フォン マタチッチ(1899−1985)
旧ユーゴスラビア、現在ではクロアチア出身の指揮者であり、ヴィーンでかのヴィーン少年合唱団にも所属し、音楽の勉強をした、ロブロ・フォン・マタチッチは、日本ではN響への名演の数々、そしてCDで特に高名だろう。ヨーロッパでは、残念ながらそれほど高名ではないらしい。
彼の主要なレパートリーと、必ずしも私の好む曲とが重複していないので(特にブルックナー)あまりCDは持っていないのですが、その音楽づくりの姿勢は敬服すべきものがあるでしょう。
さて、そんなマタチッチが、ありがちなんですが作曲家としても実力派ということで、しかし、ぜんぜん作品は省みられていないという……。フルトヴェングラーやクレンペラーを地で行っているような……。
彼が少年時代を過ごしたころのヴィーンは、マーラーが帝国歌劇場よりいなくなったばかりで、シェーンベルクやヴェーベルンらが現役バリバリ。そんな彼が作曲したものとは、いったいどのような音楽なのだろうか? 幸いなことに、N響での定期演奏会で、自作の大作交響曲を指揮し、録音が残っている。現在でも、中古で入手できるのではないか。→復刻したようです。この機会にぜひ!w
対決の交響曲(1979/1984)
N響定期の演奏に合わせて1983−1984年にかけて大幅に改訂。そのN響定期で改訂版が初演された。死の前年の、一世一代の発表会だったことだろう。
これはいっぷう変わった交響曲で、まず編成が、通常ではない。管楽器が廃されて、2群の弦楽5部合奏と、大規模の打楽器群。それに2台のピアノ。これに独唱陣が加わったらそのままショスタコーヴィチの14番にもなろうが、声は入ってこない。
マーラーがいた時代のヴィーンで多感な少年期を過ごしたせいか、今交響曲は大規模な4楽章制であり、後期浪漫派の権化のようなもの。しかし、フルトヴェングラーのような、マーラー+ブルックナー+ヴァーグナー+R.シュトラウス÷3.5といったような作風ではない。なかなか現代的な編成をみてもわかるとおり、主題はほとんどすべて(音列ではないが、無調的な)12音技法によっており、その意味では、マーラー亡きあとの新ヴィーン派の影響もたくさん受けている。
しかし、残念ながら、ショスタコーヴィチの14番と較べると、呆れるほどにつまらない音楽だ。あっちが凄すぎるというのもあるだろうが、悲しいかな 「作曲もする指揮者」 としては、これが限界なのだろう。作曲も指揮も超1流というのは、なかなかいないもので、死んでから曲が認められたマーラーも、私は個人的に 「作曲もする指揮者」 だと思っているが、彼は例外だ。たいていは、指揮者で成功した人は、指揮する時間に追われて、作曲はろくにできない。充分な時間がないから、やっつけ仕事となり、才能の有無もあるだろうが、認められるほどの曲は書けないし、推敲もできない。自作自演ができるのが唯一の救いで、その意味で発表の場があるだけましか。
マタチッチは両大戦を経験し、なおかつ、第1次大戦はサラエボでオーストリア皇太子が暗殺されたことによりはじまり、2次大戦では、ユーゴスラビア王国はナチスおよびイタリア・ファシスト党の侵攻を受け、3つに分割。強烈な反体勢派の粛清があった。しかも、戦後は、チトー率いる共産政権による、反共の大粛清。
そのような状況下で、マタチッチは、人間が合い争うことの愚かしさを、大交響曲へこめたのだった。人種民族宗教の坩堝、世界の火種、バルカン半島・南部スラブ。マタチッチ亡きあと、かの地を襲った凶暴な内戦、はるかなる対決。
それぞれに、長いタイトルが冠されているので、それに基づいて、聴き進めてゆこう。
意外なのが、打楽器の異様なほどの活躍で、その意味では、かれは20世紀の正しい音楽の継承者だったのだろう。
1楽章 「地球上どこにでも見られる対決の多く……」 序奏;獰猛な、そして興奮してもかまわないアレグロ〜前進するテンポ;アレグロ
20分を超える、今交響曲の白眉ともいえる楽章。タイトルを見るとご大層だが、いかんせん、管楽器が無いため、いまいち迫力に欠ける。気の抜けたマーラー+ショスタコーヴィチといったところ。
軍楽の行進を思わせる激しい打楽器アンサンブルより、すぐに弦楽が序奏主題。12音に基づき、けしてお耽美な後期浪漫派風ではない。主要主題の展開はピアノが主にうけもつが、半音進行で、かなりとっつきづらい。それへ、弦楽と打楽器が容赦なく、からんでくる。
ソナタ形式とは関係がないようで、その意味でも、けしてブルックナーやマーラーのモノマネではない。しかし、形式抜きで20分聴かせるのは、至難だ。途中のピアノのほろほろとした独奏が、浪漫主義の名残に聴こえるが、不協和音や打楽器のアタックが、現代の戦いの悲しさと痛さを常に訴える。
延々と半音主題が流れ続け、打楽器が鳴り続け、ときどき、哀切的な様子が聴こえる、という音楽といえるだろうか。
しかし、たいてい、対決というと、ふたつの主題や各楽章の対決が常套なのだが、本当に人類の精神的、民族的、宗教的、文化的な対決そのものを音化して象徴化しているといった雰囲気だ。
現代世界の対決が大規模だから、とうぜん、楽章も大規模になるのだろう。
2楽章「……それらはまた我々自身それぞれの内側まで溢れている」 自由なカデンツァ;ポコ・レント〜プレスト〜アレグロ・ジュスト
1楽章に次ぐ規模で、18分ぐらい。緩徐楽章に相当する。
主題は相変わらず無調的で、明確ではない。その不明確さが、現代作家が好んで現代の不安や恐怖を表すのに使うのであるが、なかなか構造は把握できない。
ヴァイオリンの陰鬱としたソロから、ピアノに引き継がれ、現代風ソナタのような音楽がまずしばし続く。打楽器アンサンブルも警鐘のようにからんできて、ずいぶんと緊張感のある緩徐楽章になっている。まあ、途中にはプレストがありますからね。
タイトルから察するに、対決(憎悪、差別)というものが、表面上だけではなく、我々の心の内側からひたひたとせまってきているのじゃよ、というものを表現したかったようなので、その苦悩を表しているのかもしれない。
3楽章 葬送諧謔曲;「技術主義こそ我々の環境を破壊するばかりではなく精神的価値も忘れさせ、夢見るごとく自滅への千鳥足を強制……」 トリオ;「そしてディエス・イレの火焔を我々自身の手で点火してしまう」
なんだこのわかりづらいタイトルは(笑)
ここは某高名評論家の伝によると、マタチッチは、自分で作曲した変拍子が、どうしても振れずに、困り果てた。するとN響団員曰く 「先生は、泳いでいるフリでもしていてください、我々が勝手に演奏します」 「ああ、そう。じゃ、よろしく頼むよ」 ってなもんで、マタチッチは本番で本当に水泳のかっこうをしていたというが……。マジですか、それ。(トリオの部分が、変拍子のようです。)
まあ、「指揮もする作曲家」 ではあるが、ストラヴィンスキーやRVWも、自作の難しい曲をアレレで振って録音しているから、そういった現象は、珍しくはないのだろうけども。。。
3楽章は8分ほどで、次の4楽章が10分であるから、1、2、3・4で大きな3楽章制のような構造にもなっている。
また打楽器アンサンブルからスタートするが、響きが革モノ主体でなかなか不気味。それへからむピアノもなかなか……。木琴類も、狂ったようだ。
じわりとやってくる弦楽は、だいぶん、調性っぽくもあるが、半音なのに変わりは無い。ここにきて、この長い交響曲は、ずーっと最初から最後まで、ひたすら半音階進行と偶発的な打楽器アンサンブルを聴かされる「だけ」なのだと、気づいてしまうわけよ。そして、諦める。
ああ……。
トリオの部分は、確かに、難しそうだ。
4楽章 フィナーレ;「人類そして大地に備わる霊魂への我々の信頼」
巨匠、最後ぐらいは、調性で締めてくださいよ!!
という願いも空しく、鎮魂歌すら無調なのです。ヴァイオリンに現れる静かで乾いた響きは、アスファルトとコンクリートの世界でひたすら銃撃戦を行う現代の都市型戦争の後の空しさを象徴しているようだ。
最後の最後の最後のコーダで、ようやく、イ長調の主要和音により、パアーッと、ちょっとだけ、世界がひらけて、お開き。
長かった……!!
曲風としては、かなり大人しくて良識的なペッテションと云えなくもないが、やはり、作家がなにを思ってこの編成にしたのかはわからないが、管楽器が無いのが決定的に、響きを単調にしている。音楽自体は、ちょっと懐古的な過渡期タイプの現代音楽で、バリバリのギャーとかギエーとかいうものではなく、その意味では、たいへんに聴きやすい。規模的にも、後期浪漫派の正統的な系譜といっても良い。
だが残念ながら(内容の割りには)曲が長すぎる。長い意味がない。心意気だけで長い。その心意気自体は、買ってもよいのだが。
マタチッチのファンは、とうぜん、彼の得意とするベートーヴェン、ヴァーグナー、ブルックナー等のファンなわけで、いくら巨匠の数少ない定期とはいえ、いきなりこんな曲を聴かされたら、「よくわからん」 となるのも、無理はない。
分からないというのは、音楽が分からないというのもあるのかもしれないが、何をしたいのかが分からない、という意味合いも強いのではないか。
疲れる曲です。争いはいかん……。
前のページ
表紙へ