとうぜん音楽も悲劇的。交響詩風と書いたが、ぶっちゃけ交響詩である。

 冒頭より悲劇の主題が重々しく、生々しく登場し、まるで怪獣特撮。青銅の騎士の銅像が襲いかかってくる妄想そのままに、音楽は聴くものを執拗に追いかける。

 第2主題はテンポが落ちて不安の心象を示す。ロシア愛国の象徴だったピョートル大帝の象は、1人の青年の狂気的な不安に押しつぶされてゆく。

 うーん、このオネゲルの3番みたいな絶妙な戦闘アレグロが心地よいな。ミャスコさん、やればできるじゃないですか!!

 そしてなによりグダグダした展開が無い。スッキリしている。こんなのミャスコさんじゃないという気もするが、時間が時間なので、これ以上はどうしようもないといったところか。

 ミャスコーフスキィ、正直、短い曲が向いている。主題の並列というチャイコーフスキィ以来の伝統を意識しているのかしていないのかは分からないが、主題自体が地味だからその武器も弱い。そういう人は、スパッと短時間で勝負をつけると良いと思う。

 コーダに叩き込まれる強音も良いし、続くコラールも良い。終結の大悲劇も素晴らしい。


絃楽のためのシンフォニエッタ(1928-29)

 Op32 10番から11番まで時間を置いてはいるが、10番の翌年に絃楽合奏のためのシンフォニエッタを書いている。3楽章制で30分ほどになり、普通に交響曲といって良い作り。

 重厚で魅力あるロシア的な主題が、すぐにウネウネとした半音進行に移る。とてもではないが、小交響曲という雰囲気ではない。もう、本当に立派な絃楽のための交響曲。無窮動的に主題を扱い、ちょっと不思議な雰囲気。そのまま、ピアノとなって終わり、終結部を伴わない。

 2楽章アンダンテは、順当なミャスコ節。しかし叙情や耽美というよりは、ちょっとなんか色物っぽい怪しい雰囲気はあるw 最後でいつもの叙情派路線に復帰する。

 プレストの終楽章では、やはり明確な主題が現れず(正確には現れているけどよく分からない)しかもそれが明確に展開しない。もぎゃもぎゃもぎゃもぎゃ延々と絃楽器が「何か」を弾いている。ラストだけちょっとハリウッド調(?)の和音が登場。

 全体的にやはり絃楽合奏なためか、おとなしい音色。しかもしつこくない。ミャスコさん、管打はちょっとしつこい使い方なのだろうか。

 そうは云っても、絃楽合奏で30分は長いよ。音色に飽きてくる。まあ、ミャスコーフスキィに限りませんが。


第11交響曲(1931-32)

 シンフォニエッタを挟んでいるが、しばらく振りに書かれた交響曲。

 1楽章地を這うようなレントからすぐに戦闘的なアレグロ。この主題がなんともソ連チックで良い。いつもなかなか掴み切れない味があるのが常だが、この味ははっきりしている。とても分かりやすい主題が次々に現れる。

 なんだ、やっぱりやればできるじゃないか!!

 と、云いつつ、ミャスコーフスキィにとっては、こういうのも他の部類の音楽と「同列」でしかなかったんでしょうね。器用貧乏……なのか?

 展開も微妙な部分も顔を出すが、主題自体が分かりやすいので聴き応えはある。しかもコーダも順当な盛り上がりwww

 こんなのミャスコーフスキィじゃない!(笑)

 2楽章アンダンテの冒頭も1楽章に続き暗黒星雲。しかしその後に現れる魅力的なテーマはまさにチャイコ流。フルートのソロも逸物。ちょっと虚無的に長いが(^^; もの哀しいというより、やはり無表情だ。しかしその後、清々しい夜明けが待っている。

 3楽章はプレチピタント(Precipitanto)というちょっと見慣れない発想記号。急激に、とか、極めて加速度的に、とかいう意味のようだ。そのわりに、主題はなんともコミカルなもので面白い。第2主題もやや斜に構えた朗らかさである。

 しかしここで展開の無さもとい弱さが露呈。このもちゃもちゃ感はむしろ古典派の展開部のようである。古典派の時代、ソナタ形式は提示部こそが命で、展開部はその命を再現する再現部への「つなぎ」にしか聴こえないような内容ばかり。(それを打破したのがマーラーとブルックナー

 終結部はちと残念。


第12交響曲「10月」(1932)

 1917年の第2次ロシア革命(10月革命)15周年記念作品。コルホーズをテーマにしているとも。

 クラリネットのモノローグからフルート、絃楽へと静かでもの悲しい旋律が受け継がれ、(たぶん)革命前夜を表す。10分少々のアンダンテだが、相変わらずの乾ききった救いようの無い暗さだ。まあ革命前の悲惨さを訴える作りになっているのだろう……。やがて遠くから革命軍がやって来る。喜ばしい旋律がとても分かりやすく登場し、当局を喜ばせる。しかし、彼らが去った後の虚無的な侘しさにも注目したい。

 3楽章制だが、1楽章が緩徐楽章なため、2楽章はプレストで3楽章はアレグロという構成である。2楽章プレスト・アジタート(興奮したプレスト)は、革命の狂騒を伝える辛辣なもの。信号ラッパより進軍が始まる。盟友プロコのような激しい音楽だが、一定の境界線はけして超えないところがミャスコ流。中間部は苦悩がある。

 3楽章アレグロ・フェスティーヴォで、祝祭的。しかもマエストーゾ(堂々と)とある。

 ところが、あんまり祝祭的ではないwww

 ここにきてミャスコ=モヤモヤ節が炸裂。うねうねうねうねと際限なく進んで行き、無限旋律かと思わせる。時折優雅な旋律もあるが、さ、その旋律が展開しない事甚だしい。これは展開とか変奏とかとはちがう概念なのだろうか。そうなると、ミャスコさんの音楽はちょっと長い。終結部だけ祝祭(笑)

 交響曲だが、標題的で交響詩と云って良い。ショスタコの12番に通じる作品で、平易で聴きやすい。


第13交響曲(1933)

 ティンパニのボソボソとしたソロから、無調的な絃楽や木管のパッセージがデロデロと現れる。単1楽章20分ほどの音楽で、シリアスで抽象的。11番や12番とは真逆の趣を呈するが、そこに流れる根本的なテイストは変わらないと感じる。

 つまり、暗黒の歌である。

 ミャスコの唄う歌は魂を地獄に導く三途の川の渡し歌であり、死者の集う墓場の歌であり、そして叙情と荒涼と寂寥の歌だ。特にこういう1楽章のアンダンテ調のものでは、激しくないペッテションと言ってもいいほどの暗黒度。精神的な深さはさすがにペッテションに譲るが、ミャスコーフスキィの暗黒はむしろどろっとしている。まさにソヴィェートの暗部を覗き見るような。ショスタコの14番にも通じるような。
 
 明るさを装っても明るくなりきれない部分。アレグロを書いてもどこかヌケきれない部分。緩徐楽章を書けばどこまでも清浄さに憧れる部分。旋律は歌いきれず、展開は展開しきれない。

 それらすべての中途半端さが、ストレスとなって聴くものを襲う恐るべき音楽。それはミャスコーフスキィの技術がそうなのではなく、ソヴィェートの暗部が彼にそうさせたとすら思えるのである。

 この脈絡の無い自由な書式はショスタコより現代的だが、楽想は古典的。だが13番には珍しく(失礼)緊張があり、聴く者を引き込む。中間部のアレグロが相変わらずののっぺりした面白味の無い進行だが、緩徐部分はかなり暗黒で良い。作家の当局による過大なストレスを暗示している。室内楽的で虚無な書法も良い。

 正直、後半部の暗さは救いようがない。耽美がなく、ただ暗いのである。ざらっとした暗さだ。危ない。ペッテションは音楽に救いを求めたが、ミャスコは求めていない。逆に虚無を求めている。音楽的な内実すらも無い。なんにもない。空っぽである。当然、感動も無い。むしろゾッとする。

 良いか悪いか分からないが、ミャスコがペッテションすら凌駕しているではないかという部分がこれだ。

 それがミャスコーフスキィの本質か。


第14交響曲(1933)

 30数分からぎりぎり40分に行くか行かないかという規模の音楽で、珍しく5楽章制。

 アレグロ・ジョコーゾ(おどけたアレグロ)から始まるが、確かにすっとぼけた味わいだがその中にも意外に辛辣な部分も見え隠れする。しかし(本当に)相変わらず不思議な音楽だ。おどけた音形が、おどけきらないのだが、それが作者の流儀である。良い悪いの問題ではない。聴く者の好き嫌いには、おおいに問題となるが(笑)

 さて2楽章アンダンティーノだが、毎回同じ事を書いていても仕方がないと思うのだが本当だから仕方がない(笑) つまり、暗いのである。楽想そのものが暗い。彼の音楽の発想が暗い。これは交響曲のみの仕様かもしれないのだが、ひたすらシリアスで、しかも真面目腐っている。トリオのロシア民謡ふう主題も、大マジメだ。しかも優等生的な上品なマジメさで、現代的なアクションも起こすのだが、やはりドカンと来ない。そこにミャスコの味があるのだが、この味が好みの人は少ないだろうなw

 チャイコーフスキィを思わせる愛らしいプレスト。その中に潜む弱毒。チャイコはいきなりボローディンとなり、雄々しく進む。そしてリームスキィ・コールサコフになる。わけわからん(笑) それが面白いのではあるが。じわじわ来る面白さ。

 4楽章がアンダンテ・ソステヌートであり、いちおうこれが今ナンバーの正式な緩徐楽章のようである。まあ、暗いのだが(^^; 暗さの中の仄かな浮遊感が美しい。ああしかし、本当に暗い。気分が沈み込む音楽である。ごっそりと生気が奪ってゆく幽鬼の如、闇を漂う。

 そして対照的な明るく勇ましい終楽章。アレグロ・コン・フォーコ(火のようなアレグロ)であるが、まあ、それほど業火ではないのは予想が着くところだろう。呪文でいえば、メラとメラミの中間ぐらいというか。オスティナートに近い手法で息の短い特徴的な主題を執拗に繰り返してゆく。終結部は分かりやすい。

 交響曲というより交響組曲に近い作風。


第15交響曲(1933-34)

 1楽章から充実した響き。ドイツ流の構成力にあふれており、こういうのを聴くと、やっぱりやればできるのに普段はやってないというか、やってないほうはやってないほうでマジメにああいうふうにやってないんだなあ、と感じる。変わった人だと思う。主題はやや硬く、ミャスコーフスキィの魅力の1つである主題の伸びやかさに欠けるが、その主題が出っぱなしという無責任な事にはならない。

 そしてカッコイイ正統派のテーマが続々と(笑) どうしましたミャスコさん!!

 展開は相変わらず弱いが、盛り上がりはある。これはミャスコさんにとっては、はっきり云って珍しい。

 アンダンテ・モデラートもだらけていない。いつもなら、仄暗い耽美旋律がただ鳴るだけだが、締まっている。適度な緊張感がある。

 3楽章はスケルツォを欠き、アレグロモルト・マ・コンガルボという、凄く活発にするけど優雅にもやってね、などというほどの意味で、舞楽となっている。これもいい。ちょっと暗めで、ずっと蝋燭の明かりの中で踊る。

 ショスタコっぽい厭味の効いた短いファンファーレから、進撃調のアレグロとなる4楽章。まあ、展開がグダグダするのは変わらずとして……それでも、明るい調子が取っかえ引っかえなので、気分が高揚する効果はあるだろう。

 特に最後のコーダが、凄い。アッパーすぎる。

 ミャスコーフスキィ、イヤ、ホント、どうしちゃったんですか。いや、これもミャスコさんなのです……。


第16交響曲(1935-36)

 「モスクワフィルハーモニー管絃楽団に捧げる」 とある。40分を超える大曲。

 初っぱなから開放的な調べが珍しい。勇ましくも明るい主題から、第2主題も骨太だ。編成も大きいようで響きに厚みがある。一貫して祝祭的な気分が面白いく、序曲っぽくもある。これは良い音楽だ。

 2楽章のアンダンテも珍しく暗さがない。そして男性的なモノローグも聴かせる。どこかハチャトゥーリアンのスパルタカスをも思わせる部分がある。舞踊的かつ、メランコリック。彼特有のザラッとした虚無的な暗黒を感じさせない。それが是か非かは、聴き手の好みによるだろう。

 それが一点、ミャスコらしい地獄の咆哮で3楽章が始まるから面白い。いつものミャスコ節はここにあった。ソステヌートのこの楽章は葬送行進曲だそうで、スケルツォを欠いた交響曲である。行進曲とはいえ、緩徐楽章が2つ続くという印象。相変わらず美しい音楽だが、このナンバー特有の朗らかさからか、深みに欠け表面的な叙情に流されているような気もする。

 4楽章には自作の大衆歌の引用があるそうな。そうはいってもここでいつものミャスコーフスキィ展開炸裂で、似たようなモティーフがありすぎてわけがわからん(笑) パッとしない主題をとにかく使い棄てるのを止めたらどうかというか、それが味なのだからどうしようもないのだけれども。そのくせ、長い。

 いやあ、だって、ミャスコだもの(爆)

 4楽章のとりとめの無さは異常。


第17交響曲(1936-37)

 1917年の第2次ロシア革命(10月革命)20周年記念作品らしい。

 これも50分になんなんとする大交響曲。ミャスコーフスキィは本当に大規模な交響曲が好きだ。

 マーラーっぽい伸ばされた音にピチカートが暗く沈み、焦燥感のある主題がアレグロで奏でられる。第2主題も広大な原野を思わせるスケールの大きいもの。その中にやはり現れる一抹の寂寥。ミャスコーフスキィ味が盛りだくさんな1楽章。コレダ! という才気は無いかもしれないが、滋味にあふれている。しかし、何番を聴いても思うが、提示も弱けりゃ展開が弱い。この人はソナタ形式に向いていない。交響曲じゃない曲種のほうが時に生き生きとしているのはそのためだろう。そんな人が27曲も書いちゃう皮肉というか悲劇。荒々しくティンパニとトランペットのの強打強奏を伴い終結。

 2楽章はレント・アッサイ。美しい旋律だが、どこかやはり不安が残る。大きく盛り上がるも、それがそのまま、ぱあっ…と拡散してしまう独特の味わい。後半部の映画音楽のような部分は清々しく素晴らしい。ハープも美しい。チャイコーフスキィ味がする。

 短いアレグロ楽章の3楽章は、重々しいヴィバーチェ。5分ほどしかなく、半音進行が焦燥感を煽る。

 4楽章はなんとアンダンテ。珍しい。短い息で淡々と音楽を紡いで行くが、こうなると構成力の無さが出る。つまり、取り止めが無い(笑) でも、聴けるほうだ。そしてどんどん盛り上がり、どう聴いてもアレグロに突入する(笑) 波濤の崩れるように終わる。

 これは長いなりにけっこう聴ける。たいへん素直な出来。


第18交響曲(1937)

 こちらも1917年の第2次ロシア革命(10月革命)20周年記念作品。

 ショスタコーヴィチの5番と同じ時期に作曲されている。つまり、スターリンによる大粛清(特に1936−1938)の最中、ある日、忽然と人々が「反革命的理由」により裁判も無く消えて行く日常にあって、反日常を描いたものであろう。強制された微笑みに、人々は強制された拍手喝采をなげるその滑稽さ。ショスタコの9番に似た手法で、ミャスコーフスキィは20分少々の軽交響曲をもって「革命讃歌」とした。

 実に職人的な技術で祝祭気分が盛り上げられる。第2主題は物憂げだが、情緒がある。第1主題を主に展開するが、ブラスの輝かしい響きは面白い。第2主題も現れる。短いが分かりやすく、軽快な祝典的アレグロ。展開の弱さも、この短さなら問題ない。(長いと大問題である。そしてミャスコさんのソナタ形式はたいてい長い。)

 2楽章はレント−アンダンテで10分ほどだが、魅力がある。管楽器の各種ソロも味わい深い。絃楽の主題も胸を打つ。これは粛清の犠牲者へのレクィレムだろうか。動きもあってダレない。

 牧歌的雰囲気も漂わせる3楽章。こちらも5分ほどと短い。タンバリンやシンバルの鳴り物も鳴って、豪快に雰囲気が高揚して行く。アッサリ目なのは逆に日本人好みか。この楽章もなかなか良い。生真面目なやっつけぶりも逆にイカス。

 そのまま聴いても純粋に楽しめるし、大粛清とその体制への諦めもこもった、無表情の喜びという抗議の意味としても深いものが……あるような無いような。

 ミャスコーフスキィの音楽は順当に暗いものより、こういうあからさまに明るさを装ったもののほうが、微かに見せる寂しげな部分が深いような気がする。暗いなら暗いで、とことん暗い暗黒虚無のものが良い。


第19交響曲(1939)

 赤軍の創立21周年記念作品で、なんと吹奏楽。(サクソルン類を含むドイツ式ミリタリー・バンド)

 吹奏楽による純粋音楽として貴重なレパートリー。ただしこの時代の吹奏楽作品の常で、古式然として色彩感に欠ける。まして正4楽章制の「交響曲」となれば尚更だ。吹奏楽作品の素朴な音色(おんしょく)は、形式とはあまり仲が良ろしくない。斬新な現代技法による吹奏楽作品も既に現れている時代ではあるが、ソ連ではそれは許されなかった事もある。

 絃楽器の使用を禁じられるという慣れない仕事でもあり、もともと1楽章のみの作品だったようだが、興が乗って書き進める内に4楽章制の交響曲にまでなってしまったらしい。

 1楽章マエストーソ冒頭からファンファーレ。そしてアレグロの、朗らかなホルストの1組(ミリタリー・バンドのための第1組曲)の如き明朗な主題。ミャスコーフスキィじゃないみたいだwww カノン的な主題の回し方もカッコイイ。なによりハデでいかにも古風な雰囲気。

 2楽章モデラートの牧歌的な節回しもいかにも吹奏楽っぽくて良い。まあ、どうしてもこうならざるを得ないのが吹奏楽編成の宿命でもあるのだが。なにせ伴奏も主旋律も管楽器ばかりなので。しかも管楽アンサンブルとも異なり、厚みがある。中間部のマーチ調の部分を挟み、牧歌的なワルツ。

 3楽章はまたなんとも鄙びた味わい。アンダンテ・セリオーソであり、緩徐楽章をここに持ってきて、スケルツォを廃しているのがミソ。ミャスコーフスキィの絃楽器の酷く感傷的な味わいはまた格別だが、このほのぼのとした調子も良い。

 4楽章はシンバルバシャバシャのドハデさ。(これはたぶん指揮者の趣味だがw) ロシア舞曲っぽい主題も面白い。マエストーソなので堂々と演奏しましょう。トランペットのソロもカッチョイイですぞ!

 ラストも爽快!! 注文仕事とはいえ、ミャスコ流の中では異色の明快さである。これは私が吹奏楽出だというのもあるが、実にしみじみとした味わい深い逸品。ホルストのそれにならんで吹奏楽の古典の1つですね。


第20交響曲(1940)

 衝撃的な幕開けであるが、続く動機は安らかな響き。一切の緩みが無く、造型的にも光っている。愁いを帯びた旋律も、感傷に逃げていない。展開の弱さはもう藝のうちだが、その中でもドラマティックなほうか。

 緩徐楽章も、ちょっと色が変わってドヴォジャークっぽい郷愁も。しかも明るい(笑) いつもは冷たい無関心を装ったような寒色系の明るさだが、これは珍しく暖かい。何かあったんだろか。トロンボーンとホルンのコラールも神聖。

 3楽章は珍しくアレグロ・インクワィエット(不安げなアレグロ)で、冒頭のティンパニがそれっぽい雰囲気を醸す。ここに来てウネウネと前に進まないアレグロが現れるが、まあそういう発想指示だから、とまだ納得できる。旋律も良い。

 そしてキラキラした光の中、輝かしい大団円へと駆け上って行く。

 3楽章で25分ほどの規模だが、ミャスコさんはこれくらいがちょうどいい。しかし、ちょっと作為的か……どうせ作為的なら、もっと毒のある方が好みである。この時期、大粛清も一段落し、ソ連には束の間の平和が訪れていたというが……。ミャスコーフスキィはそんなものを素直に喜ぶような単純な人とは思えないだけに、謎が残る音楽。いや、やはり、単純に素直に喜んだのか……それとも、同年作曲の次の21番との単なる対比か。


第21交響曲「交響的幻想曲」(1940)

 これはミャスコーフスキィの中でも比較的高名なナンバーのようで、録音が多いという。約20分で1楽章制の、副題通り交響曲というより幻想曲である。ミャスコーフスキィお得意の緩徐楽章のみで独立した音楽。

 モデラート・ソステヌートではじまる、クラリネットが主導する郷愁と哀愁を誘うメランコリックな旋律は、正しいロシアの晩秋の感情か。祈りの静謐な情景。

 5分ほどでアレグロとなる。哀愁感は失われず、そのぶん緊張と悲愴さが増す。だがそれは一瞬の邂逅であり、再びテンポが戻る。

 そしてまたアレグロへ……基本、この繰り返し。楽想が展開するというでもなく(専門的にはしているのかもしれないが)やはり地味な作風。ミャスコはその地味さや展開の弱さが良いのだが、それはこの交響曲が実質の幻想曲だというのに由来する部分も大きいだろう。

 中間部で大きく感動的に盛り上がりもしながらアレグロとモデラートを繰り返し、最後はそのままひっそりと消えてゆく。

 ああああああもう、何回も書くけど、暗い。暗いよ、ミャスコさん!!

 ちなみに、シカゴ交響楽団創立50周年記念の委嘱作品。こんな暗い曲を書かなくても(^^;


第22交響曲「大祖国防衛戦争についての交響的バラード」(1941)

 大祖国防衛戦争とはすなわち、世界大戦というより、ソ連側の呼称による対独戦争の事で、まあ、日本で云う、大東亜戦争という名前のようなものか。

 この対独戦争においてソ連政府は芸術家たちにも音楽で参加する事を望み、ショスタコーヴィチやプロコーフィエフ、ハチャトゥーリアンなどがすぐれた戦争交響曲を書いた。この曲もミャスコさんによるまさに戦争交響曲である。

 これも1楽章制の、35分にもなる巨大なバラードで、ファゴットの先導による暗黒の導入部(ラルゴ)から、一気に英雄的な主題が拡がりアレグロとなる。メランコリックさが残るのがまたミャスコ流だが。その後、アンダンテを経てまたアレグロとなるから、アタッカで進む3楽章制と云ってもよいかもしれない。便宜的に第1部、第2部、第3部と仮称する。

 1部のアレグロはまだ明るさがあり、遠く過去のものとなった平和な時代を思い起こすような回顧感もある。第2主題と思われる部分に現れる中低音部が、戦争の足音にも聴こえる。ホルンのソロがもの悲しく、悲壮的な金管が雄々しい。

 アンダンテではその雰囲気を継承しつつも、祈りの歌が聴こえる。それは次第に死者の歌となる。怒濤のうねりをもって暗黒闘気は盛り上がり、バラードの頂点を築く。やっぱり暗い。

 それから一気に3部のアレグロとなる。ここでまたも戦闘的な行進調主題が登場するが、それはより大仰である。ミャスコーフスキィのアレグロは古典的に、厳格な進行を持ち、けしてショスタコーヴィチのように「畳み込まない」。それがこの時代やテーマにあってある種の「ぬるさ」となるのだが、それはそれで堅牢な安定感を聴くものへ与える。乱暴に叩き込まれるフォルテも、音楽を破壊しない。どこかロマン主義的な側面も残す。

 コーダでは栄光ある祖国の勝利を信じるファンファーレが燦然と鳴り響く。

 ただ味方の士気を鼓舞するだけではない、特にアンダンテ部が戦争批判にもとれる良い音楽だが、ちょっと素材が弱く、そのうえ長い。ま、いつも通りだが。


第23交響曲「北コーカサスの歌と踊りの主題による交響組曲」(1941)

 交響曲というよりどこかボローディンふうの交響詩、リームスキィ=コールサコフふうの短い管絃楽組曲にも感じるこの曲は、確かにじっさいは副題の通り交響組曲であって、交響曲というには語弊がある。そういう意味で聴くと、悪くないどころか、なかなか面白い音楽だ。これをマジメに交響曲としてとらえると姿を見誤る。

 というのも、構成が文字通り完全に「組曲」であって、ミャスコの中でもさらに自由な作りをしている。他の作曲家には民謡を主題とする交響曲もあるが、あくまで主題であってそれは展開する運命にある。しかしここではむしろバレー音楽のように扱われている。主題は直接的で、ただでさえ展開力の乏しいミャスコ節にあって、これほどストレートなナンバーは少ない。これはあくまで「作曲家がそう名付けただけの交響曲」であって、これを風景音楽のようだとか映画音楽のようだとして、失敗した交響曲とするのは的外れだろう。たとえ本当にそうだとしても。

 ゆえに、これはそうとうひねくれた態度で書かれてある。わざとそう書かれている。

 考えればそうだ。わざわざ副題に「組曲」と書いてある交響曲がどこにあるのか(笑)

 そもそもマジメな戦争音楽としての交響曲は、前のナンバー22番で既に書かれている。(それですら「交響的バラード」だが。)

 では同じ年に書かれたこの23番は!?

 この時代、彼とプロコーフィエフが疎開したという北コーカサス……つまりカフカスといえば、そう、スターリン。彼は本名をジュガシヴィリといい、グルジア人だった。誰も恐ろしくて直接は口にしないが、カフカスといえば、荒ぶる残忍なる鉄の男スターリンなのである。

 この交響曲とスターリンの関係は、資料不足により分からない。だが、後にショスタコーヴィチ、ハチャトゥーリアン、プロコーフィエフ、カバレーフスキィなどと共に形式主義者として批判される立場として、この時代からスターリンの恐怖と戦っていたのは容易に想像できる。

 だが恐らく彼の性格もあいまって、ミャスコーフスキィはショスタコーヴィチらのように直接的な音楽としての諧謔表現というのも苦手だった。ハチャトゥーリアンが第3交響曲で示したような刺激に比べると、この23番第3楽章の軽くてアッパラパーな事と云ったらない。20番も明るかったが、遥かに超えている。それくらいの明るさ……いや、軽さだ。

 だがそこに空疎もある。彼にとって、時代的にも大まじめな戦争交響曲となっても良いはずのナンバーで、コミカルで安直、浅薄ともいえる能天気な交響組曲を書いてやるのが最大限の皮肉だったのかもしれない。なんといっても、この年はショスタコは7番を作曲している。つまり、スターリングラードはドイツ軍に包囲されて悲劇の限りをつくしているのだから。そのための22番であり、そしてその反逆としての23番。

 そう考えると、このナンバーは存外深い。

 3楽章で約30数分ある。そのうち第1楽章が最も長く、15分ほどで約半分。低音の呻きの中にファゴット〜フルートでひっそりと歌われる民謡。朴訥としており、孤独で物寂しい。そしておもむろに登場する舞曲主題。これらは、展開する事なく、そのまま交響詩とすら云えないまさにハンガリー舞曲やスラヴ舞曲といった軽音楽となる。次にまた悲歌が現れる。これも採譜した民謡をほぼストレートに出しているだろう。まさに民謡組曲、いや民謡メドレー。

 そういう音楽をひどく嫌う人がいて、曰く芸がないとか、ただの民謡だとか、クラシックではないとか……一昨日きやがれと云いたくなるのだが、そう思われても仕方がないくらいストレートに民謡である。ミャスコーフスキィは手抜きしたという人すらいる始末。

 再び舞曲となり、ほぼ何の展開も無く進む。展開が弱いのはミャスコ流の特徴だが、それにしても「展開しない」というのも極端ではないか。

 これは、わざとこうして書いてあると判断せざるを得ない。理由は分からない。推測しかない。推測は上記してある。

 また冒頭の悲しげな歌が回帰する。再現部とも云えない。まるでリピートである。ちなみに1楽章の発想表記はレント。

 アンダンテ・モルトソステヌートの2楽章では、またも悲劇の歌が延々と歌われる。なぜしつこく悲歌なのか。レクィレムなのか。アイロニーなのか。何の民謡なのか分からないのであくまで憶測だが。順当なミャスコ緩徐楽章ではあるが、旋律が切なさ倍増。最後の方の、ホルンのソロが泣かせる。

 そして祭の3楽章。アレグロ・ヴィバーチェとあり、グルジアあたりの舞曲といえばハチャトゥーリアンだが、あれほどズンドコドッコイではない。そこは、民謡といえどもロシア人としての客観的な視点から書かれていると思われる。いやむしろ、ハチャがやりすぎなのかもしれない。

 太鼓とタンバリンの刻むリズムに乗って執拗に舞曲が現れる。ハチャトゥーリアンでもあり、やはりボローディンぽい。(だったん人)

 ところが、中間部でまたもや子守歌のような部分が登場する。一瞬の邂逅のようで、すぐに冒頭に戻る典型的でなんのてらいもない三部形式。あっさりと、極々ふつうに終結する。まさしく能面のような無表情さで。

 やっぱりミャスコの中にあるのは虚無なのか。


第24交響曲(1943)

 17番以来、久しぶりに書かれた大規模なもの。3楽章制で、40分に近い。

 けっこうカッコイイ勇壮な主題が高らかに吹奏される。そしてすかさずデロデロした暗黒行進曲(笑) ブレない。ミャスコさんはとことんブレない。第2主題は豊かな旋律性がある。うーん、やっぱりたまーにこういう当たりが出てくるのが27曲を通して聴く楽しみだろうか。展開部もいつもの弱さだが、古典的な味わいを狙っているのならこの長さは無いわけで、やっぱりただ単に弱いのだろう(笑) もじもじと主題をいじって存分に遊んだ後、飽きたら容赦なく捨てる。そんな印象。

 3楽章制のミャスコの交響曲で、だいたい最も規模が大きいのが中間楽章の緩徐楽章である。それもブレない。一生かけてブレないありさまは、「偉大なるワンパターン」ブルックナーすら想起させる。長い哀愁と郷愁を漂わせる旋律をゆっくりと奏でて上手に頂点を築く手法は相変わらず素晴らしい安定感。ミャスコーフスキィは緩徐楽章にこそ聴きどころがあるとする人もいるが、分かる気がする。後半部において再び頂点が訪れ、最大の見せ場を作る。

 歓喜的な3楽章はアレグロ・アパッショナート(情熱的なアレグロ)で実に激しい。第2主題でいったん静まるが、それからまたじわじわと盛り上がって行く。盛り上がりと鎮静を繰り返しつつ、意外にもラストは神秘的な霧の中へ……。


絃楽のためのシンフォニエッタ(1945-46)

 Op68 これも絃楽合奏のための小交響曲である。あえてナンバーをふるなら第3番。晩年の作だが、これが実にいい。1楽章から緊張感と叙情が極まり、絃楽の豊かさに心が震える。4楽章制で30分を超え、とても小交響曲とは思えぬ規模。見事なまでに交響曲している。どういうわけでこれがシンフォニエッタなのか、まったくの謎。迫力ある低絃のうねり。中絃のメランコリー。ミャスコーフスキィの魅力満点の第1楽章。変な軽さも無く、表現として絃楽合奏が合っているのかなあ。

 スケルツォを欠き、2楽章は軽やかなアンダンティーノ。舞曲だが優雅な宮廷のダンスといった艶やかさ。チャイコーフスキィに通じるバレー音楽のような豊かな響き。冷たい叙情はロシアの作曲家の独壇場だ。簡易な3部形式。

 3楽章もアンダンテで、本格的な緩徐楽章も欠く。その形式感の無さが、作曲者をして本式の交響曲ではなく、シンフォニエッタとした所以かもしれない。武満徹にも通じるような、清らかさと切なさ、繊細さ。長さもちょうどいい。

 アレグロ・コンフォーコ(火のようなアレグロ)の4楽章も、激しさの中にも上品さがあるのは絃楽合奏のせいか。第2主題もすぐにメラメラと燃え上がり、情熱的な様相を呈する。流れも途切れないし、展開もいい。悠揚で、威厳すら感じる。

 絃楽〇重奏を超えた、近代的オーケストラの絃楽部による絃楽合奏のための音楽は、チャイコーフスキィのセレナードを頂点として意外とあるのだが、単一楽章等の短い曲は別にして大規模なものはやはり音色が統一されるので、よほど名曲でないと耳が飽きて全曲は聴き続けられない。個人的には、芥川也寸志の絃楽のためのトリプティークが好きだが、これはそれに匹敵する素晴らしい音楽。俄然推奨。


第25交響曲(1946)

 戦後発表第1作とでも云うべきもので、3楽章35分ほどのもの。いちおう中規模に分類しているが、24番と大して変わらない規模である。

 1楽章から魅力的な安寧的なアダージョであり、全曲の半分近くを占め、通常1楽章に現れる順当なソナタ形式からは外れている。ロシア的な哀愁と郷愁に満ちあふれている。新ロシアロマン主義、なおここにあって健在。最高に美しく盛り上がった後、静かにおさまってゆく。コーダは葬送行進曲のようになり、大戦の死者を弔うようだ。

 短い5分ほどのモデラートが2楽章だが、25番は全体に暗い。美しいが暗いのである。美しい暗さというべきか。やはり戦争の陰だろうか。いや、暗いのはミャスコだからか。主要旋律は歌謡的で牧歌的。1楽章の延長のような鎮魂の楽章。

 3楽章はメートロ・インペトゥーソ(インペトゥオーソ?)〜激しい拍子で〜の猛烈なアレグロだが、ミャスコさんにしては、と前提がつく。しかし、それでも主題はいかにも闘争だし、金管も活躍する。ティンパニも激しい! 平和の喜びにあふれたという表現がまさにピッタリ来る。ただ展開がここに到ってもやや散漫(笑) ここでも、いつも通りのミャスコーフスキィで安心すらする。ラストは意外にハデ。「新世界より」っぽいけど。


第26交響曲(1948-49)

 数々の民謡にも似たロシア風の主題に基づくもので、最後の大規模交響曲。3楽章制で40分を超える。初期ナンバーからこの晩年に至るまで、このようなスタイルを保持し続けつつも、様々なスタイルを模索したミュスコーフスキィ。その執念だけでも天晴れというほかはない。

 低絃が地の底から闇の歌を唄いあげると、アンダンテ・ソステヌートで導入主題がゆっくりと現れる。ロシア農民の心のよりどころである大地。大地礼讃のような鄙びた薫り。それからアレグロとなって、舞曲風の旋律が奏でられる。1楽章は16分ほどもあって、長いが、主題自体が歌謡的なのでそういうのが好きな人には聴かせる。技術的には特筆したものはないがポリフォニックな1楽章が好きなミャスコにとって、この自由形式のような26番の1楽章は珍しいかもしれない。ミャスコはミャスコなりに、かなり工夫は重ねてきている。しかし、長いのには変わりない(笑) 交響曲の第1楽章というより独立した管絃楽曲のような自由な雰囲気。執拗なオスティナート風の展開が、より強調されている。これは、古き良き時代の農民の姿か。

 2楽章もアンダンテで、静謐かつ鄙びた旋律が彼方よりたなびいてくる。他のナンバーとちょっと趣が変わって、響きが暖かい。もしくは、達観の響きか。フルートのソロは、この晩年に来てよけい郷愁を誘う。やがてまたも舞曲風の主題が登場する。それもかなり素朴な、23番にも通じるシンプルなもの。但し、その変奏はけっこう芸が細かい。(あえてそういう芸の全く無い23番がやはりどこかオカシイのだとも分かるし、同様の主題を使用しているという事は……この26番も隠された意図があるとも云える。)

 それを示唆するような暴力的で強圧的、悲劇的な変奏の後、ゆったりとしたレクィレム調の第1主題に回帰するも、これでもかというような、舞曲の断片も現れる。それが死ぬように消え、悲歌がそれを覆うのもまたなかなか深い。

 3楽章はアダージョで、珍しくアレグロではない。のだが、やおら高らかに現れる民謡風の明るい主題が(笑) それがまた何にも展開せずに消えてしまって次なる歌。そしてまたもやおら明るい歌の主題が登場。楽章は半分以上進んでいるが、ここから展開部だろうか。静かな祈りの主題も順当に現れて、両方ともあまり展開というほどのものでもないのだが、そのまま、またまた明るい主題が登場。そのまま、大地讃歌で終結する。が、ミャスコさんがあからさまにこんな調子で書くときは、逆に心に虚無が到来しているときであろう。虚無を虚無として出す場合、その正反対にあっけらかんと明るくする場合。この人は、両方、虚無なのである。

 じっさい、途中途中にちゃんとアレグロはあるが、アンダンテ、アンダンテ、アダージョと、3つの楽章の標記全てが緩徐楽章のふしぎな曲。まあ、表面っツラはミャスコさんの田園とでもいうべき曲であろう。またいつに無い意味深さと異色さゆえ、好き嫌いや評価は分かれるところだろうが、形式的にかなり面白い曲。


第27交響曲(1949)

 死ぬ前年の作品。26番に続き、ミャスコはこんな死の間際までずーっと同じような交響曲を書いていた。見上げたものである。ふつう、数を数えた晩年の交響曲は、若い時にいくらハデなものを書いていようと、やたらとシブーく枯れきった枯淡の境地になっちゃったりするものなのだが。

 やはり刻むような低絃と暗い中低音から立ち上がる薫り高い旋律。そこから速度を増してアレグロへ。まったくプレない。ううん、しかも適度な緊張感もある。印象的なクラリネットのソロやそれに続くあまりに侘しい佇まいは、やはり最後の交響曲の味わいだろうか。いつもにも増して抽象的な展開部が続き、純粋な音の移動が聴く者の魂を純化して行く。明るい調子で、打楽器もハデに響く。とはいえ、しっとりとした情感も忘れない。そのバランスがいい。長さも良い。いつまでもグダグダ素材をいじっていない。やはり何かを悟ったか。最後までカッコイイ。どうしたミャスコ(笑)

 2楽章のアダージョもかなり良い。甘さが無く、かといって無味乾燥というでもない。ミャスコーフスキィらしい叙情と寂寥、郷愁がほどよく混じっている。美しく、そしてもの悲しく、強い。中間部でやおら軍楽調に盛り上がるも、それは寸時の夢だった。その無常観。寸断される雄叫び。それが瑞々しい朝日に包まれて、素晴らしく浄化されて行く。チェロやホルンのソロもいい。

 3楽章はプレスト・マノントロッポ。序奏を経て、流れるような哀愁漂う主旋律が沸き上がる。やがて祝祭気分が盛り上がり、第1主題とも入り交じって進んで行く。ロンド形式のように主題が何度も変奏しながら登場し、意外とアッサリ雄々しく終結する。

 ここに来て、ミャスコーフスキィの最高傑作……という人がいるのも分かる出来。これは良い。なんといっても構成に緩さや無駄がない。旋律もパピッとしているし、展開も悪くない。いきなり最後のナンバーが最高傑作とはあまりに単純すぎはしまいかと思っていたが、あながちウソでもなかった。長い道のりだった……ミャスコさん。お疲れさま。


総括

 交響曲27曲、シンフォニエッタ3曲を聴いて。

 1.暗い

 2.地味

 3.展開が弱い

 4.旋律が切ない

 5.けして「突破」しない

 6.変わらない

 7.そして嫌いになれないw

 数と外観がヴァラエティー豊かな割には中身がヴァラエティーに貧するのが逆に魅力となる稀有の作曲家。聴く人を選ぶと思うので、なかなかメジャーにはなれないだろうが、スヴェトラーノフのようにハマる人はハマる。しかし、スヴェちゃんの演奏が必ずしもミャスコさんの魅力を100%引き出しているかといえば、実はちょっとちがうような気がする。スヴェちゃんの指揮は、正直ミャスコさんに合ってない。もそっとおとなしいというか普通の味のある指揮者が演奏すべきで、ミャスコさんにはビリビリの金管も荒ぶるアンサンブルも、うねり狂う怒濤の表現もスヴェトラノーフ大クレッシェンド終結も似合わない。

 ミャスコの音楽には、もっと楚々とした部分があるはずである。

 また、こういう、バラバラなのに代わり映えしないという世にも恐ろしい音楽は、どれから聴けば良いでしょうかと問われても正直お薦めのしようがない。現在最も入手しやすいのがそのスヴェちゃんの全集というのも癌だ。その他の指揮者は「出ているのを聴く」といった状態でお薦めも何も無い。

 それでもあえて5曲……いや、何曲か選べというのなら……。

 5番 13番 18番 23番 シンフォニエッタ(3番) 26番 27番 かな……。

 次点 10番 17番 19番 20番 22番 ……まあこんなもんか。ヒト桁代は、ちょっと鬼門だなあ。

 ※これは、あくまで完全に私の個人的な好みであって、悪しからずこれを聴くとミャスコーフスキィの魅力が分かる! というものではありません(笑)

 すなわち、ミャスコの厄介なところは、1曲ずつをいくら聴いても魅力が分かりづらいところではないだろうか。交響曲群として全体を見通さないと、その面白さは見えてこない。単独ではイマイチ突破に欠ける。スヴェちゃんが全集にこだわった理由もそこらへんにあるように感じるし、そうは云っても逆にやはり27曲というのはあまりに量が多く他の指揮者が手を出さないのもそこらへんなのではないだろうか。

 とにかく、この人のシンフォニーは怪曲。これに尽きる。ミャスコの曲が全部そういう曲ならば、天然だとも思えるが、他のジャンルの曲では普通に順当な出来というか、聴けるものがあるのだから、この人は交響曲をちゃんとわざわざそういうふうに分かりづらく書いている。セリー主義のように外側が奇妙キテレツな曲という意味ではなく、見た目はすごくまともなのに、内容や書法が何を表現したいのか奇々怪々なのである。セオリー通りなのにセオリーが通じない。この人は奇人と言わざるを得ない。

 いや、作曲家など藝術家なのだから、大小にかかわらず人間として変わっている人は多い。ミャスコーフスキィは、作曲家として変わっている。

 最後に、内容的はそうそう変わるものでも無いミャスコの交響曲を、分かりやすく時間的な規模で分けてみた。長いものが好きな人は大規模を、短いのでいいやという人は小規模を。どっちでもない人は中規模を聴いてみると良い。(演奏時間はスヴェトラーノフの全集による)

大規模
約40分以上
1番 3楽章 41:30 中規模
30分少々
11番 3楽章 34:29 小規模
30分以下
7番 2楽章 23:44
2番 3楽章 46:25 12番 3楽章 32:26 10番 1楽章 16:43
3番 2楽章 46:21 14番 5楽章 36:51 13番 1楽章 20:26
4番 3楽章 40:43 15番 4楽章 36:31 18番 3楽章 23:39
5番 4楽章 43:45 22番 1楽章 36:23 19番 4楽章 23:21
6番 4楽章 64:26 23番 3楽章 33:15 20番 3楽章 26:49
8番 4楽章 52:09 25番 3楽章 34:58 21番 1楽章 18:15
9番 4楽章 41:19 27番  3楽章  34:54      
16番 4楽章 46:18            
17番 4楽章 47:45            
24番 3楽章 38:44            
26番 3楽章  42:30             

 こうなると、大規模12曲、中規模8曲、小規模7曲なのが分かる。中には演奏によってはぎりぎりのものもあるので、便宜的な分け方と思っていただきたい。ミャスコさんは数だけではなくその規模までも、セコセコと巨大な交響曲を書き続けたのだが、なにせその恐るべき地味さで、印象には残らない。また1楽章制が4曲、2楽章制が2曲、3楽章制が12曲、4楽章制が8曲、5楽章制が1曲である。

 ナンバーによって、明るいか暗いかで別れるとする人もいるが、私に云わせれば全部暗い。少し暗いか凄く暗いかの違いしかない。また底抜けに明るい曲というのもあるが、それは仮面的で虚無的、完全に事務仕事的な作られた人工的な明るさであって、暗さの裏返しである。この人は、心が明るくない。

 
 PS
 というわけで、我輩がもしオールミャスコプロで演奏会を組むなら、13番、チェロ協奏曲、そして27番でしょうな。





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