ヴォーンウィリアムズ(1872−1958)


 一部のファンをのぞき、一般的なメジャーという意味においては、やはりまだまだイギリス音楽は、日本人には馴染みが薄いと思われる。惑星を含めて、単品が、チラホラと高名なぐらいではないか。ましてや、イギリスの交響曲となると、エルガーがそれなりに受け入れられている程度といったら言い過ぎか。

 だが質的、量的、そしてメジャー度のすべてを勘案してみると、個人的にはやはりこのヴォーンウィリアムズがトップに躍り出てくるような気がする。

 レイフ・ヴォーンウィリアムズ(Vaughan Wiliams)という長い名前のため、頭文字をとってRVWとまるでクルマのメーカーのようにも呼ばれることもあるヴォーンウィリアムズ。ドイツでブルッフについて勉強した後、フランスへ遊学してラヴェルに師事しているという点が見逃せない。かつてハイドンがロンドンを訪れ、発展したイギリスの音楽も、どうもその後パッタリと進歩が止まってしまったようで、19世紀・20世紀になってようやく復興する。その中で、ドイツ流の構築性に加え、フランス流の色彩感覚をブスッと注入したのがこの人だという。しかし、イギリスのクラシックには、どのような輸入技術にも崩れぬノーブリーな気品と朗らかな田園気質と古代ケルト的な神秘さのようなものがあるから不思議。

 グリーンスリーブスの幻想曲なんて、有名すぎて(そしてチンプすぎて)好き嫌いの別れるところだが、イギリス民謡組曲に代表されるような田園的な名旋律を、ホルストの惑星にも匹敵する近代的な管弦楽法で味わうのが最大の魅力か。そういや、この人はホルストの親友であり、兄貴の占星術研究家がホルストに惑星のタロットを教えて、興味津々のホルストは惑星を作曲したということです。

 それはさておき、肝心の交響曲。

 9曲もある。聴かずにはおれまい。


海の交響曲(第1交響曲)(1906)

 RVW最初の交響曲は、3年をかけて作曲された。初期の大作といえるだろう。輝かしいファンファーレと合唱により幕を開ける、一大叙事詩。4つの楽章はたっぷりと海の物語を歌いあげる。歌詞はホイットマンの詩。「草の葉」という詩集か、なにか、不勉強だが、そういうタイトルの詩からとられているらしい。 
 
 第1楽章 「あらゆる海、あらゆる船に捧げる歌」
 第2楽章 「海辺にて、夜に独り」
 第3楽章 「波」
 第4楽章 「冒険者たち」

 モデラートで速い1楽章は晴れやかな光の海。白波、どこまでも青、情景的だ。潮風に突き進む様子は、蒸気帆船から石炭船へと変わりつつある世界を表しているようだ。
 
 2楽章のラルゴにおいて夜の冷えた海辺を想いつつ、スケルツォの3楽章でマーチ調の音楽も聴かれつつ、音楽は盛り上がる。ここはまさにザバザバとよせては引き、うねり、船を容赦なく揺らす波の情景か。
 
 4楽章は世界の海へ漕ぎだしてゆく海洋帝国・大英の栄光を思い浮かべさせる。アダージョからアンダンテへ続くその音楽は、緩徐楽章のようで、ひたひたと盛り上がる感動のフィナーレだ。

 世界の海を制覇し、イギリスは超帝国となった。今はかんぜんにアメリカへその座をゆずってしまったが、作曲当時、大英帝国などというものは、世界に冠たるイギリス、押しも押されぬ大帝国だった。

 ちなみに日露戦争とロシア第1次革命が1905年。当時のイギリスの威光たるや!

 全体では、マーラーの8番のような歌と管弦楽を合体させたオラトリオ式交響曲であるが、あれよりはるかに形式的で、時代のわりには、響きも古風な印象を受ける。それでも、この見事な音楽は、RVWの交響曲群のトップを飾るに相応しい。

 ただ、私のようにマーラーブルックナーなどで単純に「長い曲」に慣れている聴き手は別だろうが、内容のわりには、正直、長い。飽きる人がいるかも。


ロンドン交響曲(第2交響曲)(1913)

 1番でも書いたが、今交響曲作曲の1913年あたりなどは、イギリスという国が史上最高に輝いていた時代だと想う。その大英帝国を破壊したのは、第1次大戦(1914−1918)による疲弊、その後のヒトラーの登場、そして雄牛と赤熊の間の貧相なロバに例えられる戦後の米ソ対立なのだが、その寸前の、絢爛熟成たる世界の都ロンドンの様子を音で表したのがこれだ。

 とはいえ、作曲者は、これはタイトルは別にして中身は標題音楽ではない……と云っているという。また、私のようにロンドンに行ったことのない人間は、この音楽からどのようにロンドンを思えばよいのか、ちょいと分からない。
 
 そうなると、私のような聴き手は、実は作曲者にとっては望ましいものなのだろうか? 純粋に音楽のみによって、このロンドン交響曲を聴けるというのだから。もっとも、いまはテレビやらなにやらで、嫌というほど世界の情景を観ることができるが、それはそれで、単なる想像のタネのひとつにすぎないということを自覚すれば、そのようなタネを元に音楽を楽しむというのも、悪いものではないだろうと思う。

 1楽章冒頭から、弱然たるレントで、おお! 倫敦たる都、かくのごとく霧の都なり、などという情景か。すぐにフォルテの目覚めの一撃で、アレグロに突入するのだが。

 その後は、交響曲の楽章というよりかは、たしかに、交響的素描もしくは情景といったふうだ。これをあえて交響曲としてやることに、わたしはRVWの意図があると感じる。

 さまざまな風景が、手にとるように脳裏に浮かぶ。しかしこれは、純然たる、単なる「音楽」なのだ。
 
 2楽章のレントで、いよいよ霧(正体は当時のPM2.5)の音楽ここにあり。ロンドン・ヒースローだかどこだかの国際空港では、霧が最高に出たときは、前へ差し出した自分の手の先が見えぬほどに白いと聞いたが、そこまでの霧ならば、こういう音楽がにあう。実家も実は夏は海霧がすさまじいのだが、潮の匂い、霧の冷たさ、そして霧の中で死んだものは永遠にその霧から逃れられないというイギリスの言い伝え、それらのすべてが、この音楽にあるような気がする。

 スケルツォ(ノクターン)は、たとえアレグロ・ヴィバーチェであろうとも、どこか切ない。民謡調の旋律と、舞踊的なリズムが魅力。都会の中にある、下町の風景なのか。

 堂々たる4楽章にて、立派な騎馬兵や、近衛兵を連想してしまう。これは伝統と栄光のシーンなのだろうか? 

 コーダはモデラートで、荘厳な雰囲気が大聖堂なんかも想起させたりして……。

 やっぱりこれは倫敦交響楽だ。

 なお、シャンドスレーベルにこれの「原典版」の録音があるが、聴いてはいない。


田園交響曲(第3交響曲)(1921)

 ベートーヴェン大先生を向こうに回して「田園交響曲」とはいかなることなのだろうか。恐れを知らぬ所業のようにも思える。
 
 が、しかし、この音楽を聴いて、田園以外になにか標題をつけるとするならば、いったい全体いかなるものが思いつくだろうか? 丘陵交響曲とでも云えばと良いのか? それとも牧場交響曲だろうか? 
 
 各楽章は、なんと1〜3がモデラート。4楽章がレントという徹底ぶり。ラヴェルに学んだというRVWの、それよりかはむしろドビュッシーのような冒頭の響き。非常にデリケートで情景的で、その上に乗ってくる幻想的な部分。耳障りがよいだけの単なる「音」がただタレ流されている「イージーリスニング」などというものとは次元が異なる。これが真に癒しの「音楽」であろう。
 
 2楽章で、遠くから信号ラッパがかすかに聞こえる風情はマーラーにも通じる。ハーブ畑や小麦畑を流れる、そよ風の薫りはいかようなものか。(ミステリーサークルは現れない。)
 
 3楽章はモデラート・ペザンテで幾分か動きが激しい。民族風旋律とリズムが、彼をバルトークなどにも近づけるが、そこはRVW、中間部ではイギリス民謡組曲のような鄙びた風情が非常に嬉しいではないか。
 
 4楽章には、ソプラノのソロが入る。これもマーラーに通じる芸か。しかし明確な歌詞は無く、幻想的なヴォーカリズムというのが、また渋い。ホルストの海王星のような雰囲気。しかも、あれよりさらに控えめ。管弦楽と声楽が、ドイツ流にガッチリと組み合うのではなく、そっと寄り添うというか、なんともやさしい音楽。3番を聴くと、本当に心が癒されます。
 
 これは、真に「良い音楽」と云えるでしょう。

 作曲は第1次大戦中、従軍していたフランスにて着手された。大戦終結後も筆は進み、1921年に完成しているようだ。

 人類史上初の大規模総力戦とそれによる栄光のヨーロッパの崩壊(というか自壊)を体験し、どのような想いで、このような音楽を書いたのか。それを想像すると、ちょっと、胸が痛くなる。美しいが、どこかほの暗さも保っている。


第4交響曲(1934)
 
 RVWの4〜6番は、例えばマーラーの5〜7番の「器楽3部作」のような様相を呈しており、1、2、3番の標題的な3作と、7番の(あたかもマーラーの8番のような)記念碑的・英雄的な南極交響曲との間に挟まれた非標題的な純音楽だ。

 その最初を飾る第4は、第1次大戦の傷も癒えぬ間に、果ての無い左右闘争による社会の混乱、迫りくる第2次大戦への恐怖と不安、希望の無い未来への絶望の想いが、このような音楽を彼に作らせたのだろうか。ナチス政権誕生が1933年であるから、このあたりがヨーロッパにおいていかに「きな臭い」時代であったか、ご想像いただけるだろう。ソ連誕生に端を発する極左勢力を防ぐためにしてきた努力が、こんどは極右を産み出したのだ!

 RVWの4番は、とても激しい系の交響曲であると聴いて、そういうのが好きな私はバラ売りで買ってみたが、云われるほどそうでもなく、ガッカリしてそれ以降、プツリと聴かなくなった経緯がある。しかし、それは間ちがいだった。同作家の1〜3番の情景や優しさや夢を聴いてはじめて、4番の異常さが分かる! これは例えばプロコフィエフショスタコーヴィチの銃剣そのものみたいな交響曲と比べても、意味がない。3番の風情と情景があってこその、4番の戦慄、怒り、衝撃、不安なのだろう。ノーブルなインテリの抱えるショックなのだ。

 これまでの安らかな和音はどこへ。いきなり刺してくる。

 不協和音を炸裂させる金管。轟くティンパニ。1楽章がもっとも激しい。衝撃を示す第1主題。

 第2主題は多少、和らぎがあるが、これは苦悩を表す。左右両陣営の狭間に揺れる老大国大英の苦悩か。この両主題の展開は、最後に不安げに消えてしまう結末をむかえる。
 
 2楽章はアンダンテが置かれている。これまでの安らかなものではない。あくまで緊張と不安が支配している。中間部でいったん盛り上がるが、その音楽は切々となりながらも、なんとか最後まで辿り着く。
 
 3楽章に用意されているスケルツォではこれまでの諸交響曲と明らかに異なる特徴が見られる。優雅で素朴な民族舞踊の性格はどこにもない。突発的な変拍子やめぐるめく主題、奇妙なフーガなど、ノイローゼ的な錯綜や狭窄が見受けられ、その意味ではショスタコーヴィチにも通じているか。
 
 4楽章はフガートでアレグロ。どうも聴く限りではアタッカで3楽章より続くようだ。マーチ調の、マーラーを現代的にしたような響き、けっこう好き!

 後打ちのトロンボーンがカッコイイ。

 1楽章冒頭の主題も展開して回帰。作曲の熟練の業をみせつける。緊張感は否応増し、不協和音炸裂のまま、呆気なく終わる。
 
 RVWによるこの第4交響曲。何を我々に訴えているのか。超大国アメリカによる気晴らし戦争が起きている現代、示唆するものは多い。


第5交響曲(1943)

 運命の第5となると、どうしても内容的にこのようなある種の暗さが伴うものなのだろうか。英雄的な側面とは別に、苦悩的な側面というものもつきまとうのが第5の「運命」なのだろうか。これは同時代のものとしてはオネゲルの第5交響曲と雰囲気が似ているかもしれない。

 RVWの「中期器楽3部作」(勝手に名づけた)の真ん中を占める第5は、1938−1943年という、第2次世界大戦の真っ只中にあって書かれたものだから、その意味で戦争交響曲と云えなくもない。しかしここでは「戦闘の」音楽(ショスタコーヴィチやハチャトゥリアンのような)は聴こえない。ここにあるのは深い人間の心の底の悲劇と未来への希望を信じる執念なのだと思われる。

 1938年といえば、ヨーロッパでは何が起きていたのか。 

 2月にヒトラーがドイツ軍を掌握し、統帥権を得る。3月には電光石火の早業でオーストリアを併合。そして1939年9月、ドイツはポーランドへ侵攻し、ワルシャワを占領した。

 その後もドイツ軍の破竹の進撃が続き、ノルウェー、デンマーク、オランダと占領。40年6月。ヒトラーはパリへ入城する。同年の9月には、いよいよドイツ軍のロンドン空襲がはじまるのである。
 
 しかしドイツは41年の冬にソ連攻撃に失敗。ここで初めて、進撃が頓挫する。ショスタコーヴィチの7番、8番のあたりである。

 ドイツはいったん盛り返し、再びソ連侵攻。42年の冬にはかのスターリングラードの戦いが行われるが、43年1月に敗北。ドイツ軍の衰退がはじまる……。

 1943年9月。イタリア、降伏。
 
 このように1938−1943年はヨーロッパに2回目の火が着いて最高に燃え上がり、火の勢いが逆風になってゆくちょうど過渡期までを占めている。
 
 もしRVWがショスタコーヴィチのようによくも悪くも政府当局や国民と密接な関係にあったなら「ナチスやっつけろ」「戦争なんかもうごめんだ」交響曲が書かれたかもしれない。
 
 だが、ここで書かれているのは、純真な人間性の回復と、音楽のすばらしさ、未来への希望。
 
 プレリュードと題された1楽章は、苦難に耐え向かう人間の強い心の響きからはじまる。テンポはモデラートだが、けっこう激しく変わる。スケルツォ:プレスト、ロマンツァ:レントと続き、4楽章はパッサカリアで、ブラームス流。RVWは7番などの例外をのぞき、ぜんぶが4楽章制の古典的形質を備えたもので、ここにブルッフより得たドイツ流が見えてくる。全体的にスケルツォの(民族的な響きの。)妙なひねくれた展開が戦争への皮肉と聴こえなくもないし、緩徐楽章は珍しい「ロマンツァ」の表記が使われているがその響きはあくまで沈んでいる等、これまでとはちがった雰囲気もある。4番はストレートに社会への反動を表しているが,こちらはそれへもうひとひねり加えたようだ。

 4楽章パッサカリアでようやく、これまでのつらい生活が現実的に未来へ向けて希望の光を伴って放射される。


第6交響曲(1947)

 RVWの交響曲は同時代のどこかのネクラメガネの作家のように数か月とかの早書きで完成されることは無く、ほぼ、数年間をかけてじっくりと構成、作曲されている。その代わり、コンスタントに、産み落とされているのも特徴だといえる。器楽3部作のラストである第6は、1944−1947にかけて書かれた。

 第二次大戦も末期をむかえ、ノルマンディーのあとのイギリスは、「ヒトラーからの贈り物」たるVロケットの猛威も少なくなってきたころではないだろうか。チャーチルはイギリスを戦勝国としたが、戦後のイギリスは急速にその政治力を失い、東西冷戦の狭間で揺れる貧相なロバを地でゆくこととなる。気を吐いていたのはビートルズとモンティ・パイソンぐらいで(?)一時期、サッチャーがずいぶんと豪腕を発揮したが、いまや再び、アメリカの飼い犬扱いだ。かんぜんに、100年前とは立場が逆転してしまっている。

 RVWはそんな世相に何を思ったのだろうか。戦争が終わった安堵か。冷戦構造への不安か。大戦争への追憶か。第6はそういう深い聴き方をさせてくれる。

 では曲を聴いてみよう。

 いきなり沸き上がるパワフル主題。全管弦楽による強大なテーマは、何を示しているのか? 興味はつきない。次にいくぶん、ジャジーな雰囲気の2つめの主題が現れる。第1主題・第2主題とも、まだ全大戦の記憶を引きずっているか、それとも、大戦末期の雄叫びと終結の喜びなのか。

 中間部は第2主題の曲調で進むが、ラストは第1主題が回帰して、堂々と終わる。

 モデラートの次楽章、なんとも緊張感のある響きが、単に、戦争が終わった喜びの讃歌交響曲ではないことを意味しているのでないか。ショスタコーヴィチが、同じく戦争交響曲群をあの9番で終わらせているように、ここにある音楽は、単純ではない。

 後半部の、地を這い暗闇の中をうねるようにのたうつ音楽は、いったい何なのだろうか。(キャタピラの音?)

 戦争は本当に終わったのか。それとも、つらい記憶の邂逅か。

 スケルツォでは珍しくソロ楽器なども出てきて(サックスか?)陽気な雰囲気。民族的な調子というよりは、どこか異国情緒で面白い。イギリスの作家というより、イベールのようなラテン系の作家のようだが、中間部ではまた少し趣が異なる。

 さて、最終楽章でまたRVWは異彩を放っているというか、意表をついているというか。この第5ではパッサカリアだったが、第6ではエピローグと名付けられたモデラートである。何のエピローグなのかは、不勉強でよく分からないが、とりあえず冒頭から暗い音楽が復活する。しかしこれは1〜3番までの情景的な「霧の音楽」ではない。もっと深いところから沸いてくる精神性のあるもので、いわゆる純音楽と云うべきカテゴリーにある部分のうち、これほど乾いた、無味乾燥的な悲しさ、呆然とした、荒涼とした世界を見る眼というのは、戦後の焼け野原をそれをみつめる瞳に他ならない。まさに魂の音楽。

 えてしてそうだが、4〜6の3部作では、もっとも奥が深い。

 RVWの「戦争3部作」は、ショスタコーヴィチ的なハデさは無いが、同じくらいか、さらに深い精神性を有しており、迫力も充分で、もっと聴かれて良い傑作だと断言できる。

 これは、わたしとしては、今全集を通じての大収穫だった。


南極交響曲(第7交響曲)(1952)

 7番はまたガラリと雰囲気が変わって、映画音楽の編集交響曲という不思議な音楽となっている。

 それが映画「南氷洋のスコット」(1943)。

 題名の通り、大英帝国の威信をかけて出発したスコットが、ノルウェーのアムンゼンと人類初の南極点到達を争ったが、自信過剰と情報収集の甘さその他が原因で、あえなく南極の白魔に消えるというストーリーを題材としている。スコットさん、私ですら、南極で馬ソリや毛織物の防寒具は、さすがにどうかと思う。

 残念ながら映画は見たことがないので、具体的なシーンは分からないが、プロコフィエフのようにカンタータや交響組曲としていないのがミソ。これは、交響曲なのだ。

 だからといって、中身は、交響組曲といってもべつに可笑しくはない出来で、前作までのシリアスな雰囲気は遠い。書法は容易で、1〜3番へ戻った気分だが、それらよりは、モダンな響きがする。やはり映画というものの持つモダンさなのか。

 全5楽章で、3楽章がもっとも時間的に長く、シンメトリー構成で、マーラー風。RVWの常で、完成に数年を要し、1948−1952の4年間。

 1楽章:プレリュードには無言歌が導入され、南極の神秘さを嫌というほど聴かせてくれる。しかしウィンドマシーンも登場し、情景描写に一役買う。ここの部分は、ズバリ、ヤマト! 松本零次! テレザート星のテレサ!! 「♪アアアー〜〜……」

 スケルツォ:モデラートの2楽章は何のシーンか。想像しながら聴くのも愉しい。

 南極探検への準備に余念がないといったふうか。ただ、その割にはちょっとお気楽で、「なあに、南極なんかたいしたことないよ」といった奢りにも聴こえる。

 しかし、じっさいに南極へ到着した3楽章:ランドスケープ。そこはレントで厳かに流れる白魔の世界。美しいまでに峻厳な世界。オルガンも鳴り響き、宇宙的(?)

 4楽章では間奏曲が流れる。吹雪の中で夢見るのは、遠く祖国イギリスの風景かもしれない。

 5楽章ではいよいよ、ついに、悲劇が訪れる。

 白魔の世界といえば、日本にも映画「八甲田山」がある。音楽は芥川也寸志だが、芥川のほうがさらに悲劇と悲哀がただよう。RVWは、どちらかというと、悲哀というよりかは、大自然の驚異を純粋に驚異として表現しており、西洋人と東洋人の感性の差がみられて面白い。

 はるか遠くより響く無言歌は、白い悪魔の歌か、それとも天国への導きだろうか。その中で、スコット大佐は静かに永遠の眠りへつく。


第8交響曲(1955)

 7番の延長上にあるような、それでいて、さらに3番あたりに回帰したような、響き。7番完成後すぐに、比較的短い作曲期間で書かれている。標題は無く、その意味では4−6番へ回帰している。つまり、これから先の2曲はRVW交響曲の総決算という意味合いを持つのかもしれない。非常に聴きやすく、それでいて、作りは標題にもたれかからない。
 
 1楽章には珍しくファンタジアという指定がある。

 主題はチャーミングで、展開は壮大。幻想的にという通りの音楽で、旋律は平易だが展開が不規則で、交響曲の1楽章というよりは狙いとおり幻想曲のような雰囲気がある。
 
 2楽章のスケルツォは珍しく道化的な雰囲気が伴い、コミカルなもの。トランペットによって奏される主題がなんとも。管楽合奏です。
 
 3楽章はカヴァティーナであり、さらに歌謡性に依拠している。旋律に反復が無いということで、緩徐楽章でありながら、独立した器楽曲のようでもある。8番の特徴は、そういった構成にあるのかもしれない。こちらは弦楽合奏。こういう意欲的なチャレンジもされている。
 
 4楽章もまた指定が変わっている。トッカータだ。およそ8番はこのように交響曲には使われないナンバーがそろっていて、面白いと思う。2楽章以外は、まったく交響曲ではお目にかからない。内容は、交響曲としてまとめてはいるが、そうなると、各楽章が非常に独立性があって、組曲のような聴き方もできる。

 それで、楽曲としては、ささやかに明るく鐘が鳴ったり、吹奏楽曲にありがちなクレッシェンドがあったりで、しかも、トッカータらしく、短い。交響曲のフィナーレとしては、変わっていると思う。どうも8番は本当に交響曲らしくない。その意味で、2番にも通じているかもしれない。


第9交響曲(1957)

 いよいよきました。RVWの第九です。

 時間的にはこれまでの諸曲とたいして変わらず、35分ほど。だが中身は、第九に相応しい。

 前作の完成よりすぐ筆をとり、死の前年に完成した。8番と9番は、彼にしてはけっこう筆が進んだようだ。
 
 もちろん純粋な「交響曲」で、特に標題はない。
 
 冒頭の重厚な序奏より、田園的な第1主題が顔を見せるが、すぐに消えて、序奏のテーマ(もしくは第1主題)による音楽が場を支配する。

 ほの暗い響き。鬱屈然とした進行。6番以降、久しぶりに深刻な音楽が聴ける。かも。
 
 2楽章がまた、アンダンテは緩徐楽章じゃないの? 重厚なリズムに支えられた、マーチか? これは。これまでにはみられない書式で、一風変わっている。否、これは死ぬ寸前まで作曲家が進歩のための模索を繰り返した証拠だ。すばらしい想像力。前進への意欲。

 中間部はRVW特有の神秘さと色彩感に彩られ、また冒頭のマーチ調の部分がハデになって帰ってくる。非常に面白い音楽。
 
 スケルツォは、彼らしい、ショスタコーヴィチにも通じるが、書法はまるで異なる弑逆性、諧謔性が全開した集大成といえるか。サックスを使用し、コミカルな小狡さをも表している。そのように前衛的な書法にも挑戦している姿がすばらしい。

 どこかハリウッドの作曲家の響きにも似ている。

 巨匠の与えた影響というのは、計り知れぬ。巨匠最後の交響曲の最後の楽章は、先人の例に倣ったのか自然にそうなったのかは知らないが、意味深げな緩徐楽章である。

 前半は比較的激しい動きで、これまでの人生の厳しさを振り返るような趣だが、中間部では祈りが聴こえる。後半部ではそれらが混合されたような、まことに深く味わい深い音楽が鳴り響く。特別に壮大なフィナーレでもなく、消え行くようなアダージョでもない。強いて云うならば人生肯定の音楽であり、生きることはすばらしいという讃歌だろうか。


総括
 
  RVWの交響曲群を把握するためには、やはりグループ別に考えると分かりやすいと思う。以上のように聴き進めてみると、専門的な分析ではないが、楽曲的な分け方ができる。
 
  1番−3番までの標題的交響曲グループ。
  4番−6番までの戦中戦後の器楽3部作。
  7番−8番の、映画音楽による特殊交響曲と、その延長にあるような8番。両方とも聴きやすいが、形式的には交響曲から離れているグループ。
  9番。最後の交響曲は、老巨匠の集大成の音楽。人生讃歌。

 これほどに体系づけられた充実した交響曲群は、なかなか無く、交響曲は数の問題では無いということを教えてくれる。1曲1曲が面白いのもさることながら、体系的に聴き進めることで、その作家の生きた証を聴いて追体験ができるという面白みがある。特に20世紀半ばに活躍した作家は、両大戦があるので、歴史的意義とからめて楽しめる。
 
 レイフ・ヴォーンウィリアムス。

 少なくとも交響曲分野においても、もうちょっと、メジャーになってもいいかな、と思う作曲家だった。
 




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