一柳 慧(1933− )


 若いときから才能を遺憾なく発揮し(16歳で毎日音楽コンクール作曲室内楽部門入賞! その後も2年連続入賞!!)ジュリアード音楽院でかのジョン・ケージに師事したという一柳。尾高賞を4度も受賞しているすごい人。作品もジャンル的には多岐にわたるが、内容は前衛の中の保守ともいうべきもので、さすがケージの弟子。電子メトロノームのための音楽(1960)などは、素敵にインナートリップでチッチキチーである。

 そんな人が、意外と交響曲を量産していて、興味深い。面白いから全集を作ってほしいのだが。

 目録によると彼の交響曲には(協奏曲や室内楽もだが)副題付が多い。というか、ぜんぶそう。

 交響曲「ベルリン連詩」
 2番「アンダーカレント」
 3番「交信」
 4番「甦る記憶の彼方へ」
 5番「熟成する時間」
 6番「いまから百年のちに」
 7番「イシカワ・パラフレーズ−岩城宏之の追憶に−」
 8番「リヴェレーション2011」
 9番「ディアスポラ」

 これらの交響曲は必ずしも伝統的な形式に則ったものではなく、作者が云うには 「狭義の『交響曲』の形式ではなくもっと本質的な意味で、音の構築の全体として『交響』ということを考えたい」 「形式的に規範的なものではない、別の交響曲の形を提出したい」 とのこと。(特別講義「音楽と空間」一柳慧 より)

 現代作曲家がわざわざ交響曲を作曲する動機としては、順当なものだろう。

 なお伶楽交響曲のシリーズもあるが、聴いたことないのでどのようなものか不明。雅楽のアンサンブルだと思うが……。また室内交響曲も2曲ある。

 2番と3番は、2017年現在、CD音源は無いようである。


交響曲「ベルリン連詩」(1988)

 サントリー音楽財団委嘱。番号付ではないが、最初のオーケストラ交響曲なので1番ということであろう。1988年の作で、既に作曲家は円熟の域に達しており、40分を要する中期を代表する作品。

 2楽章形式だが、第1楽章は序奏の意味もあり、さらに緩急の2部に分かれている。絃楽の無機質ながら茫洋とした事象の地平線みたいな響きの中に、なんともいえぬ緊張感が管楽器や打楽器で示される。ここが緩の部分。緩といっても、木管楽器やピアノの細かいパッセージが、緊張感を与える。

 と、やおら事象の地平線に特異点の穴があき、異世界の侵略の軍団がゾクゾクと出てくるようなアレグロとなる。盛り上がって、ピアノが加わってくると趣を変え、オネゲルっぽくもあるギコギコした旋律が主体となって、こちらも緊張感をさらにいや増す。やたらとドラが鳴る。

 やがて室内楽のような薄い響きとなり、テンポも冒頭に戻り、再びアレグロが爆発して、一気にドラの一撃で1楽章を終える。

 2楽章では大岡信/カリン・キヴス/川崎洋/グントラム・フェスパーという、ドイツと日本の4人の詩がソプラノとテノールで連続して歌われる。
 
 正直、私は詩というのがイマイチ鑑賞のポイントが分からないので、内容は述べない。

 画期的なのは詩の技法をオーケストラにも応用して、詩の余韻や語韻をそのまま響きとしても追いかけている(そうです)ことだろうか。歌自体は、12音というか無調なので、半音でウネウネ進んでゆく旋律がなんともうらぶれた感じが強く、いまとなっては好き嫌いが分かれるだろうか。一柳としては、聴き易い部類なのだろうが(笑)

 間奏曲を経て、灰色の伴奏に歌唱がシュプレッヒシュテンメまでゆく箇所では、なかなか迫力があり、良い。

 特に 「世界的な生化学者の談話─── 」 とテノールが歌う(語る)箇所からの迫りくる音響的緊張は、すさまじい。再び間奏曲となって、松村禎三も真っ青の音響群体がヒタヒタとせまってくる。打楽器を含む執拗を究めたオスティナートの音響的快楽。

 突き刺され、抉られるような頂点を迎えたのち、4人共作による最後の節。ピアノを含めた特徴的な連続するリズムに乗り、ややテンポの速い歌が登場し、またも長いオスティナートの間奏部に。テンポと音響が長い時間をかけて鎮まって行き、一瞬の静寂の次に、すぐさま音楽は息を吹き返す。

 やがてフィナーレは1楽章と2楽章のモティーフが合体する。ハチャトゥリアンの3番みたいなティンパニ連打や、何やらキングギドラの襲来みたいなうねり狂う金管が登場し、一瞬の静寂がきて、重い衝撃で曲を終える。

 一柳のオーケストラ作品の中でも規模の大きなこの交響曲は、作曲家の代表作ばかりでなく、こういう無調形式の音色あるいは音響交響曲というべき音楽の中でも、屈指の規模と内容をもっている。ちゃんと無調で交響曲を書く必然性があり、膨大な音響構築をやってのけている技術的な素晴らしさがある。

 参考までにYouTubuへ音源をアップしました。 第1楽章 第2楽章


第4交響曲「蘇る記憶の彼方へ」(1995)

 大阪センチュリー交響楽団委嘱。

 既に90年代も半ばとなり世紀末を迎えると、時代はかつて吹き荒れた12音主義から脱し、再び抒情的で素直な、歌としての旋律を取り戻していた。しかし、それを守護した伊福部昭別宮貞雄、それを支持し復活の筆頭となった吉松隆の世代の、一柳はちょうど中間に位置している。彼によると、若いときに戦争の体験をしている一柳より少し年長の作曲家たちは、戦前の秩序へ音楽的にも戻ることを良しとせず、戦後の新秩序としてシェーンベルクに端を発しシュトックハウゼンやブーレーズが固めた12音とその理論を、平和への信念と同じく強固な意志を持って受け入れた、とある。それが良かったか悪かったのか、合っていたのか間ちがっていたのか、は私には分からない。ただ、少なくとも一柳は、それはそれで現実として受け止め、戦後50年にあたり平和の記憶として後世へ残す必要性を感じたらしい。

 ここで、リベラル的平和概念と12音的論理が強固に結びついている現象が興味深い。

 18分程の、1楽章制で、3部形式。一柳は意識的に12音技法を(おそらく彼にとって古典として)使用している。

 フレクサトーンのヒヨヒヨという音と共に不協和音が炸裂し、その後、金管により音列を呈示。まさに音列主義の名残といった態がある。70年代ならば当たり前の音楽でも、90年代ではむしろ、逆説的な効果をねらっている。

 テンポが落ちると、木管が音列をなぞる。たくさんの楽器により、短いフレーズが現れては消える。ミュート付トランペットや、チェロにテーマが受け継がれる。まさに音響音楽。

 第3部は不確定性が導入されているらしい。不確定性はきまった音符ではなく、その都度に不確定に定められる音によるから、演奏の度に異なる音楽である。
 
 ここでは、フレーズのパターンを定め、その演奏の順番やタイミングが、奏者にまかされているらしいが、楽譜を見ていないのでよく分からない。見ても分からないと思うが(笑)

 演奏される時間と演奏する箇所である空間が任意に交錯する面白さ。(作者は浸透し合う、と表現している) やがて打楽器の迫力ある豪快な連打も加わり、カオスに没入する。最後はピアノが残り、空間(記憶)の彼方へ消えてゆき、突如として冒頭が回帰しておしまい。

 さすがにただの12音音楽ではなく、全体の構成がの良さが随所に光る音楽だと思う。交響曲というからには、ソナタ形式ではないが全体の物語のような構成は必須であり、うまく出来ている。

 また、一柳とまったく同年の作曲家原博は、無調絶対権力期にあって調性と古典形式を守護した代表的な人であり、対比してみるのも一興か。

 どちらにも通じているのは、その構成力の確かさだろう。


第5交響曲「熟成する時間」(オペラ「モモ」のテーマによる)(1997)

 「モモ」とは、かの「はてしない物語」を書いたドイツのファンタジー作家ミヒャエル・エンデによる彼の最高傑作といわれるファンタジー小説で、少女モモと時間泥棒とのお話。
 
 時間とは1年365日・1日24時間・1時間60分のように人間にとって非常にデジタルなものである反面、例えば樹の育つ時間や、川の流れる時間、さらには大宇宙の運行の時間のように自然にとっては悠久のアナログ的なものでもある、と作者は云う。

 デジタルな時間に支配されて暮らす人間の周囲にはさまざまな大自然的なアナログな時間があり、すべて熟成してゆく運命にある。その摂理を投影できたら……というなんとも抽象的な作曲動機。しかし、一柳のオペラかあ……聴いてみたいような、恐いような(笑) 
 
 2楽章制で、20分程の曲。

 序奏は木管の短い動機により、ピアノソロからやがてソロヴァイオリンがテーマ(?)を奏で、トロンボーンなどにも受け継がれ、次第に高潮してくのだが、不安げな様相は時間を盗まれたモモのストーリーに関係しているのかどうかは分からない。低音とスネアの重苦しいリズムの上で、さまざまな音響が鳴り、リズムも変化し、アレグロとなって、突き進む。蒸気機関車が止まるが如くテンポは落ち着いて、ラストは絶叫で閉められる。

 続く第2楽章は、1楽章との関連性は特になく、同じ時間の概念の発展でもまったく別個の可能性を模索した並列存在のようなものらしい。一転した風の音にのる不確定音楽のようなテーマもまた、スペース音楽というか異次元音楽というか、なんというか……(笑)

 序奏部分では絃楽の吹きすさぶ風と空間を印象づける打楽器の効果の中でまずヴァイオリンがテーマを演奏する。続いて木管がテーマを繰り返し展開する。いろいろな音が絡んできて、その中に絃のテーマが滲み出るように浮かんでくる不気味さ。打楽器も続けて鳴り渡り、金管が高らかに時間の摂理を宣言すると、唐突にそれは消え失せ、新たな概念が呈示される。しかしそれは元に戻っただけなのかもしれない。

 さて、一柳の云う時間と宇宙と大自然の摂理が果してここから聴き取れるか……?


第6交響曲「いまから百年のちに」(2001)

 ソプラノ独唱付。人声を使った交響曲ではベルリン連詩以来だそうで。タゴールというインド人で、アジア初のノーベル文学賞作家がおり、その人の詩が、森本達雄の訳で日本語で歌われる。1楽章制。17分ほど。

 タゴールは思想家でもあり、詩の他に戯曲、絵画、音楽、なんでも才能を発揮した超人でもある。しかし、およそ詩の価値がさっぱりわからない我輩にはただのあやしいインド人。詳細はここ http://india.hamacco.net/tagore/poem.html がくわしい。今交響曲の歌詞も載っている。その時空を超越したようなスケールや価値観が、人々の心をとらえるのでしょう。(詩のタイトル自体は 「百年後(のち)」だけ)

 序奏から緊張感にあふれ、夢や希望といった雰囲気からは遠い。神秘的ではあるが、これで曲のイメージが一発で決定される。ピアノへヴィブラフォンが音を重ねて、いやがうえでも幻想的な装飾を奏でる。歌のテーマがファゴットからトロンボーンへ受け継がれ、重々しく響くのも面白い。乾いた大地や波紋のような響きで、序奏は5分ほど続き、ヴァイオリンのソロで締める。いや、これは歌の導入だろうか。

 すぐに登場するソプラノは無調というか強烈な半音進行で、「いまから──〜」 と歌い出す。

 あとは延々とウネウネしながら歌が進む。これでエッチな和音でもつけばワーグナーっぽくもなるが、残存ながらつかないのでならない。しかしやたらと官能的かつドライな雰囲気が面白い。単なる歌曲の伴奏ではなく、オーケストラもいっしょになって音楽世界を構築するので、交響曲といえるのだと思われる。

 「それでも ひととき───」 からテンポが上がり、アレグロとなる。歌というよりまさにシュプレッヒシュティンメ。ここは、オーケストラもバリバリ現代調でなかなか激しい。

 この世の終わりのように、ひとしきり盛り上がってから 「その日 生命たぎらせ───」 からテンポが戻る。しかし最後の節に再びテンポが上がり、興奮気味に再びシュプレッヒシュテンメっぽくなって、カオス。たたみ込むように唐突に終わる。

 この緊張感やドラマティックさと詩の内容が果して合致しているかどうかというのは、判断の分かれるところだろうと思う。いや、合致する必要も無いのかもしれないが。

 タゴールのファンがこの曲を聴いてどう思うか、そっちのほうが興味ある。音楽としては、非常に面白いものになっている。ダラダラと長すぎないのもいい。


第7交響曲「イシカワ・パラフレーズ−岩城宏之の追憶に−」(2007)

 オーケストラ・アンサンブル金沢委嘱。14分ほどの音楽で1楽章もの。石川県を含む北陸地方の民謡が「バラフレーズされている」(作曲者談)

 1楽章ものだが、緩急緩急の4つに分かれている。

 ドラの一打、 ゴーン… より、無調っぽく重苦しい絃楽が歌い、ホルンやフルートの記号のような管楽器が掛け合いを演ずる。その中より、いかにも無調だが、良く聴くと民謡のフレーズをミュート付トロンボーンに導かれたクラリネットが(尺八のように)奏でだす。これは、なかなか無常で面白い。フルートがそれを受け取ると、さらに無常観は増す。最終的にはヴァイオリンの非常に厳しいソロがそれを受け継ぐ。

 テンポが上がって、これも奇妙な民謡の変形がアレグロで示される。これは楽しい。まさか一柳からこのような、一見コミカルな響きが生まれ出でようとは。私はあまり聴かないので分からないが、彼の室内楽には、こういった音形は既にあったのだろうか?

 すくにアダージョへ戻り、ミュート付のペットがジャジーでモダンな民謡変形旋律を奏で、打楽器もそれっぽくいかにも民族的な彩りを与える。フルートも相変わらず民謡音階。

 最後は絃の短い動機によるオスティナートより、各楽器がそれを模倣し、次第に激しくなる。ラストは展覧会の絵のパロディ?? またアレグロが一瞬だけ回帰して、終結する。

 ふだんバリバリの前衛の人が急に民族派になると、こんなんになっちゃうんだなあ(笑) という感じ。湯浅譲二の内触覚的宇宙Vもそうだった。

 シンプルで純粋に面白い。OEKの編成に合わせ、室内交響曲といっても良い。内容としては、こんなの一柳じゃない、という人もいるかもしれないが。


第8交響曲「リヴェレーション2011」(室内オーケストラ版)(2011)

 「室内オーケストラ版」であり、もっと規模の大きな編成の通常オーケストラ版(2012)も存在する。

 6番にはその萌芽が見られ、7番で急に調性に傾いた一柳だが、これも半分くらいは調性といってもいいだろう。前衛無調から調性に変質した人では、高名なところでかのペンデレツキや、日本の作曲家では水野修孝や三枝成彰がいる。

 一柳はそこまで極端ではないが、作曲当時齢80に近くなり、どういう境地に達していたのか興味深い。

 作曲年から察することができるように、東日本大震災に関連して作曲された。一種の鎮魂交響曲である。30分ほどの単一楽章制で、6番からその形式は続いている。だが、内容が4つに別れており、7番は緩急緩急だったが、こちらも緩急緩急で、アダージョ、プレスト、レント、アレグロとさらに古典的な様相を呈している。それは擬古典的な形式で、必ずしも古典的なそれではない。模しているというではなく、やはり擬似的なものだと思う。作者によると、それぞれの箇所には、予兆、無常、祈り、再生というタイトルが冠されている。これらはアタッカで演奏されるが、少し間を空けても良い。

 予兆のアダージョ部は管楽器の不気味な、ある種刺々しい音響から曲が初まり、やがて打楽器が入ってくる。えらく緊張感がある部分で、絃楽のテーマも重い。これから日本を襲う悲劇を予兆している。響き自体は完全に調性メインで、映画音楽のよう。響きと緊張感は次第に折り重なって、静かさの中に線となって浮かんでは消えてゆく。後半部にヴァイオリンソロがあるが、ここは厳しい無調。その後、次の部を想起させるテーマを管楽が奏でる。ピアノも加わる。

 無常のプレストは、冒頭に絃楽器も伴奏に加わるが、全体は管楽アンサンブルに近く、木管の執拗なオスティナートの伴奏に金管の高音と低音のテーマに重々しい打楽器が重なって、現代の優れた吹奏楽作品のよう。中間部でテンポを落とし、ここはおそらくトリオだろう。絃楽器がフルートの悲歌を導く。すぐにプレストに戻り、オスティナートが緊迫感ある情景を生む。トロンボーンによって示されるのは、怒りの日の変形である。テンポが再びレントとなり、ティンパニの連打、そしてフルートの厳しい高音をもって、祈りへ。

 レクイエムである、祈りのレント部。絃楽の序奏。その後、鐘を伴ってホルンが長い鎮魂のソロを吹く。フルートやピアノも重なり、トランペットもテーマを鳴らす。シンバルも印象的だ。怒りの日の変容がレクイエム動機となっている。孤独なピアノソロ。寂しく鳴り渡る鐘は、鎮魂の弔鐘。

 最後の部分、再生のアレグロは、打楽器の鼓動に暗くファゴットがテーマを演奏して始まる。オスティナートを重ねてゆくうち、音はだんだんと長いクレッシェンドで大きくなり、テーマを演奏する楽器も積み重なってゆく。金管や打楽器も次々に加わり、カオスとなって、その頂点でテンポダウン、プレスト主題が再現され、冒頭の調子に戻った瞬間、一瞬の一打で終結する。生命の再生とは、無限の増殖につながる。

 30分とは、けっこうな長さの交響曲で、中規模の古典交響曲とまったく同じ規模。全体に擬古典的だが形式は自由なもので、大きな狂詩曲ふうの構造といえるか。ちょっと松村禎三を思わせる響きも面白い。共通するのは、増殖という概念なのだろう。


第8交響曲「リヴェレーション2011」(オーケストラ版)(2012)

 室内オーケストラ版に続き、通常オーケストラ版も製作、初演されている。

 1楽章制で、4つの部分に別れている。同じく、それらはアタッカで演奏されるが、少し間を空けても良い。

 1.予兆
 2.無常
 3.祈り
 4.再生

 曲の内容は、とうぜん室内オーケストラ版と同じだが、改めて聴き直してみる。音の厚みが、どのように曲の性格へ変化をつけているのか。

 1楽章・予兆、冒頭から、管楽器のアダージョに、絃楽器が厚くからんでいる。主音がHとFで作られ、これは広島と福島、原爆と原発に通じるのだそうだ。この絃楽器のせいで、室内オーケストラ版のような刺々しさは弛んでいるように感じる。その反面、音の世界観は広がっている。ボーン……という銅鑼の諸行無常感。暗黒の川の流れ。その暗黒は、生命を呑みこむ波となって沿岸へ押し寄せた。ヴァイオリンソロも、室内オーケストラ版とは立ち位置が異なり、完全な無伴奏ソロではなく、若干の伴奏が入る。そのためか、音響の豊かさが優先され、あまりギスギスした厳しさは感じない。

 2楽章・無常においても、管楽アンサンブルのようだった室内オーケストラ版とは異なり、全体に絃楽器も厚く加わって、趣が異なる。怒りの日の変容であるトロンボーンのテーマは、本数が増えているためか、まるでベルリオーズめいて豪快に響きわたる。打楽器も増えており、オーケストラサウンドが心地よい。中間部のトリオ・レントにあって、チェロのソロが、フルートの悲歌を導く。すぐにプレストへ戻る。またフルートやクラリネットなどに悲歌が現れ、1楽章のテーマを再現して祈りへ向かう。

 3楽章・祈り、レクイエムであるレント。絃楽器の静かな祈りから始まる。弔鐘が鳴り、ホルンのソロにはヴァイオリンがそっと寄りそう。ピアノが水のテーマとなって鳴る。怒りの日の動機は優しさに変容され、ひっそりと祈りを捧げる。銅鑼は冥府への導きか。

 4楽章・再生、心臓の鼓動めいたバスドラの連打より、生命の再生が始まる。主に絃楽器が、オスティナートでテーマを奏でる。管楽器はそれを彩る。音響がどんどんクレッシェンドしていって、この迫力は室内オーケストラ版には流石にない。そうなるとカオス度も増す。その頂点で崩壊し、無常主題に戻る。巨大なカオスのウネリが生じて、一気に終結する。

 聴き比べると、室内オーケストラ版のほうがエキスが凝縮しているのはあたり前として、同じテーマが意外と同じ楽器に移っておらず、オーケストレーションの違いも面白い。


第9交響曲「ディアスポラ」(2014)

 「ディアスポラ」とは、「まき散らされたもの」を意味するギリシャ語由来の言葉で、離散した民族や人々の事を差し、特に古くは世界中に離散したユダヤ人を差す。一柳はこの言葉を、原発事故により福島から避難している人たちを意味するとしている。

 従って、8番と同じく、これは東日本大震災関連の交響曲といえる。4楽章制、演奏時間は約35分だが、8番のように各楽章に副題は無く、テンポのしていのみがなされている。

 1楽章は最も規模の短いもの。8番と同じく、予兆めいて大地の底から唸り声、呻き声が響いてくる。ソロクラリネットが、緊迫感を助長する。一柳のこれまでの作風を考えると、完全に調性といえる。不気味な和音を維持して、静かに進行する。緊張感が頂点を迎えると、アタッカで2楽章へ。

 2楽章の冒頭はまるでベルリン連詩を想起させるティンパニのグリッサンドより始まる。これが、上はF(ファ)、下はH(シ)までの間をうねり、それは福島と広島を現しているそうなので、これも8番に通じる。それから、なんと「戦闘のテーマ」が登場する。銅鑼がバンバン鳴り、まるで爆撃かゴジラか。低音が響きわたり、ティンパニや鐘も連打される。粗野で粗暴なアレグロが続き、中間部ではテンポがおさまる。静寂の中で水音のようなポツンポツンとした響きがあり、やがてそれも、ティンパニのグリッサンドから復活した戦闘のテーマに押しつぶされる。バスドラが砲撃めいて轟いて、戦闘のテーマはけばけばしい不協和音と共に終結する。どうも、負けたらしい。

 3楽章、レクイエムの緩徐楽章となる。2楽章での「破局」を受け、ここでは、明確な12音列ではない、12音列風の12の音によるテーマが、様々に変奏されて行く形をとる。作曲をやる方へは釈迦にナントヤラだが、正確な12音は音列の逆展開だ、反転だと、ルールがうるさい。そうではなく、単純に12音を使って作った主題を自由に展開させているという意味だと思われる。そのためか、和声も自由に調性っぽい。主題を繰り返すという意味では、オスティナートにも通じる。打楽器なども加わって、音色へ変化をあたえている。じわじわと主題は執拗に繰り返され、オーケストラ全体でクレッシェンドして行く。怒りの日や、2楽章の戦闘のテーマも変奏される。やがて頂点を迎えて音響は解放される。

 4楽章では、再び激しいアレグロとなる。様々なリズムや音形のパターンが、何種類も入れ代わりに繰り返される。ポスト・モダニズムの象徴なのではないかとCDのライナーにあった。完全に調性で、3楽章が12音列風の60〜70年代のモダニズムの体現だとすると、これは80年代よりの調性の復活になる。まるで伊福部昭のリトミカ・オスティナータをさらに複雑にしたようなテクスチュア。いや、これはメシアンか。3楽章と同じ形式で、全体にクレッシェンドしつつ、ミニマルめいてリズムパターンは様々に絡み合いながら膨張して、快楽的なカオスのまま、頂点でいったん消える。が、すぐに戦闘のテーマが復活! 激しいティンパニの打撃を伴って、不安のまま終結する。




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