諸井三郎(1903−1977)
諸井三郎は作曲家で音楽評論家の諸井誠のお父さん。
この人もまたドイツに学び、本格的な交響楽の作曲というものをたたき込まれた口だが、面白いのは、貴志康一や橋本国彦らとはことなり、いわゆる日本的情緒というものとはまったく一線を画した、たいへんにシリアスな曲風なのだ。その意味で、山田耕筰の交響曲「かちどきと平和」の精神に近いか。
しかし、彼の音楽の中にはやはり東洋的な部分というものは見られて、それは精神的なものというか、奥にひそんでいる。表面上は、ブルックナーやマーラーや、ショスタコーヴィチ、ヒンデミットの影響がものすごく濃い。それは、展開法だとか、構築性だとか、難しい話において。旋律はあくまで歌謡性が廃され、呈示部に重きが置かれ、精緻な作曲技法がそれを支える。見事。
シンフォニーは番号付で5曲あって、作曲年代は、
1番 1934年
2番 1938年
(小交響曲 1943年)
3番 1944年
4番 1951年
5番「大学祝典交響曲」1971年
となっており、まさに作曲家の人生の節目節目にあたっており、ブルックナーやマーラーの作曲的思想の影響すら指摘できよう。なかでも2番と3番は、大戦直前の知識人の、橋本らとはちがった、一種軍国調なものからは縁遠い、異様にシリアスな曲調が、往時の苦悩を忍ばせて興味深い。
このあくまでシリアスな曲調と、作曲一筋の地味な活動が、かれを「軍の広告塔」という境遇から護ったのかもしれない。作品はシンフォニーの他にコンチェルトや室内楽がある。
この人も、録音がどんどん増えてゆかなくてはならぬ作家。腑抜けな国内レーベルよ、いったいどこを向いて商売しているのか。喝だ喝!!
第2交響曲(1938)
序奏もなしにいきなり弦楽のフーガで鳴り響くシリアスな第1主題。アレグロ・コン・スピリット。フーガ調に続き、第2主題はオーボエ等だが、テンポは落ちない。1楽章は、その調子で展開部、再現部と進み、ずっとものの見事に交響的アレグロに貫かれ、せまり来る不安と焦燥を現す。特にコーダ直前の追い込み方は凄まじい迫力。
これはまぎれもなく、大日本帝国の、貴重な枢軸国側の交響曲。
国民の不安を現し、軍国体制の裏を鋭く突く。ショスタコを聴くのならこの人も聴け。みなさんが聴けるよう録音して。お願い。
諸井のアレグロ楽章は、この後もどんどんと磨かれてゆき、構築性に富んでゆくが、ここではまだ、響きそのものの迫力がある。とにかく凄い。
2楽章は重いアンダンテ・クァジ・アダージョ。本当に重い。不景気極まりない世相。力をいや増す軍部。死んだ政党政治。ABCD包囲網による経済制裁。体制翼賛と治安維持法。物心両面での果ての無い統制。重くなるなというほうが無理だろう。
そんな時期に、明るく勇ましい国威発揚の音楽を書いていた人々は、戦後、その責任を痛烈に感じることとなる。誰から無責任に批判されたかもしれないが、なにより、己の信念の内より自責の念が呪縛のようにふつふつと沸き上がってきたはずだ。良い、悪いとは別問題であり、その事情もよく知らない我々に、単純に批判はできない。その先人たちの行為から、なにを学ぶかが大切だと思う。
1楽章の主題より発展したテーマによる陰々滅々たる緩徐楽章であり、人間の苦悩と嘆きを表す。後半部は葬送行進曲のようだ。
3楽章はアレグロだがアダージョの部分も含み、ゆうに20分を数える。全体で40分もの大曲。共通テーマによる、低音でおののくような導きにより、ゆるやかなロンドともいえるABAの3部形式の幕が開く。しかしA自体がすでにABAの3部形式だったりして、単純ではない。
そのA(3/4拍子)は重アレグロに続き、アレグロのテーマの短縮系の主題によるフーガ、そして短いアダージョを挟んだアレグロの再現という3部形式で、ここだけでかなり腹は一杯になる。
間奏の後にアレグロが登場するが、ここがソナタ形式だとのこと。したがって解説によれば、B(6/4拍子)のソナタ形式を中心とした大きな前奏と後奏がついた形、ともいえるようだ。
クラリネットによる導きで出てきた第1主題。テンポの変わった第2主題も、同じく緊張感のあるもので、それらがかなり綿密に仕組まれた展開を見せる。
それからA(3/4拍子)が再び現れ、音楽はいよいよクライマックスへ向かう。もっとも、BのコーダがAの冒頭を兼ねているという構成の緻密ぶり。
Aからコーダへ向かい、コーダはある種の決意をこめたような、本当に力強いもので、豪快な雄叫びで全曲を閉める。
ソナタ形式をとってはいるが、いわゆる明確な形でのソナタ形式などというものは存在せず、諸井の東洋的な精神、そして独特で自由な発展法というのが、傑出している。3楽章制の、日本を代表するシンフォニーの1つ。日本情緒にあふれたものももちろん良いが、こういう音楽がこそ、戦争を考えさせる。オネゲルやショスタコーヴィチになんら劣ることのない、ジャパニーズウォーシンフォニー!
あー、もう、個人的に、邦人のみならずもっとも重要で好きな交響曲作家。特にマーラー聴き、ショスタコ聴きは必聴。カッチョええ〜〜。(ただし打楽器はティンパニのみです。)
こんな大曲を聴かされたら、ぜんぶ聴かずにはいられない!
誰よりも先にどなたか交響曲全集作ってください!!
小交響曲 〜こどものための〜(1943)
諸井三郎の交響曲は上記の通り番号付で5曲あり、残念ながら生産中止となっているものを含めて、録音は2・3・4と三種類ある。ここは是非とも、全集の完結を期待したい。
2と4番はむかしのLPの復刻CDであるが、ナクソスの企画で、小交響曲と3番が新録された。心より歓迎したい。新録って、たいへんな事ですよ。本当に。
こどものための小交響曲とあるこの小品は、2番と3番の間にあり、大戦当時の心情の中での一瞬の安らぎのよう存在で、逆に切ない。
全体で15分ほどの小品であり、規模的には、ブリテンのシンプル交響曲、プロコフィエフの1番「古典的」のようなものだが、ちゃんとした3楽章制で、かなり聴かせてくれる。こどもの〜とあるが、べつにオモチャの交響曲のようなジョークではない。
アレグロの第1楽章は、軽快でポピュラーな主題によるもの。ドイツ人の作家と云われても、まるで分からない人もいると思うほどの、短いながらソナタ形式のしっかりした造り。マーラーが破壊したソナタ形式が、まさか東洋の島国でこんなにマジメに残ったなんて、いったい誰が想像しえただろうか。
2楽章はメヌエット風のアレグレットで、ABAの舞曲様式。2番もそうだが、諸井はベートーヴェンと同じほどにフランクに傾倒していたとのことで、3楽章制、3部形式を非常に好んでいる。あっさりしていて良い。
3楽章は、レントとなっている。たった15分間に、本当に西洋の大作曲家と同じほどの充実ぶりを見せている。日本人のクラシック愛好家として、本当に誇りに思いたい。
諸井は厳格な独逸流を日本へ根付かせた重要な作家だが、その中でも、日本的な部分を忘れていないのが、亜流ではない本物の証拠だと思う。日本人がどうして、また、如何にして西洋音楽をするのか。この永遠の命題は、いろいろな作曲家によって、いろいろな書法によって追求された。ここでも、作家は日本的な音階による旋律をドイツ流の緩徐楽章にもってきて、民俗楽派も真っ青のNIPPONアダージョを奏でている。こどのもため、というのには、あまりに本格的な、こどものこころを失わぬ大人のための小交響曲である。
なお、解説によると、なんと、15日間という短い期間で作曲されたそうです。
第3交響曲(1944)
大戦終結前年。戦闘もたけなわ、日本が負けに負けて、聖戦完遂などという「夢物語」を狂信的かつ暴力的なまでに信じているやつもいるなか、たいていの一般人は「日本は負けるのではないか」と、漠然としつつも、とてつもない不安に押しつぶされそうになっていた。一般人ですら分かることを、知識人たちの苦悩はいかばかりか。体制に虐げられ、しかし思想家ではないために反体制として死ぬことも出来ず、ショスタコーヴィチばりの迎合と隠匿を強いられた者もいたにちがいない。大日本帝国の終焉を告げる交響曲、落日の帝国交響曲としての価値が、確かに、あると思われる。2番を苦悩あるいは闘争の交響曲とすると、黄昏そして結末の交響曲だろうか。
3楽章制。
第1楽章には全体の約1/3を占める大きな「静かなる序奏」がついており、アンダンテで音楽が進む。ひとつの主題を育てる手法で、ボレロみたいなものといえるか、オーボエのソロによる、悩み、沈思しているようなテーマが、じわじわと全オーケストラへひろがってゆく様は、なかなか感動的だ。
主部はアレグロで「精神の誕生とその発展」となっている。諸井はアレグロがカッコよくって、好きなんですよ。アレグロ嫌いには、悪いですが。もっとも、アダージョも素敵なんですが。
アレグロといっても、戦争末期の音楽のこと。かなり不規則な音階による不安と焦燥を表したテーマをバイオリンが奏でて、それが第1主題。トロンボーンの第2主題と、第3主題まであって、それらが結合しながら真の主題へ発展し、諸井独自のソナタ形式を形成しているという事です。
とにかくシリアスでほの暗い曲調が、戦前には演奏されなかったという事実もうなずける。ただし、コーダの盛り上がりだけ、ちょっと「国威発揚」っぽい。
2楽章は短い間奏曲で、スケルツォ。「諧謔について」とある。まったくショスタコ的な発想ではないか。とうぜん、戦前の日本で、こんな「反戦音楽」を書いて、無事でいられるはずが無いが、これが反戦だなんて気づくほどの人間もいなかったろうから、まあ良いのだけれども。
ここでの「諧謔」とは、もちろん、大東亜戦争に対するブラックジョークなのは、云うまでもない。戦争とは、大義も名分も何も、ただの巨大な暴力のぶつけ合いに他ならない。トランペットの絶叫が凄い。
諸井絶好調のアダージョ楽章。3楽章は、この曲の白眉になるだろう。まるでマーラーの3番のよう。しかし、美しさと厳しさを持っている。魂への讃歌、祈りの音楽は「死についての諸観念」ということだそうです。
不協和音を伴いながら発展してゆく祈りのテーマは、日本との戦争で死んだ、また日本の戦争行為によって犠牲となったすべての人々、そしてなにより、赤い薄っぺらい紙キレ1枚で血も凍る戦場へぞくぞくと「投入」されていった兵卒たちの、怒りと、憎しみと、悲しみを救うための鎮魂歌なのだろう。
中間部の癒しのテーマの後、音楽は一転して不安と悲しみを表して、ティンパニの連打が処刑台への行進のよう。死のマーチか。
最後に、しかし、音楽はまた祈りのテーマを堂々と奏して、すべての魂を安息の地へと導いてゆく。
ブルックナーやショスタコーヴィチというよりかは、私は、この3楽章を聴いてみて、それほど過激や直接的ではなく、やはりマーラーのようなもの悲しいアダージョをもった、日本人的発想の、日本人の交響曲だとつくづく思った。もっともマーラーやブルックナーに較べると、かなり小規模で、それもまた日本人らしいというか。(正直、もっと長い曲だと思ってた)
大傑作というよりかは、自信と誇りをもって聴きついでゆく大事な作品。そういう印象を得た。
第4交響曲(1951)
ナクソスの3番を買いに行ったら、以前、買い損ねた4番入りの「諸井三郎とその門下の音楽」が他店舗での「売れ残り」ということで引き取られて並んでおり、我輩は交響曲の神様へ感謝を捧げつつ、小躍りして大事に抱え込み、レジまで走ったのは云うまでもない。
3番で、近代日本帝国と日本人の落日を描いてしまった諸井にとって、戦後日本人の180度正反対の世界を生きることとなった姿を、どのようにとらえたか、また、そういう戦後の社会が音楽へどのようなものを求めていたか。
答は、4番が知っている。
ここでの諸井に、あの、闘争や苦悩や、黄昏はもう無い。
その構成力は堅持されているが、平明な響きは、平和国家への期待か何かなのか。それとも、そこにあるのは、懐古的なものなのだろうか。平明だが書法は複雑を究めており、あの3番の後の諸井の音楽に対する考え方は、あくまでザッハリヒに、割り切って、新古典主義のような気もしてくる。
1楽章はめぐるましくテンポが変わり、ピアノが重要な役割を演じている。ここにあるソナタ形式はもはや通常のものてはなく、完全に諸井式というべきもの。序奏主題、そして各種主題発生した幾つものテーマが、変容したり合体したり、ありとあらゆる変貌をとげつつ、あくまで耳にスッキリと響く。固定されたリズムパターンも、それを助長している。
中間部ではまるでブラームスのように濃厚なピアノ協奏曲ばりの楽想も聴かれる。ティンパニが集結部を盛り上げて、堂々と閉じられる。
2楽章はアンダンテであり、静謐な雰囲気が対照的。一瞬のフルートの旋律が、なんとも悲哀を漂わせているが、冒頭よりしばし続く弦楽の瞑想的な序奏主題がまた、先行きのたたぬ戦後すぐの不安も表しているかのようだ。
3楽章はアレグロであり、2番同楽章のような緊張感と濃密的な音楽の階層が聴かれるが、時間的には、1・2楽章と同じく10分ほどのもので、2番の半分ほどとなっている。だから、よけいに密度が濃いというべきか。それとも、各種の主題の発展・関連が、短縮されているというべきか。圧縮されているというべきか。そのため、閉塞的ととらえる人もいるかもしれぬ。
いきなり響きわたるアレグロ主題。うおッ、相変わらずカッコええ! シロフォンとピアノを伴った序奏よりつながるのは、小太鼓のリズムに乗ったフーガであり、今後、このフーガが楽章を支配する。
解説によると、聴いている分にはなかなか明確な区域わけは難しいが、呈示・展開・再現・第2展開・コーダという区分にわけられるようだ。この複雑な構成の中にも、平明さを失わないのが、さすがの手練か。第2展開が今交響曲の白眉であり、なんと3重対位法による豪快かつ緻密な盛り上がりが我々を待っている。
それからコーダが全てを振り返って、大きく4番を締めくくる。
鋭い不協和音に、何ともいえぬ聴後感を残しながら。
以上のように、これもフランク流の純然たる3楽章制器楽交響曲であり、30分ほどの中規模作品だが、内容は恐ろしく濃く、諸井の構築性をいやというほど味わえる。2や3のようなある種の情緒的なものが廃された、日本新古典主義的な傑作に思う。
残り、1と5。はやく録音されるのを強く望む。また、2と4も最発売を望む。できれば、統一された指揮者とオーケストラによる、交響曲全集を望む。
尾高さん、札響で2番やらねえかな。。。
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