ラッブラ(1901−1986)


  ノーサンプトンの生まれ。14歳で就職し、いったん鉄道員となるも、奨学金を得て作曲家で詩人のシリル・スコットへ私的に師事。その後王立音楽学校へ進学して、ホルストRVW等に師事したという、苦学人である。
 
 ホルストの影響で異教の神秘学へ傾倒しつつ、1948年にイギリス国教会よりローマカトリックに改宗しているのがミソ。教会旋法を基本に作曲した書法は、イギリス流のまったりとした音楽に個性を与えている。ローマカトリックの正式な音楽審問官も務めたという。
 
 本サイト的には、交響曲が11曲(ピアノとオーケストラのための協奏風交響曲も含めれば12曲)もある。同じくイギリスマイナー交響曲作家仲間のバックスのような一貫性はなく、特に後半へゆくと長さも規模もまちまちで、面白い。


第1交響曲(1937)

 記念すべきラッブラ初めての交響曲は、3楽章制で、演奏時間は約35分ていど。第3楽章がレントで、最もヴォリュームがある構成になっている。

 1楽章はアレグロ・モデラート・エ テンペストーゾという、嵐のように情熱的な、荒々しいアレグロ・モデラート。不協和音もまじりつつ、激しい冒頭。テンポはモデラートなので、それほど速くない。ポリリズムっぽい複雑なリズム、旋律の重なりあいと、独特の音調が面白い。ミュートトランペットの旋律が第2主題だろうか? ぞわぞわした基本のリズムは変化無し。その後は冒頭部を主に展開しながら、第2主題も混じってくる。あまり大胆な展開はなく、淡々と進む印象。悲歌のような旋律も混じってくる。そのまま静かになって行き、消えて終わる。

 2楽章「ペリゲルディンヌ(ペリゴルディーヌ)」は、陽気で牧歌的なアレグロとあるので、スケルツォ相当楽章だろう。ちなみに副題めいた Perigourdine は音楽用語に無く、フランスの都市ペリゴーに由来する「ペリゴール風」という意味のフランス語で、フランス料理のソースにもその名があるが、どうもフランス風の舞踊曲のように、ということのよう。具体的にペリゴー地方の伝統舞踊曲を使用しているのかどうかは、分からない。

 演奏時間としてはもっとも短く、5分ほど。その通り、牧歌的な木管楽器の音色と旋律を、ウキウキしたリズムが支える。だんだん楽器が増えてゆき、音響が厚くなる。が、基本的な音楽に変化は無い。飛び跳ねる踊りが、陽気に進み、テンポも上がって気分は高揚し、やがてホルンやトロンボーンなどの吹奏が始まって教会音楽っぽくなって、素朴な舞踊と崇高な祈りが入り交じりつつ、頂点を迎えてそのままストンと終結する。

 3楽章はレントで、もっとも規模が大きく、ほぼ全体の2/3ほどを占め、20分ほどにもなる。

 弱音で祈りの主題が細々と歌われ、オーケストラのいろいろな楽器に引き継がれて行く。その主題に低音の動きやリズミックな処理が重なって厚くなり、音調はどんどん緊迫して行く。やがて行進曲調になって、祈りというより雄々しく壮大な部分へ。それがそのまま盛り上がると思いきや、絃楽の悲歌へ移行する。木管のソロも異国調になったり、そこからまたオリエンタル風な短調の展開になったりと、意外に展開に幅があって面白い。アンダンテほどで金管も輝かしくまた盛り上がるが、じわじわと進軍する部分へ。ティンパニも鳴る重厚なマーチは、英国流でカッコイイ。そして冒頭へ戻って、静かな祈りへ。そしていよいよ長いレントは終盤へ。何度か現れている、金管の甲高い祈りのテーマが鳴り渡って、そこからオーケストラ全体が鳴り響く豪快なフィナーレへ向かう。

 ヒトラーが政権をとったあたりの作曲なので、この重苦しい雰囲気は世相か。


第2交響曲(1937/50)

 シャンドスの作品集の解説によると、1番と同じく1937年に完成した2番は、その後、1950年に改訂されたようである。

 4楽章制だが、演奏時間は1番と変わらず35分ほど。各楽章もオーソドックスなもので、より新古典的な外観を持っている。

 1楽章はレント・ルバート。自由にテンポが動くレント。絃楽器により、悲痛な旋律が登場する。管楽器がそれを引き継ぎつつ支えて、主テーマを展開する。金管がそのテーマを奏で始めると、重厚さと緊迫が増す。速度も上がってアレグロっぽくもなるも、すぐにレントへ戻る。第2主題めいて、次の悲歌が現れる。その第2の悲歌が展開され盛り上がったところで冒頭のテーマが再現される。すぐに第2主題も再現され、大きく盛り上がってコーダへ突入。金管が教会音楽めいたファンファーレを奏でるかと思いきや、絃楽の悲歌が優先されるのだった。オーボエが全ての哀しみを受け止めるように演奏しつつ、アタッカで次の楽章へ。

 2楽章、スケルツォ:ヴィヴァーチェ・アッサイ。非常にヴィヴァーチェということで、金管主体のパッセージと、スケルツォ主題が交互に入り交じる。楽想は細やかに変化し、次から次へ新しく音調となる。その中で、金管のかっこよいフレーズが浮かび上がる様子は、いかにもイギリスの作曲家だなあ、と感じる。後半は数種類のフレーズが複雑に重なり合って、カオスのようになるが、しっかりと構成は整えられているあたりが手堅い。そのまま、コーダ無く終結する。

 3楽章はアダージョ・トランクィロ。穏やかなアダージョ。1楽章に比べてテンポが遅く、悲歌というよりやはり祈り。前半は室内楽的な編成で、切々と主題を紡いでゆく。音量も乏しく、ささやき鳴いているかのような侘しい雰囲気がたまらない。中盤ほどより、楽器が増えて行き、後半は重厚な祈りというか、やっぱりというか、進軍調になる。ローマの松かよ! しかも、スカッと終わらない。冒頭へ戻って、霧の中へ消える。
 
 そして4楽章、ロンド。アレグレット・アマービレ〜コーダ:プレスト。アマービレとは、愛らしい、愛嬌のあるという発想記号。弱音の冒頭から明るく陽気な……だがどこかに陰のある旋律が次々と沸き上がってきて、ロンドで何度も反復される。コーダで速度が増してプレストとなって、そのまでの主題が総動員され、ラストは大きくコラールふうに盛り上がるが、不協和音バリバリなので時代への不安感はいや増す。

 全体に地味。そしてやはり、暗澹とした風情は、時代を反映させているように感じる。


第3交響曲(1939)

 この交響曲も4楽章制で、演奏時間は約35分。新古典的な外観をしている。

 1楽章はモデラート。穏やかな調子で、序奏めいてしっとりと音楽は始まる。ピチカートの上で、主要主題が各楽器に流れてゆく。主題が展開して、金管やティンパニが入ってくると緊迫感が増す。が、途中で(と、私には聴こえる)スパッと次の主題に移る手法が、ラッブラ。それも展開して盛り上がるが、流れを壊すほどではなく、その流れの延長に頂点が来る。ティンパニの鋭い合いの手と、旋法によると思われる金管のくすんだ燻銀の輝き。ラッブラだ。盛り上がるが、スカッとしない手法に、爽快感は無い。コーダではやはり悲歌が現れ、祈りを捧げる。明確な終結がないのもラッブラだ。ふい、と終わって次の楽章へ。

 2楽章はアレグロ。素朴で牧歌的な旋律が木管で提示され、絃楽へ移る。それがすぐ素朴でなくなり、緊張感を持って展開される。そのまま、グロテスクに音調は発展して、2番のスケルツォにも似て複雑な音響の入りまじりとなる。しかし、その根底にある主要主題は、最後まで変化は無い。

 3楽章はモルト・アダージョ・マ リベラメンテ。リベラメンテとは、自由な、という発想記号。チャイコフスキーかというメランコリックな主題が現れるが、ロシア風に重苦しくウェットなのではなく、どこか乾いてニヒルなのが英国流か。2楽章の主題の派生にも聴こえる。どこか遠くから流れてくるような、霧の向こうから響いてくるようなニュアンスがこの作曲家の個性となるだろう。半音進行の不気味な調子。ピチカートの下支え。そのテーマがじわじわと金管に引き継がれて、広がってゆく。けっこう不気味で良い。最後に少しだけ、光が差す。

 4楽章はテーマと7つの変奏と1つのフーガ、となっている。ここで、やっと明るい響きがする。テーマが朗らか、かつしっとりと提示される。が、変奏が始まると、やっぱり不気味に暗くなる。重苦しい進軍調も、ラッブラの特徴になるだろう。ゆったりと変奏は進み、第2変奏ではテンポが変わって陽気な踊り。第3変奏では穏やかで爽やかな回想のようなニュアンスを放つ。第4変奏は再び踊りが始まるが、よりケルトっぽい。ここは、ホルスト仕込みの異国趣味だろう。第5変奏はその派生だが雰囲気が変わって緊張感がある。第6変奏、瞑想的な雰囲気となって、弱音の中にひっそりと曲想は沈む。第7変奏はそれがやや盛り上がる感じ。最後にフーガ。高音絃楽から始まって、低絃、ホルン、各種管楽器へとフーガが続く。やがて全ての楽器が渾然となって音楽はコーダへ向かい、ようやく明確な終結を迎える。

 やっぱり地味かなあ。いや、地味の一言では片づかない響きは持っているのだが、スコーンと突破しない系の交響曲。


第4交響曲(1942)

 戦前最後の交響曲の4番は、3楽章制で演奏時間はやや短く30分ほどだが、第3楽章が2つに別れているので、4楽章制といってもよいだろう。

 1楽章はコン・モルト。(動きをつけて) オスティナートな伴奏の上を、これも執拗に絃楽の哀しげな旋律が流れゆく。どうしても哀しい。この人の場合、哀しみは疾走しない。じわじわと哀しむ。絃楽器からオーボエへ旋律が移り、展開されてゆく。主旋律と対位法的にからむ副旋律も現れ、一定のテンポを進軍調に刻みながら、音楽は次第に発展してゆく。チューバの動きの中に金管の激しいパッセージが乱れ飛ぶ部分を経て、音調はゆったりと水平線を見るがごとき平穏をとりもどす。主要主題は変わらず鳴り続ける。ソナタ形式ではない、独自の展開を持っている。ゆるやかなドビュッシーという感じも浮かんだが、音楽はまったくドビュッシーとは異なり、もっと単調に、ひたひたと進む。

 2楽章はインテルメッツォ:アレグレット・グラシオーソ。(面白いアレグレット、か?) ゆったりとして、ゆらめくような流麗な旋律が、三拍子で現れる。やはりというか、旋律自体は明るいものではない。ラッブラの手法で、ここもじっくりと展開して行き、急激な変化はない。演奏時間も短く、まさに間奏曲。ゆったりとしたまま、後半はややテンポが上がるが、やがて戻って、消え入って終わる。

 3楽章は二つの部分に別れ、最初がイントロダツィオーネ:グラーヴェ・エ モルト・カルモ(イントロダクション、重々しく、穏やかに)、次がアレグロ・マエストーゾ(堂々としたアレグロ)となる。

 グラーヴェの、まさに地下墳墓でも訪れたような、重苦しい静謐な祈り。通奏低音の上に、しっとりと、そして切々と訴えかけ、それが金管が加わるとさらに切迫感のある祈りとなる。も、最後は、静かな祈りへ戻る。
 
 続いてアレグロ。祈り主題の派生なのか、崇高だが金管で雄々しく、かつ堂々と進軍する、いつものラッブラアレグロ。音調は一本調子にだんだん派手になってゆくが、一線は超えない。はしたくない。上品であり、かつ陰のある響きがする。しかし、コーダの近くで、朗々たる讃歌となる。珍しく、壮大なフィナーレが聴ける。

 響きの地味さは変わらずあるものの、構成に面白みがある。エルガーウォルトンに比べると、地味というより、「派手ではない」というか。 


第5交響曲(1948)

 5番も、新古典的な楽章構成で、4楽章制、演奏時間は約25分。やや、規模が小さいか。戦後に完成した、初めての交響曲ということになる。

 1楽章はアダージョ〜アレグロ・エネルジーコと景気が良い。映画音楽のようなオープニング。重いアダージョより5番は始まり、ラッブラらしい清々しい祈りの主題が現れる。戦争が終わった明るさから来るものか、これまでのものより、段違いに清らかだ。アダージョはしばし展開して、盛り上がってゆく。

 そこからテーマを引き継ぎながら、アレグロへ突入する。楽章全体の1/3がしっかりとアダージョを聴かせる。短いソナタ形式で第1第2両主題を提示して、アレグロは一気に展開部へ進む。ラッブラらしい流麗で優美な主題展開。派手さは無いが、じっくりと響くラッブラ流のオーケストラが心地よい。だが、あっさりとそのまま、再現部もなく終わってしまうのだった。

 2楽章、アレグロ・モデラートで、スケルツォ楽章の代わりとなっている。イギリスの田舎の田園地帯で、ウサギたちが垣根の側でのんびりと遊んでいる。そんな音楽は、きっとこういう音楽なのだろう。ラッブラらしく、オスティナートにも似て、ささやかな喜びに満ちた素朴な主題を、執拗に繰り返してゆく。少しずつ、変化してゆくが、明確な三部形式とか、そういうのではない。結局、主題はほとんどそのままへ次の楽章へ。

 3楽章はグラーヴェ。緩徐楽章となる。大戦の犠牲者への祈りのような、真摯な旋律が、切々と紡がれてゆく。第2の主題はオーボエに現れ、消え入るようなすすり泣き。ティンパニの慟哭太鼓連打などが噴火して頂点を築き、4楽章へ。

 アタッカで4楽章、アレグロ・ヴィーヴォ。グラーヴェを引き継ぎつつ、ラッブラ節の複雑な音響が炸裂。主題をじわじわと料理してゆく。合いの手も次々に投入され、盛り上げてゆく。金管楽器のかっこいい二重奏。冒頭に戻って、再現部ではグラーヴェも現れる。その祈りのまま、終結する。

 心境の変化があったものか、これまでとはやや印象の異なる出来合い。


第6交響曲(1954)

 6番は5番よりやや間が空いて、1954年に完成した。4楽章制で、演奏時間は30分少々と、規模が1−4番までに戻っている。

 1楽章、レント(センプレ・フレッシビレ)〜アレグレット。Sempre flessibile とは、引き続き流れるように、とでもいう発想記号。爽やかなハープの音色に導かれて、穏やかで麗らかな主題が現れる。すくに6/8拍子のアレグレットとなり、陽気なダンス。そのテーマを順次展開して、レント主題も中間部に現れる。すると、レントを含めて大きなソナタ形式か。再びアレグレットに戻って、しばらく舞曲は続く。レント主題と交互に展開して、最後はレントのまま、しっとりとして終わる。

 2楽章はチャント:ラルゴ・エ セレーノ。こちらは、穏やかなラルゴ、というでもいうべき発想記号が付与されている。クラリネットを筆頭に木管が哀しみに満ちているような、穏やかでありつつ孤独な旋律を奏でてゆく。これは英国独特の、なんともいえない孤独だ。孤独は不安となり、不安は猜疑となる。猜疑の慟哭が鳴り響くも、再び孤独なラルゴへ戻る。猜疑は孤独へ戻るのだ。木管の独白のまま、3楽章へ。

 3楽章ヴィヴァーチェ・インペトゥオーソ。猛烈なヴィヴァーチェ。うって変わって、オーケストラ全体が蠢く。嘆きの慟哭が、どこまでも轟く。複雑にからむ金管と、歌う絃楽、入れ代わって入ってくる木管。なかなか面白い響きだ。ヴィブラフォーンのような硬質な装飾音符も目立つ。後半に到って落ち着いて、晴れ間がのぞく。鳥の歌が木管により聴こえてきて、嵐は去る。

 4楽章はポコ・アンダンテ〜アレグロ・モデラート。木管の囁きから続いて、アンダンテで、落ち着いた流れにしばし酔う。絃楽による派生テーマの演奏。楽章の半分ほどまでゆったりとした音調で進行し、後半は速度が上がって明るく推移して、コラールのように響きつつ、次第に盛り上がってゆき、平和の内に終わる。

 5、6番は中休み的な、落ち着いた響きを模索した印象がする。


第7交響曲(1957)

 7番と8番は、3楽章制になっている。7番は演奏時間約35分。楽章の数で割ると、1つの楽章の規模がこれまでよりやや大きい。

 1楽章はレント・エ モルト・エスプレッシーヴォ。とても表情をこめたレントで。ホルンのレント主題が神秘的な伴奏によってゆっくりと現れる。この主題も、どこか妖精の国へ誘いこむような妖しさがある。フルートなどもゆっくりと絡んできて、絃楽器により主テーマが奏でられるとテンポに動きが出てくる。個人的には、楽想やその展開も5、6番よりぐっと良い。ティンパニの連打をきっかけに響きはやや明るくなり、低絃からの派生テーマもあってドラマティックに推移。高音のテーマと低音のテーマがねっとりとからみあって、なかなか聴かせる展開となる。そのまま、明るめのテーマの番になって、静かに終結を迎える。

 2楽章はヴィヴァーチェ・エ レジェーロ。こちらは、軽くて優雅なヴィヴァーチェ。ラッブラ得意の田舎の民謡ふうながら、ちっとも雅びではなくて、ちょっと粗野な印象。ブルックナーの手法に近いか。中間部よりテンポが上がって、せわしなくなってくる。珍しくスネアドラムなんかも鳴って、そうなると諧謔的な趣も出てくるわけで、ショスタコーヴィチにも近い書法となるが、とうぜんそこまで鋭くはなく、あくまでイギリス音楽の範疇にあるのがうれしい。このオーケストラの鳴らし方は、師であるホルストやヴォーンウィリアムズっぽく聴こえる人もいるだろう。後半ではやおらブルースのような響きとなり、全てのテーマが発展して爆発する怒濤のコーダへ突入して、終結となる。

 3楽章はパッサカリアとフーガ:レント。最後は、クラシックによくあるパッサカリアとフーガ。交響曲の終楽章にパッサカリアというのは、ブラームス4番の偉大な先例があるが、意外にパッサカリアというのがどういう音楽なのかは、ぴんと来ない。古い形式の変奏曲のようなものであるが、それを現代に行うのが、ミソだろう。レント楽章で、ゆっくりと主題が展開されてゆく。通奏の低音部の上に、絃楽器で悲痛な訴えがしみじみと、そして切々と続く。金管にも主題は引き継がれて、1楽章にも現れるティンパニの慟哭も現れる。たっぷりと悲歌は歌い継がれて、いよいよクライマックスを迎えると、ティンパニと金管が爆発して、素晴らしく感情を吐露する。フルートがその余韻を奏でて、そこからフーガに……入っている気がする。レントのフーガというのは、正直、初めて聴いた。ふつう、アレグロなので。何重にも連なるテーマが深刻に流れながらも、それが気がつくと終わっている。ラッブラ流の、終結の無い終結……。


第8交響曲「テイヤール・ド・シャルタンの追憶に」(1968)

 ピエール・テイヤール・ド・シャルタン(1881−1955)は、イエズス会の司祭にして古生物学者、地質学者、カトリック思想家で、北京原人の発見者、とのことである。作曲者とド・シャルタンにどのような関係があるのかは、分からない。

 7番より規模が小さく、演奏時間は25分程で、10分も短い。

 1楽章はモデラート。上質な映画音楽めいた、不思議な始まり方。その後の展開も、自由形式っぽく、狂詩曲のように進んで、楽想はこれまでのラッブラの交響曲とは明らかに異質な響きを紡いでゆく。しかし、妙なリズムを刻むティンパニは健在。後半ではアレグロとなって、絃楽が気忙しい主題を提示し、それを受けて小展開したの後、シンバルの一発からまたテンポはモデラートとなる。結尾部では讃歌のように主題が解放されて、かっこよく、大きく広がりを見せる。も、それが途中で終わって、そのまま妙にしぼんで終結部無しで終わるという……ラッブラさん……。
 
 2楽章はアレグロ・コン・ブリオ。スケルツォというでも無く、同じ主題が延々と続いて変奏というか展開されてゆく。これも、ラッブラの流儀の1つだろう。無骨な舞曲のようで、都会的な諧謔もある。後期マーラーのようなオーケストレーションも目立つ。細かく、主題と主題の合間にトリオの役割をする楽想も差しこまれる。したがって、かなり音響としては複雑なもので、打楽器や金管楽器も容赦なく主題に割って入ってきて、終結和音が伸ばされて終わる。

 3楽章はポコ・レントと、発想表記もシンプルだ。絃楽やフルートによって跳躍の激しい抽象的な主テーマが奏されて、ひっそりと展開する。この楽章も主テーマを色々な楽器でたっぷりと繰り返し、少しずつ形を変えてゆく。そしてここでも、突如としてティンパニと低絃のリズムが進軍をはじめ、重苦しい響きが支配する。ラッブラは、こういうのほんとに好きだな。ま、しつこく続かずに、さっと終わるのも、よくも悪くも常識人であって、ショスタコのような狂気の世界に踏みこまない。そこからコーダへ入って、しみじみとした響きが、この追憶の交響曲の終わりを告げる。


第9交響曲「神聖な交響曲 “復活”」(1972)

 シンフォニア・サクラ(Sinfonia Sacra 神聖な交響曲)というと、おそらくパヌフニクの3番交響曲「シンフォニア・サクラ」のほうが、日本では演奏される機会があるのではないだろうか。

 こちらは、完全なオラトリオ作品で、復活というのは聖書のイエスの復活の部分を取り扱っているから、のようだ。合唱とナーレション(朗読ではない)によるアタッカで、45分ほどの演奏時間になる。これは、ラッブラの交響曲では最大規模。

 ゆったりとした序奏(プレリュード)から、交響曲第9番すなわちラッブラの「第九」は始まる。バリトンのソロと女声合唱で神秘的、かつやや土俗的に歌われる。これはマタイ受難曲と同じ歌詞だそうで、イエスの復活を歌う交響曲ということを冒頭より提示する。したがって、歌詞は新約聖書の一節、ということになる。既に記した通りこれは完全にオラトリオなのだが、ラッブラが無駄な部分を削ぎ落として、自らの第九として完成させた。ラッブラ交響曲の中の白眉と云えるだろう。

 非常にゆっくりと音楽は進み、教会音楽を修めたラッブラらしい荘厳な響きと共に、合唱からコラールへと続く。続いて、ナレーションになるが、ちゃんとソプラノ独唱で旋律を歌っている。これはつまり、バッハで云うエヴァンゲリストなのだろう。ここが長い。トラックで2つに別れているが、合わせて17分ほどもある。

 切々と、そして淡々と、イエスの最後の場面を歌う。音楽も、最低限の響きでそれを支える。ドラマティックなわけでもなく、とてもドライな音楽進行。ここはちょっと聖書に詳しくない人は、ツライ場面だろう。

 それが終わると、また合唱が現れる。後半部はこれぞイギリス音楽というアカペラ合唱で、いかにも美しい。これは16世紀の教会音楽家ハンス・レオ・ハスラー作曲にる旋律で、マタイ受難曲にも引用されているもの。賛美歌にもなっているというので、クリスチャンにとっては、涙ものの旋律だろう。

 次のナレーションは、本当にナレーションで、短い朗読。そこから今交響曲のクライマックス。まずはカンバセーション・ピースとつけられている、器楽のみの間奏的部分。バリトンとソプラノによるナレーション独唱が続いて、いよいよイエス昇天の場面。

 ハレルヤが歌われ、なんとも味のある和音で、ゆったりと魂が天へ昇ってゆく。美しく光が差し、キリスト教の象徴である鐘が鳴り響く。

 全体として、非常に敬虔な雰囲気に支配され、まさに教会儀式そのもので、音楽としてはのっぺりとして盛り上がらない構造を持っており、ドラマティックな進行が好きな人には退屈な響きかもしれないが、やはりイギリス音楽好きには、どこかじんわりと染みてくるものがあるのではないだろうか。


第10交響曲「室内交響曲」(1974)

 木管と2ホルン、絃楽合奏のための、アタッカで続けられる小さな4つの楽章からなるシンフォニエッタというべきもの。演奏時間は15分ほど。

 レント・エ リベラメンテからはじまり、5分もするとスケルツォ・マ グラツィオーソ、そして4分ほどでレント、さらに5分ほどでモルト・アダージョとなり、それは1分ほどと短く。

 これらは全てつながって演奏されるので、単一楽章のようにも響く。

 絃楽合奏のレントで、重苦しく荘厳な調べがあり、木管が彩りを与える。祈りの主題が繰り返され、精神の昂りを感じる。ホルンの対旋律のような響きも効果的。これまでの交響曲では第1主題の経過部ほどの規模だが、内容は濃い。展開部がそのまま盛り上がっているところで、小経過を経て、じわっとテンポとリズムが変わってゆき、まるで第2主題のような趣でスケルツォへ入っている。ここは、これぞというスケルツォへではなく、同じテーマからの派生によるスケルツォ風の舞曲といった感じがする。短いが、ちゃんとトリオ部もある。

 だが、スケルツォを再現せずに、そのままレントへ突入する。1楽章のテーマを悲歌へ変奏したような響きで、いかにも物哀しい。途中で感情が高ぶり、深刻な響きになりつつ、平安を模索する。ヴァイオリンソロが求道者の孤独を示すかのようである。

 存外唐突に、音楽はエピローグ的なアダージョに入るも、それは幻のように過ぎ去ってしまう。


第11交響曲〜1つの楽章による〜(1979)

 こちらも演奏時間15分ほどの、単一楽章による。

 アンダンテ・モデラート〜アダージョ:カルモ・エ セレーノ(穏やかに落ち着いて)とあるので、全体がゆっくりとした祈りの音楽となる。

 半音進行も含んだ乾いた旋律が、切々と流れ出る。旋法のようでもあり、モダンなようでもある。ティンパニの刻む重々しいリズムが、久しぶりにラッブラ節を思い出させてくれる。オーケストラはけして厚く響かずに、あるいは響いても一瞬で、ソロなども含みつつ進み、鉄琴の旋律にポリリズムっぽく絃楽が遠くで鳴っているような響きも面白い。クラリネットのソロや、金管の咆哮もあり、中間部は荒野を一人行くかのごとき荒涼さに、やはり突如としてティンパニや木琴が入る理不尽さ。けしていわゆる長い旋律があるのではなく、短い旋律がじわじわと重なって行くやりかたは健在。そして、それが唐突に変化して行くのである。変化しても、その変化がとても短く続かない。

 だから、とりとめが無いと聴こえる人もいるだろう。10分ほどの、ドラの一撃から続くオーボエのソロより、明らかにテンポが落ちるのでここからアダージョか。リズムのある旋律が各楽器で繰り返されつつ、歩みは続く。ここも、ラップラ的オスティナートの世界が。燦然としたホルンの輝きが終結しないで忽然と消えるのもまたラッブラ節。

 そして、音楽が続くような素振りを見せ、ぷいっと終わってしまうのも、これもまた、最後までラッブラであった。


 これをもって、ラップラの交響曲はおしまい。やはり9番を頂点として、10番と11番は自由に羽ばたいて行く方向性を示したが、死までの7年間、交響曲は書かれなかった。






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