土井田 誠(1958− )
作者より、かなりユニークな交響曲の創作をご紹介いただいた。その名も即興交響曲である。なにがどう即興なのかというと、電子楽器を使用しているものの、DTMではなく、じっさいに演奏しながら多重録音を繰り返して作曲。しかも、記譜せずに、「或る程度、頭の中に出来上がっている音楽を基にして即興演奏を行い、そこで偶然に得られた音型や旋律、リズム等に触発された新たな即興演奏を元の即興演奏に重録音し、そしてまたそれを基に、頭の中で組み立て直したり、さらなる即興演奏の偶然性に影響されたりしながら、調整〜微調整を加えていって曲を仕上げる」(作者談)という点で、かなり特徴的で面白い試みである。
作風としては作者好みの新古典主義的な、即興というわりにかなりカッチリとした構造をもっており、かつ、即興演奏ならではの展開のカオスや、無理に合わせている部分もまた即興ならではの旨みであろう。
リンク先の感想でもどなたかが書いてあったが、即興といってもジャズのように一定の法則に従ってその場で自由自在に演奏するというものではなく、入念なる下準備の元、満を持して何度も演奏しているという点で、協奏曲のカデンツァに近く、それらを多重録音して曲に仕上げているので、多重的多層的なカデンツァの成果とも言えるものになっている。
なお、本サイトではアマチュアであろうとも作者が交響曲と名付け発表しているものを鋭意とりあげている。
第1即興交響曲(2018)
即興作曲交響曲という意味ではなく、即興演奏交響曲というべきもの。
4楽章形式ではあるが、全体で9分ほどのミニシンフォニー、あるいは擬古典的、古典類、古典様交響曲。全て電子楽器による作者の演奏しながらの多重録音。作者好みの新古典的な作風であるばかりでなく、現代的な非調性、非リズム、非音調へのアイロニーも含まれているという。また作者によると第1楽章のテーマが第4楽章に現れ、循環形式でもある。従って即興でありつつ、記譜していないだけで、充分に構築的な様相を得ている。
とはいえ、主題の展開や(聴いているだけでなんにも分かっていない私が偉そうに言うのもなんなのだが)ソルフェージュに関してはやはりアマチュアの限界も感じるが、逆に自由な歌いっぷりが清々しい。
古典派というより、むしろバロックにまで遡っている雰囲気がどこか懐かしい。音色的にもオルガン風で、まるでオルガン交響曲や、ゲームミュージックのようにも聴こえる。
冒頭から、弦の重厚にして敬虔な雰囲気を醸す魅力ある音調。それらがオスティナートで主題を執拗に繰り返す中、素朴な木管楽器が入ってくる。古典的に展開らしい展開もなく経過部というほどの推移を経て、さらに重層的多層的になり、やがて遠くへ去って行く。
第2楽章は、やはり同じ編制による祈りの空間が表現される。ロシア聖歌のような朴訥とした音調がしみじみと響いてくるし、ホッとする。第3楽章はテンポアップし、擬似的なメヌエット。踊るような木管の響きか愉しい。この愉しげにスキップする短いテーマが、第3番と第4番の終楽章に流用される。
第4楽章は第1楽章の音源を加工したものだそうで、電子楽器による作曲ならでは。より重層的となった響きが、荘厳な雰囲気を強く醸す。さらに、なんとここでトランペット(だと思う)とティンパニが登場! 祝祭的な気分を盛り上げる。どんどん厚みを増して、高みへ登って行く。そして、遥か天空の彼方へ浄化された魂を運んで行くのである。
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第2即興交響曲(2018)
5楽章制で11分ほどのの短い即興(演奏)交響曲。無形式ということだが、擬似的な古典的スタイルは踏襲されている。第1楽章は弦楽のみでさらにバロック的雰囲気が面白く、また「いかにも」な響きの構築に成功して、建築的即興という一種のパロディーにもなっている。
第2楽章には、弦楽の調べに加えて明るいフルート(音色的にリコーダーでも良いと思う)が鳴り渡り、田園風な音調となる。バロック的な疑似構築は変わらず、第2番の大きな特徴になっている。第3楽章では再び弦楽のみとなり、響きは重厚になる。自由形式で、まさに即興演奏というに相応しい形。
第4楽章ではさらに同じような進行に木管類が加わってフィナーレ的な盛り上がりを見せるが、終わらずに第5楽章に続く。執拗で分厚い弦のオスティナートに金管や打楽器が入ってきて、祝祭的な気分となる。そして、最後はまるで指輪物語のエンディングの如く、遠く光の降り注ぐ世界へ向かって消えて行く。
無形式というだけあり、交響曲というより古典的な組曲の様相を呈している。しかも速い楽章は無く、全体に大きな擬古典的な歌無しカンタータのような、聖歌集のような。この不思議な清浄感は、土井田の大きな魅力の1つだろう。
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第3即興交響曲(2019)
リンク先動画では即興交響曲ではなく、普通の交響曲第3番であるが、ご紹介のメールでは即興交響曲になっているので、ここでは作者のメールに合わせる。
というのも、どうも即興演奏に変わりは無いが、かなり予め造りこんでいる部分が多く、完全な即興ではないという。それでも、即興演奏での創作に変わりは無く、即興交響曲と言っても過言ではないという意味であろう。4楽章制で9分ほど。
1番、2番と比してかなり趣が変わり、格段にリズム処理が面白くなっている。第1楽章は、バッソオスティナートの冒頭からこれまでとは雰囲気が異なる。ドラクエ1の、竜王のテーマを思い出した。それへ高弦やフルートなどで牧歌的な第1主題が重なり、すぐに同じ趣の第2主題が加わって、けっこう本格的。展開部は短く単調で、小経過部といったところ。もともとミニシンフォニーの様相なので、軽い作りである。再現部があり、サッと終結する。
第2・第3楽章は両方とも緩徐楽章で、2つで1つの楽章だという。第2楽章はゆったりとした弦楽の水面。重なり合う弦楽の様子がまるで波紋のようにひろがって行く。続く第3楽章は、緩徐楽章というより遅めのメヌエットのような雰囲気。同じく厚く重なり合う弦に、素朴な木管が彩りを添え、オルガンの即興演奏よろしく短く終わる。
第4楽章の第1・第2主題とも、即興交響曲第1番第3楽章のテーマが準用されているので、聴き比べるのも面白いだろう。オスティナート主題が提示されきらないうちに展開がはじまり、多層的な音響的カオスへと雪崩こむ。これで完璧に計算、設計された複調、ポリリズムであればアイヴズのようになるであろうが、そこは即興演奏の緩さと面白さ、親しみやすさが勝る。延々と続くような描写でありつつ、絶妙に変化して行く様は、代わり映えのしない風景の中に、光や風、水や木々の揺らぎが絶妙な変化を与えているのに似ている。気づかぬ者には、一生気づかない世界がある。
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第4即興交響曲(2019試作)
試作、なのだそうである。
というのも、第3番の改作であり、かつ、まだ完成に不満があるとのことで、試作段階、ということであるらしい。
しかしそこは即興演奏の悲しさ、失敗したところや直したいところをやり直すには全パートを弾き直さねばならず、えらい手間がかかるので、一発勝負でアップロードされている。そこのところが、いかにも「即興」の醍醐味で、逆に面白い。4楽章が3楽章となり、11分ほど。
冒頭から提示部までは、3番とほぼ同じように聴こえる。音色やリズムなど、弾き直しや電子楽器の設定の変更で、異なる印象となっているが。後半からは、絶妙に変化が施されている。これがまた絶妙すぎて、なかなか聴いているだけでは分からない。楽譜があれば、また弾いている本人にしてみれば、ぜんぜん違うでしょう、と云われるかもしれないが……。そこは、何度も容易に再生できるYouTubeである。聴き比べて楽しめる。
第2楽章は新作。だと思う。弦楽のフガート調の主題に、跳ね回る第3楽章の主題変奏が低弦で入って、それが木管で変奏されつつ弦楽に乗ってくる。それが終わると、オルガン的な即興の雰囲気を楽しみつつ、再び木管が出現する。重奏がしばらく祈りを捧げつつ、やがてゆっくりと終わる。
第3楽章は第3番の第4楽章を改作したもの。主題提示が同じだが、響きはより厚くなり、テンポも異なっている。展開も微妙に違うように聴こえる。弦楽と木管の多重的な追いかけっこが続き、途中、木管のソロがポーンと出現して新鮮さと斬新さを演出している。が、これはどうも多重演奏録音に「失敗」しているらしい(笑) しかしそれが凄く良い感じに聴こえるので、結果オーライというところか。その後、終結部が戻ってきて、重厚さを留め置いたまま終わる。
1番、3番、4番は主題の流用、準用が顕著で、連作として考えた場合、大きな循環形式とでも呼べるだろう。
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第5即興交響曲(2019)
第3番とその改作の第4番では、即興といえどもソナタ形式めいた形式感がかいま見えていたが、こちらは1番、2番に通じ即興性に重点を置き直した、独特の形式で書かれている。
作者曰く、その名も「多部分連結形式」である。
同じ主題を繰り返し使いつつ、それをブロック構造として1つの主題とその展開を形づくる。それを幾つもつなげ、しかも一瞬の全休止によって明確に区別される。ブルックナーの手法をヒントにしているという。ブルックナーは転調や展開の超変態(褒め言葉)なので、もちろんあれほど複雑怪奇ではない。
新しいブロックが出現するたびに素の主題が頭から再現されるので、何度も何度も同じ主題が繰り返されるように聴こえるが、その後の展開が微妙に異なるので、全体として展開していると定義できる。疑似ロンドのようでもあり、疑似ミニマルのようでもあり。面白い試みだと思う。
なにより凄いのは、これを弾きながら多重録音して作っていることだろう。最初に出てくるブロックを複数回再生し、それへ様々な展開を重ねて演奏してゆくことで、後段のブロックごとに変化をつけている。
4楽章制で20分ほどと、これまでの作品の倍の規模をもっている。
第1楽章はしかし、ワンブロック構造で短く、提示部というか序奏のような形。弦楽器の冒頭からすぐに金管や木管が入ってきて、自由に展開する。後半部にはティンパニも入り、厚い響きが炸裂してゆく。
第2楽章は緩徐楽章であり、2つのブロックが置かれている。教会音楽めいた、土井田の得意の楽想でしっとりと第1の部分が奏され、休止を経て第2の部分へ移る。しっかりとワンブロックとして完結しており、そこで終わったと思わせておいてまたリピートで戻るようなものであり、しかも、2回目は変化がつけてある。後半は同じ主題をテンポを遅くし、木管などの「からみ」も絶妙に変わっており、まるで間違い探しのような、変奏曲のような。
第3楽章は舞踊楽章で、短いブロックが5つ置かれている。弦楽の速いパッセージに木管が美しく乗る部分から、次は弦楽の厚さが増し、動きも複雑に。次は動きがさらに速くなって、木管も素早く展開して踊る。次はやや長い。弦楽のフガートが展開され、さらに木管がそれへ対抗するように派生主題を奏しつつ、二重フガートへ。そこから自由に小展開して、木管が鳥の声のように鳴り渡り始め、やがて終結へ向かう。最後の部分は最もテンポの速い、狂い咲いた桜が散ってゆく様のような儚さを持つ。
第4楽章も短い2つのブロックからなる。第1楽章と同じ性格を持つ。オルガン的な弦楽器の横の動きに、木管が縦の動きを合わせて、金管とティンパニが突き刺さってくる。この動き方は、バロックそのものである。グロッケンのような他の打楽器も入ってきて、そこが現代的で疑似バロックというか、新古典的というか。第2部分はまた同じテーマを繰り返しつつ、より派手な響きになって、全体の終結を演出し、形作る。
作り方としては、芥川也寸志のエローラ交響曲にも似ているかな、と感じた。(曲想ではなく、あくまで「作り方」である。) DTMであれば、このブロック構造を自由に入れ換えて演奏もできるのだろうが、演奏しながらの多重録音ではそれは難しいと思われる。この即興交響曲シリーズは、即興ゆえに再現芸術としては「再現が難しい」という不思議さ、面白さもある。
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第6即興交響曲(2019)
土井田の創作は、ここにきてなんと無調へ向かう。即興で無調を演奏するという「スゴ技」だ。驚きを禁じえない。
それまでにも無調の即興組曲を制作していた土井田が、それをついに交響曲で大成させた意欲作といえるだろう。5番と同じ「多部分連結方式」、さらに無調にして「12音技法風」で構成されている。
12音技法風というのは、もちろん「12音技法のような曲」ということを意味する。1番から5番まで、ソナタ形式風、ロンド形式風、あるいは疑似ソナタ、類ソナタなど一種のパロディめいた作風をとってきた土井田が、ここでは疑似12音技法に挑戦した。
12音技法はロジカルな作曲を通り越して、もはや数理の世界に入る厳格な技術で、プロの作曲家ですら、一所懸命計算し作曲して実演に接してみたところ「計算が間違ってた……」と赤面する場面があるほどだ。愛好家レベルが、生半可な技術で立ち向かえる代物ではない。
もっとも、ただ聴くほうとしては、計算間違いにより、たとえ本来の音ではない音が鳴っていたとしても、全く気付かないのがご愛敬もとい難点である。
さて土井田の6番であるが、いきなり1時間越えの大曲となっているのも驚愕だ。これまで10分前後の作品が多く、初めて規模を拡大した5番ですら、倍の20分であるところに、いきなりその3倍の60分とは。土井田はいきなりどうしちゃったのか!? というレベルである。
長いのには理由がある。多部分連結の「部分(ブロック)」が、やたらと多い。リンク先の解説に詳しいが、2分のブロックが15もあればもう30分となる。
無調ならでは、また即興演奏の多重録音再生ならではの騒音環境音楽。延々と続く、音の羅列の中の微かな変化。都会の雑踏にも似た、無意識の雑音。決して心地よくは無いのだろうが、特段不快でもない、生活してゆく上での逃れられぬ日常の中の形而下の音。それは、人々の心の中に響いている軋音なのかもしれない。
プロの作曲した技巧に凝った精神性・抽象性の高い作品ではなく、我々と同じ視線で綴られた、プログラムのバグのようなもの。パソコンの中に溜まりやがてリソースを喰う、もはや何だったのかも覚えていない屑キャッシュの履きだめ。
それらが、延々と音になって流れてゆく様は、ある種の無常を想起させ、まるで禅のようだが、逆にそんな崇高感を出すことは当作への侮辱にすら思えてくる。人込み。それでいいじゃないか。という思いとなった。
ピ、ポ、パ、ポ……という一昔前のプッシュホンめいた特徴ある動機を主とする「ブロック」が12も並ぶ第1楽章は、それだけで30分を要する。録音した主動機のブロックを自動演奏で繰り返し、そこへ他の楽器を1種類ずつ無造作に重ねてゆく手法であり、やろうと思えば延々と続けることが可能だ。作者の云う通り一種の環境音楽であり、「なにかがどこかで鳴っている」音を象徴しているように思える。私自身、無調の曲やまして12音技術など、専門に習ってもそのロジックは完全に理解はできないし、感覚的にも何をやっているのか分からないので、鳴っている音響自体をまるごと感じるようにしている。動きや響きそのものを、楽しむというか。そういう聴き方が正解なのかどうかは分からないが、そういう風に聴いていると何となく楽しいのもまた事実である。
なお、調は放棄されているがリズムは3/4拍子が厳格に守護され、逆に不気味さを演出している。
リンク先の解説に詳しいが、弦楽四重奏による主動機部分に、それぞれ弦バス、フルート、オーボエ、クラリネット……と、楽器が1種類ずつ加わって形を変えてゆき、延々と続いてゆく。旋律の変化というよりもはや音色の変化を味わう。途中で飽きてくる場合も、またそれは正しいのだろう。
個人的には、動機というか、センテンスとしての「ブロック」が、もっと短くてもいいと思った。ヴェーベルンの凝縮・圧縮形式に通じるものがあり、もっと凝縮したほうが「それっぽい」と思う。「ブロック」をいちいち頭から再生するのもまた、即興演奏としての特徴でありかつ限界にも感じる。本当に12音作曲であれば、動機を逆から再生したり、半分にしたり、もっと短く寸断したり、上下逆さまにしたりして、そこに同じように加工した和音や音形を縦に重ね、あるいは横につなげる。そのとき、適当にやるのではなく、この音にはこれ……この動機にはこの動機の逆をつなげなくてはならない……など、予め定められた公式のようなものがあり、それを計算し間違いなく配置するのが一仕事であるうえ、おそらく殆どの聴衆には、その加工の数理的快感はまったく分からない。
土井田は、そういう本当の12音技法に対するオマージュにして、アンチテーゼも含めて、無調風12音風の即興交響曲を問うている。すなわち、
「おれが適当にやったって、大して変わらねえだろ!」(違ってたらすみません。)
お経のように、ブルックナーの長大な楽章のように、もはや感覚が麻痺してきて、無我の境地に達してきたならば、それはきっと作者の狙い通りなのかもしれない。
第2楽章も同じ方式であるが、こちらはリズムも放棄されている、完全な12音風音調。「ラヴェルのボレロのように」最終場面へ向かって楽器の増えていった第1楽章と異なり、中心部に向けて増えてゆき、ピークを作ってまた小さくなってゆく山型形式。リンク先の解説にある通り、14のセンテンスがブロックとして連なっている。こちらは、1つの動機ブロックが第1楽章より短く、従ってよりヴェーベルンっぽい響きの構築に成功している。少しずつ変容しているが、動機そのものがまったく展開しないのも、また土井田風味である。その独特の響きが、オリジナルな面白みとなって迫ってくる。アマチュアというより、これはパロディや細部への執拗なこだわりを持つ、ある種の同人活動の面白さだ。かの不気味社に通じる、どうしようもなく笑える狂気が感じられる。もちろん、褒め言葉である。
第3楽章は4/4拍子。10のブロックが連結されているが、9ブロックには自作の「室内管弦楽のための抽象音楽第5番」の7ブロックに、最後は第1楽章の12ブロックが連結され、複雑に進行する。1楽章に通じる息の長い音形に、様々な楽器が加わってゆく方式。第1楽章と非常に似通った音形だが、音価が引き延ばされており、より12音の展開っぽい。9ブロックから趣が変わり、別曲がいきなり連結されてカオスとなる。さらに最後は第1楽章の12ブロックが連結され、大きな循環形式の模倣となり、巨大なるパロディ12音風音楽を終結する。
作者のYouTubeはこちら。
なお、本人も後に短縮版なるものを作っているところを見ると、やはり、流石に長すぎたと思ったものか。
短縮番のYouTubeはこちら。
気分を味わうのでは、短縮版も味があって良い。全曲版のどの「ブロック」をどのように採用しているのかは、リンク先を参照願いたい。
第7即興交響曲「鎮魂交響曲」(2020)
ここでは、性格的交響曲が無調で描かれる。3楽章制で12分ほどと、構成の面では1〜3番に回帰している。作者の解説によると、2019年までの災害の犠牲者への鎮魂の想いが強く、この作品の製作につながったとのこと。またリンク先に解説があるが、英文タイトルにして「副題」である Threnody
for the Victims of Disasters(あらゆ る災害の犠牲者のための悲歌) は、先日亡くなったペンデレツキーの「広島の犠牲者によせる悲歌」を意識したという。
各楽章にはタイトルが示されている。
第1楽章「災害の脅威と慟哭」 ペッテションを思わせる、重苦しい弦楽のドローンに、ティンパニが慟哭の音を突きたてる。音色的にどうしてもシンセサイザーの弦楽器はオルガンっぽくなるが、それはそれで似合っている。渦巻く漆黒の津波を思わせる、不安と悲しみの音楽。暗黒の中の美は、まさにペッテションに通じる世界であろう。
第2楽章「悲痛な祈りと慰撫 〜 不安を孕みつつもひと時の平穏」 多部分連結方式。短い4つのブロックによる。無調ながら旋法的にも聴こえる弦楽合奏の、即興演奏が繰り返されてゆく。ブロックごとに、低弦や高弦が加わってゆく。繰り返されるプロックごとの祈りが、崇高さを演出する。
第3楽章「甦る不安と哀悼」 第1楽章と同じ音源を使用し、後奏と捕らえることができると思う。ティンパニの打突を新しく重ね直し、最後に鎮魂の鐘の音が鳴る。チューブラーベルというが、電子音源の関係で、まるで本当にカリヨンのようであり、そっちのほうが曲の意図する性格にふさわしい。
作者のYouTubeはこちら。
第8即興交響曲「無調交響曲 II」(2020)
こちらも無調。5楽章制で、20分ほど。2とあるが、1は6番のことだそうある。
第1楽章は、自作の「室内管弦楽のための抽象音楽第7番」からの引用とのこと。多部分連結方式。3つのブロックからなる。なんと多数の打楽器が動員され、無軌道に弦楽や金管の短いパッセージと共に、偶発的風に現れる。3ブロックめで、楽器の数が最大となる。よりヴェーベルンの「精神」に近づいた、圧縮主義的な小品。作者曰く「ガラクタ音楽」
第2楽章は12音音楽風の短いカノン。音列風の主題が提示され、それが繰り返されるところへ管楽器やゴング等が重なってゆく葬送の音楽。
第3楽章は3つのブロックによる三部形式の「虚脱的」緩徐楽章。そのとおり、やけに陰鬱な動機が提示され、第2ブロックではそれにティンパニとオーボエが加わる。前楽章が葬送の曲なら、こちらは賽の河原だ。3ブロックめでは、それに無常観たっぷりの独白フルートが加わる。
第4楽章は5つのブロックによる自由形式。またも「ガラクタ音楽」だそうだ。かなり長く、当曲の半分近くを占める。1楽章と同じく、様々な楽器を使用した、偶発的サウンドによる短いパッセージの羅列。2ブロックめで、何種類かの打楽器が加わる。まさに、現代音楽にありがちなサウンドの正確な模倣。3ブロックは、それへ木管が入って長音を提示する。4ブロックはテンポが上がる。5ブロックではさらに楽器が増えて、カオスとなる。
そして第5楽章は、2つのブロックによる終曲となっている。速いパッセージによる無調主題が提示され、リピートで繰り返されるように2ブロック目になると楽器が増えて新たなテーマも加わってコーダとなる。
7番と異なり副題めいた性格付が無い分、より抽象的で純粋音楽に近く、無機質でドライ。同じ無調作品でも、7番はかなり(ある種のベルク的な)ウェットさがあり、対比すると面白い。まるで、兄弟作のように感じた。
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また、なんとこちらも短縮版がある。短縮するほどの規模ではないとも思うが、なるほど、他曲の引用だった第1楽章を丸ごとカットし、ヴォリュームのある第4楽章を半分以下にするなど、より切り詰めた世界へ挑戦している。
短縮版のYouTubeはこちら。
第9即興交響曲「復興」(2020)
ついに、そして早々と即興交響曲のシリーズに「第九」が現れた。4楽章制で17分ほど。調性と無調の入り交じる、複雑な即興演奏による。標題交響曲に近いが、交響詩のような具体なプログラムがあるわけではなく、あくまで根源的標題である。また、それぞれの楽章にも副題がある。全体的に、東日本大震災からこちら、各地の地震、大雨洪水、果ては2020年に突如として日本を含め世界中を襲った新型コロナウイルスの猛威まで、人類の英知と精神を試されているような情勢にあり、さらには、これまでも幾多あったそのような苦難へ先人が立ち向かい、打ち勝ってきたことへの讃歌と、その苦悩への挑戦、勝利への願いをこめて、復興という標題と、当曲の音調があるという。
第1楽章「災害の脅威と犠牲者への挽歌」 冒頭から重苦しい無調による苦難の提示。7番の鎮魂交響曲の世界を直接、ひっぱってきている。4分ほどの、短い苦悶である。弦楽がうねり狂い、厚く重なる中にティンパニが死の太鼓を連打する。ティンパニによる死の太鼓、死のリズムは、ベートーヴェンの3番の2楽章の葬送行進曲にも登場する。これは、ドラと並ぶ西洋音楽の重要な死のモティーフである。しかし、ここではドラではなく最後にカリヨンが鳴り、調性も戻って救済への道が示される。
第2楽章「復興の兆し」 まず、4楽章の主要主題につながる主題を弦楽によってゆっくりと、カノン風に提示される。カノン風というのは、展開しながらフガートとなるので、完全なカノンではないということらしい。三部形式に似るが、作者によると変則的三部形式である。詳細は、リンク先にある作者自身の解説を参考願いたい。中間部では低弦のオスティナートに乗ってゆったりとした朗らかな旋律が繰り返され、展開が曖昧なうちにコーダに到って短い終結部をむかえる。
第3楽章「死の舞踏」 無調による、グロテスクなスケルツォ。こちらは3部分によるブロック形式。無調円舞曲という自作曲とつながりがある。弦楽とフルートによる不気味なワルツから始まり、続いて第2部分ではさらに管楽器とピアノが打楽器的用法で加えられる。第3部分ではホルンの無調主題によるアンサンブルが入り、ストラヴィンスキーの春の祭典に触発されたという強烈なリズムも加わって、カオスの中に原始主義的なビートが刻まれる。
第4楽章「復興と祝祭」 短い祝典音楽。これも自作曲の復興序曲の改作引用。3楽章からアタッカで、ハルサイリズムによりスタートする。弦楽により引き継がれた大地のリズムが、復興の象徴の足音となる。それへ乗って弦そしてフルートによる「春の主題」が朗らか、かつ朗々と鳴り響き、希望の光を見いだす。展開が即興的に進行し、2楽章で提示された「お囃子的」リズムがピアノによって速度を上げて混じってくる。(ただし、音量の関係でちょっと聞き取りづらい。) すぐにティンパニが祭り太鼓を演じ、おめでたい気分を盛り上げる。1楽章で同じくティンパニによって提示され、3楽章でむき出しにされた死のリズムとはうって変わった、喜びと生のリズムである。短いながら讃歌というに相応しい、土井田の第九のラストを飾る歓喜の歌となっている。
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さて、いつも「短縮版」を作る土井田だが、9番に限っては物足りないと思い、延長版を作成した。私も、こちらのほうが聴き応えがあって良いと思う。
延長されたのは、第1楽章と第4楽章。ブロック接続方式を採っているため、延長といっても既存の曲や既存曲内の部分(ブロック)をうまく接続する方法になっている。完全な新曲ではないものの、交響曲を初めとした作品群全体を幾種類もの統一されたモティーフで構成し、それらの中身を自由に接続、または分解することによる大きな創作様式にとる事ができるし、一種のブロック的循環形式ともとれるのではないだろうか。
10分ほど長くなって、4楽章制で27分。第1楽章は1ブロック形式から2ブロックへ増やし、規模を倍以上に。第1ブロックを、新規録りしている。音調としては変わらず、長い序奏がついたといった風に。無調による沈鬱な嘆きの歌の中、中間部でカオスの中へ突然荒涼とした世界が広がり、惨禍の中に無人の野がひろがって終末観を出す。そして再びぶ厚い惨劇の音調が復活してゆき、重苦しい世界を表現している。全休止から、改訂前の第1楽章へ。
第2・第3楽章は、改訂前と変わらない。この第3楽章は、どこかで聴き覚えがあると思っていたのだが、大昔に若き阿部寛と仲間由紀恵でやっていた、テレビ朝日系列のミステリー・ドラマ「トリック」の劇中音楽に、雰囲気が似ている。最初はマニアックな深夜ドラマだったが、14年もシリーズが続いたので、けっこう人気が出たように思う。懐かしい。ニヤニヤしてしまう。
第4楽章も、1ブロック形式から4ブロック形式へ規模が倍増されている。もともと既存曲の復興序曲の流用であったが、前後に、同じく既存曲の「即興交響舞曲第2番〜春〜」を第1、第3・4ブロックとして挿入。これらの楽曲はみな「春/復興の主題」が統一しており、類似性の高い曲を組み合わせていることになる。交響舞曲のほうは短い5ブロックで構成されており、その中から第1・3・4ブロック部分を、そのまま復興序曲の前後に挟んでおり、ブロック部分の類似性、連続性をオスティナートのようにしているのが面白い。なお、終結部分は新たに演奏し直している。また楽章全体として1〜4のブロックを主題提示、展開(復興序曲)、再現、終結として、主題が1つの「一元ソナタ形式」(早坂文雄)に似る。
延長版のYouTubeはこちら。
第10交響曲「沈黙交響曲」(音楽史上最も大規模なオーケストラの為の) 〜故ジョン・ケージ氏(1912-1992)に捧ぐ〜(2020)
土井田の創作力は、立て続けに作品を発表する。だが、10番は高レベルの「問題作」であると定義せざるを得ない。なんといっても、40分間無音。その名も、交響曲「沈黙」だ。
当サイト「後の祭」の交響曲のページは、御大層な曲解説や勿体ぶった批評で格好をつける企画ではない。こんな曲がありますよ、聴ける機会があったら是非とも聴いてみてください! という「曲紹介」の企画である。
それなのに、聴こうと思ったら無音なのだから、これで終わりになってしまう。
それも寂しいので、勿体をつけることにする。
4楽章制。40分。無音。
作者によると、ケージの同じく問題作にして有名作「4分33秒」を先例とし、交響曲でそれを行ったという。また、不肖、私九鬼蛍の、当企画ページ冒頭に掲げている「交響曲は全てを内在する希有の音楽存在」に触発されたという。その中には「無音」も含まれる、ということだそうで、私の何気ない独善的なつぶやきが何方かの創作の根源になったというのであれば、こんなうれしいことは無く、有難いことで、厚く御礼を申し上げたい。
それはそれとして、当作を鑑賞するには、やはり本歌である4分33秒を参考にするのがよいと思い、ネット百科事典へ飛んでみた。それによると、4分33秒はとらえ方によって様々な意味や意義があり、まず冗談作品であるともとれるし、単なるパフォーマンスともとれる。しかし、音楽とは何ぞやという問いを投げかける思想的意味を見出すこともできる。また、ピアノの蓋を開け閉めする音、譜面をめくる音、奏者の椅子の音、観客の出すざわめきや咳払いなどの音、微かに響くホールの外の音……等々を聴く、一種の環境音楽であるともとれる。
ちなみに4分33秒は楽器不問で、ピアノでもオーケストラでも歌でも、なんでもいいので全楽章休みを表現する。また、4分33秒は初演者がたまたま4分33秒休んでいたのでそれが慣例となった経緯があり、別に何分でもよいそうであるし、正式なタイトルでもない通称であるという。
さて、当作も、4分33秒の鑑賞態度がそのまま通用すると考えるのが妥当だろう。
すなわちこれは聴く者(わざわざ時間を割いてYouTubeを再生してくれる人)をバカにする悪質かつ悪趣味な冗談であり、目立ちたいがための意味の無いパフォーマンスであり、音楽とは、交響曲とは何ぞやという問題提起である。また、交響曲という存在の奥の深さを知る高度な思索的成果であり、40分間自己を見つめ直す貴重な機会である。この40分の間に本を読んでもいいし、TVを見てもいいし、ゲームをしてもいいし、他の曲を聴いたっていい。それらの音が、都度この交響曲の中身となる。「何だこれは、魂消たなあ」とか、「くだらね」とか、「こんなのフザケてる!」とか、「これは逆に深い!」などとブツブツ40分間つぶやいたって構わない。その独り言が、この交響曲そのものとなる。
この交響曲は透明な器であり、虚無であり、虚構であり、空虚であり、濃密となる。その全てを内在する、まさに驚異の存在となり得る。(なる、ではない。)
リンク先の作者のページでも、無音の動画の下に作者自身の解説がたくさんある。その解説こそが本作の正体だ、という認識はおそらく正しい。そこにあってそこにない沈黙する交響曲は幽霊であり、ドッペルゲンガーであり、パーマンのコピーロボットようにスイッチを押す人(再生する人)によってなんにでもなる姿の無い怪物であって、こけおどしの枯れススキだ。形式主義の権化である交響曲の、究極に形の無い結果でありつつ、再生者への挑戦であり、有形と無形の狭間で一人で踊っている滑稽な姿であり、それを見つめる自分のマヌケな顔なのだ。
などと、グデグデ考えて遊ぶためのもの……でもある。かもしれない。作者の解説を読みつつ、無音の音声動画を再生していると、無性に可笑しくなってきて、ふき出して笑ってしまった。
作者のYouTubeはこちら。(無音です。)
2021/8/28 追記
さて、これもまたまた土井田が「短縮版」を作成。無音に短縮も何も無いような気もするし、こんな、短縮というより圧縮、爆縮してしまっては、単なるケージのパロディになってしまうような気もするのだが、苦行のような40分よりは純粋にユーモアとして楽しめる気もする。が、アイロニーとしては、やはり40分版のほうが意味があるようにも感じる。そう考えると、無音の時間という諧謔的な問題を考察するのに、短縮版の価値が出てくるような気もしないでも無い。
またご丁寧に楽章間の咳払いと、最後の拍手まで入っているのだが、これは効果音というより音楽の一部ととらえるのが妥当だろう。いわゆる、環境音楽というやつだ。
実際にお前は40分間 「無音を聴く」 のか? と問われれば、上記の記事を書いている内に40分経っていたというだけで、二度と 「聴く」 のは無理と答えるほかは無い。
そうなると、短縮版であれば、意識的物理的に 「聴く」 のも可能である時間であることを考えると、その珍奇にして珍妙なる存在意義も現れるのではないだろうか。
短縮版YouTubeはこちらです。
第11即興交響曲「葬送交響曲」(2020)
作者の言によると、「瞑想曲シリーズ(Meditation Series)を6曲ほど作って参りましたが、この瞑想的な音響を取り入れた交響曲を作ってみたいと考え」て、それらの音源を加工し、新たな演奏も加えて、11番目の即興交響曲としたようである。
また、シンセサイザーによる生楽器の音色音源ではなく、人工的な創作音源を使用し、合唱音源も使って、後半部は合唱曲のようになっている。従って、もしこれを生楽器で演奏したと仮定したならば、土井田では初めて合唱付の交響曲となる。
2楽章制で、演奏時間は15分ほど。無調ブロック結合形式だが、第2楽章終結部に到って調性感が現れる。
第1楽章は、短い無調12音技法風による9つのブロックによる。オスティナートのような繰り返しの中に、少しずつズレや歪み、異物が生じてゆく。間違い探しのようで、一種のヘテロフォニーにも近い感覚がある。執拗で無味乾燥な繰り返しは、本楽章を作成中の作者にコロナ禍による大量の埋葬のイメージを想起させたようで、一編の詩を生み出しており、リンク先の解説にあるので参照されたい。私としては、この詩は本作の根源的標題ではなく、むしろ詩の方が曲より発想されたものであるので、あくまで参考程度かな、といったように感じている。
(なお、作詩によって再び曲へ影響を与え、修正を加えているそうである。)
第2楽章は、3つのブロックによる。第1楽章と同じ素材を加工しているが、趣はまったく異なる。フルートの無調のソロにより、無常観たっぷりの時間がしばし流れる。そこへ、珍しく楽器音源ではなく、シンセサイザーによる人工音が加わって、まさに冨田勲の世界へ近づく。フルートにオーボエやホルンのアンサンブルから宇宙音が重なってきて、合唱が神秘的に世界を彩る。
日本では幸いなことに(今のところ)死者は少ないが、世界では何十万人と亡くなっているとんでもない災いとなった新型コロナウィルス。この神秘的な終結部は、魂の救済へのささやかな祈りとなっているのだろう。
作者のYouTubeはこちら。
第12交響曲「涅槃幻想曲」(2020)
ずっと即興演奏ということで、じっさいに鍵盤で演奏しながら多重録音するという方法で創作を続けてきた土井田が、2020年に至りついにDTMを導入。その3作目にして、初めての交響曲が、この第12番ということである。
手始めに、自由形式で序曲的なものを制作したのが、タイトルからも分かる。涅槃というのは、作者が中学生のころより温めてきた主題が、涅槃を想起させるからそのように名付けているようだ。単純な三元三部形式であり、複合三部形式ほどの展開は無く、ABC
A'B'C' A''B''C'' と流れて行く。また、これは序破急であり、提示・展開・再現(展開2)でもある。
作者はこれを果たして交響曲と銘打って良いのか、と考えたようだが、ものすごく古典的な、バロック時代のフランス音楽の簡単な三部形式のシンフォニアも想起させるので、私は充分交響曲として良いと思うし、ハチャトゥリアンだってイベント用に作曲した祝典音楽「交響詩曲」をそのまま紆余曲折を経て第3交響曲「交響詩曲」としているのだから、もはや、交響曲はなんでも良いのだ。
(だいたい、第10番で40分間無音の交響曲を発表しておきながら、今更何を云っているのだろう……というw)
第1、第2、第3の各パートはそれぞれ3つのブロックに別れ、ほぼ同じような音形が続き、音色を異にすることで変化を与えている。全1楽章制で、演奏時間は約10分。
冒頭から弦楽合奏によりお経のイメージであるという重々しいA主題がオスティナートっぽく現れ、当曲の性格を決定づける。個人的には、主旋律の動きがガーシュイン(ラプソディーインブルー)の音の運び方も想起した。ま、それは他人の空似だろうが……。続いて音調が一気に明るくなり、B主題となる。ここで精神は、一気に天空へ飛翔する。そしてC主題ではそれが行進調となって、解脱の境地へ向かう。
第2部は女声合唱でそれらが繰り返される。最初は黛敏郎の涅槃交響曲がごとく、声明を思わせる男声合唱で行おうと思ったそうだが、使用ソフトの男声合唱音源がしょぼかったようで、試しに女声合唱を使ったら、まさに迦陵頻迦の飛び声がごとき典雅さ、神秘さと不思議さ、有り難さ、あるいは一種の官能的法悦が伴ったというので、これは怪我の功名か。
第3部は再び第1部と同じく弦楽に、ティンパニが加わってさらに重厚になって、オスティナートが行われる。ミニマルというより、音色や音源が変化しているので、やはりオスティナートだろう。ここのティンパニはまさに軍楽調で、エライ高揚感があり、涅槃というより大軍団の行進である。もしくは、都大路を強訴へ向かう僧兵の行進か。B主題に移って明るく変わり、C主題もほぼ変化せず再現して、10分ほどの幻想曲的交響曲を終える。
作者のYouTubeはこちら。
2021/1/10追記
第3部のC主題(全曲のラスト部分)が物足りなく感じ、改訂したと作者より連絡があったので紹介したい。主題や進行そのものはほぼ変わっておらず、バランス調整やオーケストレーションを変えたもの。
1分ほどの部分の改訂だし、そもそも弦楽合奏とティンパニのみなのでそれほど派手になったというわけではないが、厚みと変化に富み、効果が増している。改訂前は一本調子で音色の変化に乏しく「もへっ」としている音調だ。
12番改訂版のYouTubeはこちら
2023/3/14 追記
作者がまたも改訂したとのことで、ご連絡を頂いた。男声合唱の適切な音源ソフトが無く、女声合唱を使ったところだが、その後、良い男声合唱音源を見つけたとのことで、それを使用した第2楽章を追加した。また、他の楽章も新しいフレーズや金管による補強を加えている。演奏時間も、第2楽章の分だけ、4分ほど伸びている。またそれを機に黛敏郎と同じく「涅槃交響曲」に改題した。
第1楽章は変化は無く、アタッカで新しい第2楽章に至る。さらに分厚い音響でA主題がオスティナートされ、野太い男声合唱がユニゾンで読経を模す。楽想が変わり、よりリズミックとなって、そこから第3楽章の女声合唱に主題ユニゾン詠唱が移るが、改訂前に比べて、女声合唱というよりオルガンに聴こえる。正直、そこはいじってないと思うのだが、最初、女声合唱パートはオミットされたのかと思った。ま、それは再生環境の問題もあるだろうし、明確な歌詞を歌わないヴォカリーズ方式のせいでもあるだろう。また、実際の声楽ではとても息が詰まって歌えないような長尺フレーズを機械的に演奏している(つまり、ブレスが無いのである)ので、ちょっと合唱的な音調には聴こえない嫌いも出てきた。第3楽章は、より東方楽土的な、法悦より清浄的な雰囲気が増している。第4楽章では金管が増やされ、さらに響きに厚みが増している。
なお、その後、作者とメールのやりとりをして確認し合ったのだが、初音ミク等の音楽ソフト、ヴォーカロイドというものがある。その作曲の技法の仲で、とても人間では歌えないようなテンポ、音域、長尺のフレーズをあえて機械に歌わせ、その効果を楽しむものがある。この12番の合唱パートも、そのように合唱の音源を使い、機械に自動演奏させて、人間が実際に歌う楽譜ではなく、純粋に機械が演奏した合唱パートとしてその効果を得ている。
12番再改定版のYouTubeはこちら
第13交響曲「宇宙のゆらぎ」(2021)
これまでの即興制作と、新たに挑戦しているDTMとを融合させ、新たな境地に迫らんとしている作品の萌芽とも言えるもの。すなわち、調性にしろ無調にしろ、即興による主題を多重録音し、純粋に「弾きながら」制作してゆく即興交響曲の制作方法に加え、制作したモティーフをDTMで加工してゆく方法との合体である。さらに音調変更も加わり、かつて冨田勲らによって隆盛を究めたシンセサイザーによる電子音楽の響きも彷彿とさせて、独特の世界を作り始めている。
タイトルは、無題で作曲し完成した純粋音楽としての13番の印象を改めて見つめ直したところ、明確な主題も展開も形式も何も無く、ただ音のみがその場に存在しているという儚い存在論が、まるで大宇宙の一瞬のゆらぎのようであるとして、後付けで付けたもの。「ゆらめき」ではなく、「ゆらぎ」というところに、理知的なセンスを感じる。宇宙創成の何百億年という大時間や、何億光年という果てしない距離感に比べれば、我々どころか地球の一生とて、ほんの一瞬である。その中にあって、確実に存在しているのだが、まるで意味を成さない無のようなもの。また、地球に届く極一瞬の重力波のゆらぎ。そういう存在にかけているのだろうか。
曲は3楽章制で、約24分。もはや土井田様式ともいえる、即興演奏で作成した音の塊である「ブロック」による。リンク先の解説にもあるが、第1楽章でワンブロック、第2楽章でツーブロック、第3楽章でワンブロック。
第1楽章は、重なり合う弦楽による無調の音の推移。息の長い旋律は、聴いて分かる通り無調なので、一般的な音楽に聴こえないかもしれないが、現代音楽を理解する者にとっては、これも立派な「旋律」である。何も、調性で分かりやすく聴いて楽しく歌えるアニメの主題歌のようなものだけが旋律ではない、ということ。だが、無調の中にときどき「調性っぽい」響きが混じってくる。無調と調性の混在という手法は存在しており、ここでは正確には「調性っぽく聴こえる無調」なのだと思われる。ブロックを延々とつなげたり重ねたりを繰り返せば、いくらでも時間的な延長が可能なブロック様式であるが、ここではワンブロックのみと最低限の提示となっている。広大無辺な宇宙を形成する最小単位が電子顕微鏡でも観察が困難な原子であることを考えれば、人間の作る音楽の長い短いなどというのは、考えても意味がないことなのかもしれない。
第2楽章の第1部も同じく無調によるが、テンポが変わっており、やや切迫感がある。まるでバッハのオルガン曲のように無窮道的に流れてゆくが、ここでも時々調性っぽい響きが顔を出す。後半には完全に調性のようになり、そのまま第2部へ続く。第2部も無調であり、第1部の変奏のようにも聴こえるが、関連性があるのかどうかは分からない。ここも後半は調性的な響きに収束してゆき、崇高で敬虔な気分となる。
第3楽章は第1楽章と相似関係にあり、確かに似たような響きである。低弦が、雄弁に聴くものを深淵へと誘導する。ここも調性感が強い。かつて、無調12音様式を開発したかのシェーンベルクは、アメリカへ亡命してから調性音楽へ戻ったとされる。しかしそれは経済的な打算ではなく、調性音楽も無調12音音楽の一種である、という発想に到ったから、らしい。言われてみれば、当たり前だ。調性だって12の音を自由に使っているのだから(笑) 従って、無調なのに調性感があるのは、たまたま作者の想像がそうしただけで、無調に変わりないのである。
などと考えている間に、曲は不安な響きと印象に徹したまま、消え入るように終わってしまう。ただ流れている環境音楽のようなもの、と作者の談にあるが、ここではまるで禅問答のような、実に日本的な存在感の問いかけがあるように感じた。
なお、即興交響曲というジャンルを開発した土井田だったが、即興で演奏したものを加工して曲に仕上げているのだから、それはそれで完全な即興ではなく、普通の作曲なのではないかということで、13番は通常の交響曲にしたそうである。
作者のYouTubeはこちら。
第14交響曲「メルヘン交響曲」(巡想交響曲)(2021)
旺盛な創作力を発揮する土井田が、85年ころより持ち続けてきた楽想をDTMによって具現化し、ようやく具体にお披露目となったもの、とのことである。既に独立して発表している3つの「交響巡想曲」を、些少の手直しを加えてまとめ、交響曲とした。「巡想」 という不思議なタイトルは、パレードのように様々な楽想が現れては消えて行く様態を現した造語だそうである。
ここのところ無調作品が増えていた土井田による、完全調性作品。鄙びた音調と、フワフワした遊園地的夢幻的な楽想により、作者は別称として「メルヘン交響曲」でもよいとしている。私も、むしろそちらの方がピッタリ来ていると思う。3楽章制で、18分程。
第1楽章。第2交響巡想曲「もう1つの不思議の国のアリス」が丸ごと準用されている。リンク先の解説によれば、6分程のあいだに15楽想25プロックが詰めこまれている豪勢なもの。擬似バロック風味の、土井田得意の楽想が心地よい。短い動機による楽想が次々に現れて消えて行く、まさにパレード様式に相応しいものだが、これは、いわゆる幻想曲形式でもある。その動機が細かく連続して現れ、あまり展開せずにメドレーのようになっているもの、と解することができる。おそらく作者は、パレードいうからにはテンポ設定をあまり変えずに、行列のようにゾロゾロと色々な山車やコスプレやダンサーなどが続いて行く様をイメージしたのだろうか。変奏曲になっているのかな? と、いうほど共通する楽想も現れる。特に後半は楽想の変化に気づきづらく、一本調子となる。全体に、原曲の副題通りに明るくて愉しく、また幻想的な性格を有しており、徹底されている。最後は少しテンポが落ちて、終結となる。
第2楽章は、第1交響巡想曲b「北欧の森」(改訂版)を準用したもの。こちらは5楽想22ブロックとなっている。「むすんでひらいて」を思わせる、リズミックで童心に帰る楽想にまず顔がほころぶ。まさに、森の中をウキウキとスキップしているような印象か。ちょっと伊福部昭の「子供のためのリズム遊び」にも近い、童謡的な性格を有している。こちらは22ブロックが大きく2つの部分に別れ、その対比も愉しめる。CかD動機あたりの、ホルンのプップクプーという音調も愉快。素朴で唐突な響きが、森の中の角笛を思わせる。まさに、マーラーの角笛歌曲の世界である。
第3楽章は、同じく、第3交響巡想曲「ロシアの春の祝祭舞曲」による。3全体では、最も規模が小さい。4楽想4ブロック。原曲が舞曲であり、ここもそのまま舞曲の性格を有す。当初の明るい踊りから、中間部は少し不思議な音調へ移り変わり、さらに盛り上がりつつ、短く終結する。ロシアの春の踊りというと、これはもうストラヴィンスキーの春の祭典以外に無いわけだが、あんな奇天烈で複雑怪奇なものでは当然なく(笑) 生贄も死なないし、誘拐もされない。平和で素朴な、暖かい踊りである。
惜しむらくは、パレードと銘打っているわりに、3曲(3楽章)とも似たような楽想が続き、変化に乏しい。実は変奏曲かな、と思う場面も多い。しかも、その3つの楽章もそれぞれ音調が似ているので、全体としてあまりパレード感が無い。
とも思うが、パレードと言っても様々で、そのパレード全体が「サンバカーニバル・パレード」「騎馬武者祭パレード」など、1つのテーマに基づいていると仮定すれば、楽章全体が基本調子からあまりはずれないで推移するのもアリかな、とも思った。とはいえ、3つの楽章共に同じようなメルヘン的性格を有してメルヘン調であるとするならば、ここはやはり「メルヘン・パレード交響曲」「夢幻的巡想交響曲」というような性格になっているのだろうと推察するし、別称とされるメルヘン交響曲のほうが、当曲の性格をより正確に捕らえていると思う。
作者のYouTubeはこちら。
2021/5/4追記
作者より、第3楽章をヴォリュームアップする形で改訂したとの連絡を受けたので追記する。第1楽章と第2楽章は「そのまま」とのことなので、第3楽章だけ触れる。全体に音質や音色も調整し直したということだが、大きく異なるのは大規模なコーダがついて、演奏時間が1.5倍ほどになったことだろう。というのも、改訂前は第3楽章だけ規模が小さく、寸足らずで物足りない嫌いは確かにあったのだが、作品全体の価値を貶めるほどではないと思った。が、作者としてもそれは感じていて、第3楽章を膨らませたという結果になった。
途中までは、ほとんど変わっていないが、やはり注目は盛り上がってからの長いコーダだろう。以前は、盛り上がってからいきなり終結していたが、主題をメリーゴーラウンドかパレードよろしく「巡想」させつつ盛り上がりを持続させ、オスティナートで昂揚させ、いよいよティンパニが祭り太鼓で登場。大いに盛り上がって終結する。
こうなると、スケールがいや増して、改訂後の方が聴き応えがあるというものだし、全楽章とのバランスもとれて統一感が現れている。改訂前は交響組曲っぽかったものが、より交響曲的にまとまったのではないだろうか。
なお、改訂にあたりタイトルを正式に「メルヘン交響曲」とし、当初の「巡想交響曲」をサブタイトルとしたそうである。
改訂後のYouTubeはこちら。
第15交響曲(2021)
既に作曲してある、独立した楽章を4つ集め、1つの交響曲としたもの。4楽章で40分近いもの。
もっとも、独立した楽章というのは、作者によるといつか交響曲に使おうとして、コツコツ作曲していたものだという。ただ、全てが15番のために用意されたものではなく、それぞれ漠然と、いつか○番として交響曲の楽章にしよう……と考えていたものを、4つ溜まったから(と、いうべきか)合体させた、ということのようである。
従って、4つの楽章に統一感はなく、言うなれば交響組曲のような姿にまとまっている。
それでは交響曲ではないではないか……。という方もおられるかと思う。また、まとまりが無いのではないか……。など。
が、そういう不必要な形式的な概念は、もはや21世紀、そして令和の時代には捨てていただきたい。とっくのとうに、交響曲というのはただ単に「作者が交響曲と命名した曲」のことをいうのだから。
既に1941年、ミャスコーフスキィが交響曲第23番「北コーカサスの歌と踊りの主題による交響組曲」という奇曲を書いている。これはなんと、交響曲の正式な副題が交響組曲というワケの分からなさだ。交響曲なのに交響組曲……交響組曲なのに交響曲。もはや、何がなんだか。
※ちなみにミャスコーフスキィの当該曲は本当にただのオーケストラ民謡組曲であって、交響曲でもなんでもなく、本当に名前だけ交響曲にしたという、私が知る限り最珍交響曲の1つである。
それに比べたら、組曲のように聴こえる交響曲など、可愛い物というか、何の不思議も違和感も無い。
第1楽章
「管弦楽の為の非定型フーガ」 という曲の若干の改訂。これはあくまで改訂前の原曲のタイトルを参考までに記しているだけであり、各楽章の副題ではないことに留意が必要だ。約8分。
とはいえ、タイトル及び形式にこだわる土井田による、非定型フーガという不思議な楽曲が採用されている。これは、厳格なフーガではなく、フーガっぽいもの、というような意味合いだそうである。
ファンファーレ風の主題が高らかに鳴り響き、それから導かれた主題が朗々と続く。するとスネアドラムが小気味よく鳴り始め、調子をとる。それから木管、弦と主題が移り変わり、フーガっぽい進行となる。そこにピョコピョコとスキップするような楽しげな主題も現れて、それも受け継がれて重なりあい、二重フーガとなる。2つの主題は幾重にも重なりあい、響き合って、中間部をやや過ぎた辺りよりテンポがアップ。主題も展開し、変容してゆく。そして序破急形式にも似た進行で、展開したままドーンと終わる。
フーガというよりカノンに近い響きとそのスネアドラムで、ラヴェルのボレロを想起させる作りになっている。
第2楽章
「二つの主題による交響変奏曲〜悠久の大地と文明の興亡〜」 という曲を、ほぼそのまま使用している。9分ほど。
元の楽曲の解説によると、第1主題が「悠久の大地」でヒンデミットの交響曲変ホ調の第2楽章よりインスパイアされたもの、第2主題が「文明の興亡」でをあり、ショスタコーヴィチの5番第2楽章にインスパイアされたもの、とのこと。これらを変奏曲風に扱っている楽章。
まず現れる勇壮な響きが、第1主題。しばし続いた後にピチカートやホルン、木管等に引き継がれ、推移する。そして、どこか映画「スペースバンパイア」のタイトル曲にも似ているような第2主題では、さらに緊迫感を増し、帝国のテーマか戦闘の音楽の様になる。第2主題の変奏はやや長く、複数ある。乾いた風が吹いてきて、雄大な広がりを見せる。が、やがて隊列は地平線の彼方へ去ってゆく。
どこか、大陸は中央アジアの風土の響きがする壮大な主題をもった曲。
第3楽章
「はがねの行進・延長版」 という曲の、テンポをやや落として使用している。当曲でもっとも短い、4分ほどの楽章。
ABA'B'CA'' の短い小ロンド・ソナタ形式っぽもの。通常のマーチテンポよりかなり速度の遅い重厚なコンサートマーチで、重厚なA主題から開始され、テンポがややアップした無窮動的なB主題に移る。ティンパニが加わり、さらに重厚感が増す。転調し、悲壮的に推移しつつ、打楽器も盛り上がって広がるが、そのまま一気に終わる。
第4楽章
「琉球風の主題を有する演奏会用序曲(琉球序曲)・改訂版」 これは、元曲の琉球序曲を改訂したものという。当曲でもっとも規模の大きな楽章で、15分ほどになる。
琉球風の主題といっても、楽章全体がモロに五音階、六音階のそれではなく、第1主題の一部がそれっぽい、というだけのもので、いわば通称なのだそうである。
短い序奏から、すぐに第1主題が始まる。3楽章を受け継いだ行進調のリズムに乗って、第1主題。上記の通り全体に沖縄っぽいわけではなく、後半の一部の推移がそれっぽい、というだけのもの。繰り返され(小展開)してから、土井田得意のピョコピョコしたお花畑風な経過部(第3主題ともとれるもの)を経て、第2主題。フルートの導入から、低弦により歌謡風の旋律。楽器を変えて第2主題がしばらく展開され、第九の第4楽章冒頭のような一瞬の経過部を経て、第3主題展開も現れつつ、展開は続く。ただ、あまり大きな音の跳躍や転調を用いたダイナミックな展開ではない。少しずつ少しずつ、じわじわと形が変わってゆくといった風情だ。全体に新古典的な作風を意識したというが、ロマン主義的な豪快さよりは、形式的な推移の美を意識しているといったところだろうか。
展開部後半(あるいは再現部)では、フーガの様にもなって主題が繰り返され、重なり、分厚くなってゆく。最後に第3主題が軽やかに飛び跳ねて、明るく能天気な雰囲気を作り、平和裡に終わる辺りは、開放的な琉球的展開といえるのかもしれない。
作者のYouTubeはこちら。
第15-B「ユーラシア」交響曲(2023)
15番の楽章を入れ替え、大規模改訂したものだが、曲の内容はあまり変わっていないといい、そのために15-B番という面白い番号となった。最大の特徴は、旧15番の第1楽章と第4楽章の順番を変えたことである。そして副題が「ユーラシア」となった。もともと、全体の響きは汎アジア的な雰囲気を持っていたので、言いえて妙なタイトルだろう。そのほかの細かな改訂は、リンク先の作者の言葉をご参照いただきたい。
ただ、以下の指標だけ紹介させていただく。
第1楽章:東アジア
第2楽章:中央アジア〜悠久の大地と文明の盛衰〜
第3楽章:ロシア近代の黎明
第4楽章:中世ヨーロッパへの懐古
作者のYouTubeはこちら。
第16交響曲「十二音変奏交響曲」(2022)
15番より立て続けに発表された16番は、なんとただの無調作品ではなく、純然たる12音技法によるもの。かのシェーンベルクによって理論化された12音技法はなかなか面倒な理論で、私などにはなんとなく理解するのが精一杯なシロモノである。詳細はぐぐっていただくとして、原則、平均律の12音を全て使い、旋律(音列)的には前後、和声的には上下に同じ音が重なってはいけないという厳格なルールがあるので、そのチェックが面倒で大変(複雑になればなるほど、プロでも間違う。もっとも、単なる聴衆にはどこが間違っているのかすらよく分からない。)なのだが、現代は音楽ソフトで自動的にできるが昔の作曲家は紙とエンピツとピアノでそれを行っており、頭が下がる。
しかし、そのルールに従えば、いわゆる音楽的センスがあまり無くても、機械的・計算的に作曲できるというメリットがある。その結果生まれた曲が、音楽的にどうかというのはまた別の問題だ。
シェーンベルクらは、この理論によって将来何の音楽教育を受けていない子供でも自在に作曲できるようになると思っていたという。(当然のように、なっていない)
土井田は若いころに思いついた調性感のある12音列を、DTMの助けによってようやく実音化でき、それによりまず4曲からなる変奏曲を作成した後、拡大して全13楽章の変奏曲とし、変奏交響曲としたとある。
ところで、12音技法の交響曲というと、ヴェーベルンの最初期の超絶大傑作「交響曲」(1928)がある。圧縮様式を得意としたヴェーベルンらしく、2楽章制で約8分ほどという最短交響曲の1つだが、この第2楽章が12音のルールに乗っ取った厳格かつ複雑な変奏曲だ。
また、短い多楽章制の交響曲といえば、ショスタコーヴィチの14番、メシアンのトゥーランガリラ交響曲、が高名だろう。
さて、当該曲は全13楽章で演奏時間は約26分半。各楽章が長くても3分、だいたい1分から2分なので、楽章ごとではなく全体として俯瞰してゆきたい。
作者によると、主要主題は12音列主題に、移高先の最初の1音を加えた「十三音区切り音列」を使用している。ベルクを範とした作者が、なるべく調性っぽい響きになるよう苦心しただけあって、凄く聴きやすい。教科書通りに音列の移高を延々と繰り返してゆき、茫洋とした響きを形作る。やがて、ピアノで反行形がぶつかってくる。ピチカートによる和音重奏を経て、不気味な音列動機によるワルツが始まる。これらの複雑な動機群は、それぞれ「原形ー反行形ー逆行形ー反逆行形」とのこと。同じ進行を弦楽合奏で繰り返し、オーケストラ演奏によって音価を縮めてカノン的に展開した後、弦楽合奏と同じ進行をオケで繰り返す。再び音列ワルツが始まるが、無味乾燥さと不気味さが増していて面白い。続いて作者によると「大魔王の降臨」という、荘厳な音調が現れる。ゲーム音楽にありそうな雰囲気だが、そこは「調性っぽい」特徴ゆえだろう。そして荒野から「天上のイメージ」へと向かうという、明らかな調性感の提示があり、3度目の不気味ワルツ開始。切迫感に溢れ、精神的な圧迫感がある。続いて作者が「ヴェーベルン的世界」とする、圧縮動機に分断された音列による点描世界が現れ、最後に音列連結による平和裡な三重カノンで幕を閉める。
作者のYouTubeはこちら。
丁寧に、12音技法の初歩的原則及び法則に則って作られた佳作である。ただ、正直、手間の割に効果は少ない作曲技法な気がしてならない。
第17番交響曲「宇宙の憂愁」(2023)
17番も12音技法を使った大作で、なんと9楽章制(1から4楽章を第1部、5〜9楽章を第2部とする)であり、演奏時間は90分。
作者はこれを、一種の「環境音楽」として志向しており、何かの作業をしながら「聞き流して」もらえるのがよいのだそうだ。それにしても、90分は長いし、環境音楽であれば川のせせらぎや波の音、森林の鳥の声などのほうが精神が落ち着く。憂愁の音調では鬱々としてきて、かなりストレスが溜まるし、そもそも飽きてくる。
個人的には、純粋な12音技法というのは10分を超えると音楽として成り立たないと思っている。技法・理論的に延々と作曲することができてキリがないうえに、よほどの工夫が無いと、ひたすら冗長で変化の無い音調がダラダラと続くだけだからだ。
その特性を、既に無調・12音技法の始祖達は把握している。シェーンベルク、ヴェーベルン、ベルクのうち、ヴェーベルンは最も厳格な12音技法を駆使したが、圧縮様式により、5分を超える楽章はほとんど無い。シェーンベルクとベルクは、12音技法を使った長いオペラなどもあるが、オペラのストーリーや歌詞という補助がある。またベルクは12音技法を使っても、調性を織りまぜて音調的構築を補佐している。
作者も、この曲はやろうと思えば楽想を延々と繰り返し、5時間でも10時間でも演奏することができるし、30分でまとめることも可能だという。90分というのは、作者の妥協と帰結の産物でもあるだろう。また、各楽章は、ほぼ10分となっている。
標題については、作者によると単なるニックネームで、曲の冒頭に現れる「『波のように起伏する霧』のような部分が『宇宙の憂愁』に相当する主題」とのことで、それに起因する。つまり、あまり深い意味はないとのことである。もちろんこれは標題音楽ではなく、もっとライトな印象の具現、あるいは思いつきの修飾語とでもいうべきものかもしれない。
しかしそれは、聴衆に誤解を与える。標題というのは、まったくもって、聴衆に誤解を与えるのである。
それは、かのマーラーが最も自作で危惧していたことで、意外と聴衆というのは標題に「こだわる」のである。こだわって、作者の思うところと全然関係ない意味にとって、ああだこうだと批判する。まるで、SNSで炎上するように。
その中で、第4楽章と第9楽章にラヴェルのボレロが印象的に使われている。
土井田の常で、リンク先の作者の動画に詳細な自己解説があるので、参考までに眼を通しておくのもよいだろう。ただ、作者からは、解説はあまりかまわず、ただ音楽だけを聴いた印象を語ってほしいと云われているので、参考にしつつも、純粋に聴いた感じの印象を述べたい。
まず第1部である。第1楽章から第4楽章までで、演奏時間は約40分。これだけでも、かなりのヴォリュームだ。音調としては、全編レントあるいはアダージョであり、時折速度が速くなる部分があるが、そのなかでもドローンやたっぷりとした主題は維持されており、復調のように2種類の曲が重なる。
冒頭の宇宙の憂愁の主題が、確かに愁いを帯びた悲しげで不安げな感覚を想起させる。正直、音調「だけ」で紹介すると、それが90分間、延々と続く「だけ」である。これは恐ろしい。作者はミニマル・ミュージックやドローンの重用も示唆しており、正にそのとおりの音調が続く。長大にして執拗、そして単調。この曲を語ると、それだけで終わってしまう。
それは、曲想の変化は(時々)あっても、音調(あるいは曲の性格)の変化が90分間、ほぼないことに由来する。第1部でいえば、2楽章と3楽章は存在意義を見いだせない。というか、ほぼアタッカで進行しているので、楽章の概念があまり存在していない。
4楽章では、ボレロのリズムがどこからともなく現れて、やがてボレロの旋律も現れる。が、憂愁主題の展開と衝突し、アイヴズばりの同時演奏、合体、分裂を繰り返して、やがて空間の彼方に消え去って第1部を終える。
アタッカで、第5楽章・第2部に突入する。
第2部は、約50分である。音列の逆行や反逆行などの楽曲的な創意があるが、形式及び音調的に、ほぼ第1部の再現に徹している。従って、またも同じような響きが延々と広がるのみ、ということになる。これを宇宙的と定義するのであれば、まさにその通りであろう。
第2部などは、丸ごとカットしても差し支えないとすら言える。いや、全曲を通して、第1と第4あるいは第9楽章のみで事足りるのではないか。従って、15分ほどで、当曲の性格はよく伝わると思う。
さて……。
是非は無いつもりだが、やはり12音技法というのは、作曲している方はなかなか面白いのである。自分で考えた音列をじっさいにアレコレ操作して、それが形になってゆく。ブロック遊びをしているように、作業が実際に形になってゆく。創作の中にも、単純な作業的面白さがある。
しかし、その成果をただ聴く方としては、作業の中身も分からないし、作曲の苦しみも楽しみも、関係ない。完成した成果物だけが結果であり、全てである。もっともこれは、あらゆる創作に通じる普遍的な価値観や態度だと思うが……。12音技法作曲というものは、その実作業の面白さと、成果物を鑑賞する面白さの乖離が激しいのではないか。
というのも、人間の聴覚は調性によって感情を想起する事が証明されており、音楽を聴いて感情が変化するのはそのためである。それを放棄した無調・12音技法音楽というのは、感情を想起させない数的な面白さや、音響的・音調的・音色的面白さやかっこ良さを刺激し、追求する他は無いのだろうが、上記の通り、聴覚的に10分が限界であるうえ、とにかく感情を想起させるとすれば一般的には不安、恐怖、緊張、焦燥、悪寒、嫌悪、不気味、等々の負の感情しか想起させ得ない。
その中で、当曲である。各楽章はだいたい10分前後であるが、なにせ、音調に変化が無い。しかもアタッカで90分間、ほぼ同じような音調で通される。それゆえの、環境音楽という定義づけなのではないかとすら思える。特に第2部は、全て第1部の焼き直してきな音調であり、上記の通り全カットしても問題ない。
しかし、繰り返しこそに意味がある音楽というものも確かに存在し、音調の変化がほぼ無いことに意味があるのかもしれない。純粋に、長いことに意味があるのかもしれない。変化の無さが、無限に広がる大宇宙を象徴しているのかもしれない。そこは、聴く人々が個々に判断するしかない。
前置きが長いが、ここで余計なお世話ながら作者得意の「短縮版」が作られる可能性もあるが、当曲においては、短縮版は意味が無い、と言わざるを得ない。何故かというと、最初から作者自身が「30分だろうと5時間、10時間だろうとかまわない」「聴き流される環境音楽」と定義している中で、あえて90分に決定しているわけだから、意識的にしろ無意識下にしろ、その90分には少なからず作者なりの意味や意図、必要性あるいは必然性があって、それを提示していることになる。
実は意味などない、適当にやったら90分だった、別に何分でもよかった、というのかれしれないが、それは聴く方には関係ないし、そもそも、それでは「30分だろうと10時間だろうとかまわないという定義の中での90分」と整合性が取れない。作者自身の創作理念と創作態度が、矛盾する。
そこに短縮版(あるいは延長版)など必要ないし、短縮するくらいなら初めからその時間にすれば良かった、となる。もしくは、聴き手が勝手に30分で切ればいいだけである。環境音楽なのだから。
逆に、さまざまな演奏時間のバージョンの1つとしてあえて作るというのなら、それでもかまわないが、作者の自己満足にどこまで聴衆(他人)をつきあわせるかという命題にぶつからざるを得ない。
そもそもアマチュアなのだから、聴く人の都合など無視して好き勝手にやればよい、というのも正解である。
アマチュアとはいえ、人様の時間を使わせているのだから、思いついたまま五月雨式に発表しその需要を一方的に求めるのではなく、発表する以上は最低限の配慮は必要なのではないか、というのも正解であろう。
聴きたい人は聴いて、聴きたくない人は聴かなくていい、というのは……ま、これはプロもアマも、作曲すらも関係なく、あらゆる分野のクリエイター全員に共通する態度だが……正解でありつつ、クリエイターの傲慢でもある。
世の中にはいろいろなタイプの創作者がいて、ただ創作するのが楽しくて、聴いてもらう(読んでもらう、見てもらう)のは二の次という自己完結型の人もいるし、やはり創作する以上は発表して第3者の感想や評価が欲しい、モチベーションになる、という人もいる。←たぶん、こっちの人のほうが多いだろうし、完璧な自己完結型の人は、そもそも創作物を発表しない。
私もこうして物書きとして自作サイト等で発表する側の人間だが、アマ創作者は、特にその自由度が高いだろう。
その中で、完全に自由に創作し発表できるアマチュアはむしろ幸福なのだが、さて、果たして今作は、その自由がどこまで許され、どこまで許容され得るのか。
「意味ありげな音塊を羅列して、文学者や哲学者も顔負けの解説をすることに、特別な趣味を示す人もあるにはあるのです。」(伊福部昭:「音楽入門」より)
あえてそういう効果を狙った(で、あろう)憂鬱な音響と音調の単調な持続というものが、重圧と緊張の他に、どのような感覚を聴衆に想起させるのか、という意味で、なかなかアヴァンギャルドな実験作に思えた。40分間無音より、むしろちゃんと中身のあるこちらのほうが、だ。
90分というのは、それほどの重さと意味を持っている。プロの作曲家では、このご時世、なかなか90分の曲など書きたくても書けぬ。まさに、アマチュアならではの自由な創作である。そのアイデアを含めた創作精神に、敬意を評したい。
作者のYouTubeはこちら
2023/7/29 追記
作者から既に「短縮版」を構想しています、というメールも頂いていたところだが、単なる短縮版ではなく、改訂した結果、短くなったとのことである。
そういう創作姿勢は、支持できる。やっていることは変わらないのかもしれないが、単なる短縮や延長というのは、あまりに安直に感じられ、実はずっと疑問だった。結果として同じことだとしても、改訂したというのなら、それは再創造の一貫ととらえることができる。言葉面だけの違いではないか、と思われるかもしれないが、言葉の遣い方というのは、非常にデリケートなもので、創作の根幹を示す部分でもある。
というわけで、17番は正式に改訂され、
第17交響曲B「無常」(2023)
と、なった。
詳細な解説は、作者の常により既にリンク先に示されているので、ここでは本来のこの項の目的である単なる曲の紹介に務めたい。
まず最大の特徴は、演奏時間がほぼ半分になったことである。
FM放送「現代の音楽」でつい先般(2023/7/23の放送だと思った)西村朗が語っていたのをたまたま聴いたのだが、西村によると、12音技法を含む無調作品の傑作は、おしなべて演奏時間が「10分以下」なのだそうだ。
それをラジオで聴いて、我が意を得たりと叫んだのだが、正直、私もそう思っていて、ハッキリ言って古典的構成力という概念の無い12音・無調作品で10分を超えると、脳がついてゆかない。ただただ、漫然と聴き流すだけになる。それを目的とするような挑戦的な作品もあるだろうが、私としては本末転倒だと思うわけである。
そこにアマチュアらしく90分という挑戦をした土井田だったわけだが、その創作精神の評価と作品の評価は話が違うわけで……。残念ながら、人に聴かせる(聴いてもらう)というより、単なる自己満足に終わってしまった感が強かった。
それを認識したものか、ほぼ半分に切り詰めた改訂を行い、副題も「無常」に改めた。なお、楽章の入れ換え等までの大規模な改訂版をアルファベット大文字のB、修正に止まるような直しはアルファベット小文字のbとして統一するそうである。
切り詰めても、40分あるわけなのだが(苦笑)
そこは、10分程度の特徴の異なる作品が4つ連なっているようなもの……と、考えると、交響曲としての姿が見えてくるような気もする。
西村の定義に当てはめると、この内容をそのまま「10分以下」にすることができれば、最高である。それはもはやヴェーベルンの圧縮様式を使用する他なく、土井田の求める表現とは根本から異なるだろうから、あまり望んでも意味のないことなのだろうが。
聴きどころは、やはり今作の最大の改訂部分であろう、終楽章集結部の長大なドローン及びティンパニによるクレッシェンドを含めた盛り上がりと、その減衰的崩壊である。
17番改訂版のYouTubeはこちら
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